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2008.06.08(Sun)

商人の歴史(8)~安史の乱と商業資本の果たした役割 

 大変長らくお待たせしました。「商人の歴史」シリーズの第8回目です。
  商人の歴史というより、ほとんど中国の歴史みたいになってきてしまってますね。でも、中国の歴史を避けて通れないんで、すいませんがしばらくお付き合い願います。
  さて、確か●前回は、唐の辺境防衛が強化されるに従って、中国国内で貨幣経済が発達していったという話をしました。物資の大量かつ頻繁な移動を伴うので、貨幣による決済でないとやってられなかったということですね。
  その兵力は、府兵制という、近代国家の国民皆兵に似た制度でまかなっていたんですが、今度は軍鎮というシステムに変わりました。府兵制は屯田兵に似た仕組みだったんですが、脱走者が多いわ、だいたい辺境ってのはやせた土地が多いんで、兵員の自給自足という原則が守れなくなって、軍鎮という常備軍に置き換わったんです。
  そうすると、あまりにも長い国境線が災いして、今度は軍鎮の統制が難しくなりました。電話も無線もなかった頃の話ですから、たぶん●今でもお馴染みのこういうケースが連発したんでしょうね。少なくとも、表向きはそういう理由で、軍鎮は悪い奴らだ、ということが言われ出したんでしょう。
  それをなんとかしようと、今度は軍鎮の監視をするための上位組織が生まれました。それが「節度使」です。●こちらのリンクを見てもらえば分かるように、異民族との国境に接するような感じでずいぶんたくさん置かれました。一応軍鎮の監視というのが存在目的なんですが、しだいにその地方の軍政を統括するような役割になっていきました。
  面白いのが、この節度使が保有する兵力が完全な募兵制だということです。つまり、節度使はカネさえあれば勝手に兵士を雇っていいわけです。これだと、密貿易なんかやって金儲けをするやつが勝手に軍事政権みたいなのを作るのを止められるわけがありません。

  そういう中で起きたのが「安史の乱」です。安禄山と史思明が起こしたので安史の乱といいます。775年に起こった反乱なんですが、なんと反乱側が都だった長安を攻め落としてしまいました。
  この反乱を指揮した安禄山と史思明という二人は、中国史を研究している元同僚に聞いたところ、なんとトルコ系だったそうです。名前が漢字だから分からないだけなんでしょうね。
  余談ですが、私がタイムマシンを一回だけ使っていいよ、と言われたら、聖徳太子がいたという時代に戻って、渡来人や豪族の顔を片っ端から写真に撮りたいんです。名前が漢字だから分からないだけで、絶対、日本人ぽくない顔の人が混じっているはずですから。あるいは、髪の毛をもらってDNA鑑定にかけても面白いかも知れませんね。
  トルコ系というのは、今までの唐王朝の中でもかなり異質です。唐の出自は隋と同様「武川鎮軍閥」という、万里の長城の北からやってきて定住した騎馬民族なんですが、それともまた違います。今のカザフスタンとか、ウズベキスタンにいる黄色人種がトルコ系ですね。一応トルコ人もそうなんですが、ペルシアやギリシア、アルメニアなんかと混血が進んでいるので、別に考えた方がいいかもしれません。
  そのトルコ系という異質な人間になんで辺境防衛を任せちゃうのか。日本で言ったら、対馬の警備を中国人に任せてるみたいなもんでしょう。とても危なくて見ていられないと思うんですが、唐の場合はいくつか理由があってそれを許したんだと思います。

  一つは、安禄山たちが現実に力を持っていたということです。要するにカネです。安禄山は西域、今の●東トルキスタンあたりで活動していたシルクロード商人だったんですね。
  シルクロード貿易って、よっぽど儲かったんでしょうね。そりゃ、東西をつなぐ比較的安全な、ここでいう安全というのは、商人が旅行するという意味ですが、そういうところってシルクロードしかなかったんですよ。大航海時代の終わりくらいになって、やっとインド洋航路が開拓されたんです。船が大型になったのと、アフリカ東海岸を牛耳っていたトルコ海軍をポルトガルが叩きつぶしたからなんですが、それまではシルクロードこそ富の源泉だったんです。なんといっても、ものを作らないで、商人たちからみかじめ料だけ取ってればボロもうけです。
  だからこそ、唐も必死になってここの権益を守ろうとしたんです。しかし、権益を直接守るとなると兵士の頭数が足りない。いろいろ仕組みをいじっても駄目だ。それなら、共通の利害を持っている人間に任せてしまおう、と考えたのでしょう。
  で、果たして安禄山が、黄河下流とか長江流域に住んでいる連中、いわば生粋の中国人を採用するかというと、するわけがありません。勝手に募集していいんだったら、自分と同じトルコ系と集めるに決まっています。そりゃ、簡単に反乱を起こされるわけです。

  また、もう一つの理由が、唐という国の仕組みです。●以前の記事で書いたとおり、律令制度というのは、支配者の文化的出自に左右されない普遍性があります。極端な話、安禄山が明日から皇帝になっても問題ないんです。漢文が分かる、もしくはそういう人が周りにいれば、律令制度というのは回していけるわけですから。
  逆に言うと、これを作った唐の政権側は、「素晴らしい仕組みだから他の民族にも応用できるはずだ」と思っていたんじゃないかという気がするんですね。
  日本にも時たまいますが、外国人が低賃金労働者として流入しても、「市民としての義務や日本の法律さえ守れば構わない」という意見の持ち主がいます。だいたい地球市民とか平和人権愛好家だったりするわけですが、大東亜共栄圏みたいな感じで右翼にもそういうのがいたりします。
  彼らに共通しているのは、自分たちの理念は素晴らしいから、外国人にも通用するに違いないと思っているところです。唐は生まれたときから、高句麗一国も服属させられない隋のようなヘタレではなく、シルクロードを力で守るという使命を課せられた王朝だったわけです。だから、歴代王朝の中で唯一禅譲なんていう形で武力によらず天下を取れたのでしょう。そういう国ですから、はじめから無色透明で、グローバルな制度を作らざるを得なかったんじゃないでしょうか。
  まして、唐を担っているのは科挙官僚です。机の上で勉強ばっかりしてきた連中ですから、頭で分かるものしか信じていません。彼らの金科玉条は律令と中国の古典ですが、中国の古典には異民族に防衛を任せるとどうなるか、なんてことは書いていないわけです。だから、リアリティを持って事に当たることができなかったんじゃないでしょうか。

  あと、たぶんこれがいちばん大きいんじゃないかと思うんですが、「兵力が足りないなら、別に外国人を使ったっていいじゃないか」とか言って、皇帝を動かしていた連中がいるんじゃないでしょうか。シルクロード商人と、それと結びついた政権側の人間です。連中にとっては中国がどうなろうと知ったことではないんです。自分たちが安全にシルクロードを旅することができればそれで構わないからです。
  商業資本というのが、基本的に権力者の持っている余剰生産物をさばく役割を担うことで登場したという出自からして、いつの時代でも権力と商人が近い場所にいたというのは間違いないと思います。このときもそうだったんじゃないかということです。
  これは、ちゃんと記録に残っていることでもあるんです。安禄山は唐の宰相である「李林甫」という人と仲がよかったんですが、この人物の縁でかの有名な楊貴妃や玄宗皇帝にも取り入っています。
  この李林甫という人物こそ、安史の乱の最大の原因、というか、唐王朝をめちゃくちゃにした張本人といってもいいと思っています。李林甫は唐の太祖(一代皇帝)の家系に属する人なんですが、唐というのは何度も言っているように合理的かつ普遍性のある制度ですから、昇進もフェアで、軍功を挙げた軍鎮の司令官が中央で出世するという慣例があったんです。
  それが、創業者一族だった李林甫には気にくわなかったんでしょうね。なんと、節度使に異民族である安禄山を投入したのは彼なんです。たぶん、安禄山一派とグルだったんじゃないでしょうか。
  外国資本と手を組んで、旧来の勢力を駆逐しようとする連中は、古今東西その国の最大の癌であるといういい証拠です。日本に置き換えると、唐の太祖が児玉誉士夫や笹川良一のカネで自民党を結成した岸信介、安禄山が米英の金融資本や韓国系のパチンコ資本、軍鎮出身の政治家が小沢一郎さんや亀井静香さんっていう感じでしょうか。李林甫は、もう誰か言わなくてもわかりますね。
  自分の権力のために外国人と手を組むと、痛い目に遭うということです。李林甫は官位を剥奪、身分を庶民に落とされた末に、子孫まで僻地に流されたらしいです。日本の李林甫はどうなるんでしょうね?(笑)
  もっとも、李林甫だけを責めるわけにはいきません。異民族に防衛という重大事を丸投げしてしまうことを、当時の皇帝や科挙官僚、宦官などの政府中枢はあっさり認めてしまったわけですから、彼らにも責任はあります。誰か一人だけを売国奴と認定して葬る、こんなことで満足したから、宋代になってもっと大変なことになってしまいました。徹底的な反省が必要な問題です。

  で、安史の乱は8年くらい続くんですが、さすがに古代の軍隊では長安を征するのが精一杯でした。唐の政府中枢は四川省に逃れて、反撃の機会をうかがいました。結局、安禄山一族や、その跡を継いだ史思明一族の内紛があって、唐は長安を奪い返すことができました。
  しかし、実は反乱軍を破ったのは唐の軍隊じゃなかったんです。なんと、鎮圧に外国の軍隊を使ったんです。その外国というのは、「ウイグル」という遊牧国家です。
  ウイグルは、安史の乱の鎮圧前から唐とは友好関係にあった国です。唐王朝ができた頃、突厥という強力な騎馬民族がいました。ウイグルは突厥の西側にいた部族で、唐が突厥を叩いてくれたおかげで勢力を伸ばしました。たぶん、唐も突厥を牽制する役割を期待していたんでしょう。
  その後、ウイグルは8世紀中頃に大帝国を築くことができました。ウイグルが突厥を滅ぼしたのは751年ですから、安史の乱と時期がよく似ていますね。建国の熱気が冷めないうちに、唐に援軍を送って、安史の乱を鎮圧したのです。
  実は、この時期にちょうどウイグルは遊牧をやめて定住し始めるんですが、そのバックには「ソグド人」という連中がいました。マニ教という宗教を信じている部族で、なんともっぱらシルクロードで商人をやっていたそうです。ウイグルの行政機構もソグド人が担っていたらしいです。
  もしかしたらこのソグド人が安史の乱やそれに続くウイグルの介入も、全てプロデュースしていたっていうことはないでしょうか。だって、後にも言いますが、安史の乱で一番得したのはウイグル、中でもその商業を担っていたソグド人なんですよ。
  まあ、こういうことを話し始めると陰謀論めいてくるので、このへんでやめておきましょう。(笑)。

  当たり前ですが、安史の乱鎮圧後、ウイグルは唐に対して政治的に有利な立場に立ちました。たぶん、見返りを具体的に提示してたんじゃないでしょうか。唐の対ウイグル貿易はすさまじい赤字になってしまったということが知られています。貿易というより、貢ぎ物というのが実態だったのかも知れませんね。
  外国人の反乱を、外国人で抑える。「夷を持って夷を制す」なんていえばかっこいいですが、実態はこんなもんなんです。後で出てくる宋王朝もそうなんですが、中国人は外国というものを「自分たちの理念通りに動く道具」みたいに勘違いしてきた節があります。
  そういう中国人の行動様式を説明するのに、「中華思想」なんていう言葉が使われたりします。唯我独尊の態度をさして使っている人が多いみたいです。私もそう思っていたんですが、はっきり言って誤用です。中華思想というのは、そうやって異民族に頼らなければ国を維持できなかったこと、さらには少なからず二度にわたって異民族に支配されてしまった恥を覆い隠すための考え方なんじゃないでしょうか。
  つまり、マイナスの意味のグローバリズムです。「我々は異民族に屈服したように見えるが、実は違う。我々が異民族を飲み込んだのだ。なぜなら、中原は世界の中心であり、辺境は本来であれば中国に属すべき土地なのだ」と、支配された恥をごまかすための方便だったんじゃないかということです。
  程度の差こそあれ、漢の時代もそうだったのかもしれません。しかし、それが本格的に固まったのは、唐の時代だと私は思っています。
  なぜなら、唐の時代に初めて律令制度をもって異民族に接したからです。普遍的な仕組みは、必然的に能力のある外国人を呼び込みます。理念的にはそれでいいんですが、実態は絶対に齟齬が起こります。安史の乱みたいな混乱を招くこともあるでしょう。
  そして、そういう仕組みで得をしているのは、国民なんかではない、安禄山やソグド人みたいな商人なんです。これは絶対に忘れてはいけません。商人の利益が、国民にとっての利益になるとは限らない、むしろ対立する場面も多いということです。

  このまま行くと、続編で宋王朝の話をするのが流れとしてはいいのかもしれません。しかし、実はヨーロッパで取り上げておきたいところがいくつかあります。西洋か東洋か、どっちにしようかちょっと迷っています。
  まあ、たぶんこのシリーズ自体次にいつになるか分かりませんから、どっちになるか楽しみにしながら、気長にお待ちください。それでは、今日はこの辺で失礼します。

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2008.02.18(Mon)

商人の歴史(7)~唐代の辺境防衛と貨幣経済 

  ずいぶんお待たせしました。例のシリーズの続きです。

  前回までのおさらいです。中国における商人の歴史、ということで見ていましたが、どうもそれは律令国家の歴史という感じになってしまいました。まあ、有意義なことは残らずふれておきたいので、それでもいいのですが、若干それてきましたね。一応議論の核を繰り返しておくと、「律令制というのは、近代国家にも通じる合理的国家観に支えられていた」ということです。
  合理的というのは、簡単に言えば「こうあるべき」という書かれたものがあって、それに現実社会を従わせるということです。どこの国も成文法といって、文字で書かれた法律を持っているわけですが、それなどまさに「書かれたものに現実を従わせる」ことで運営されていますよね。
  そして、それを人材登用という面にまで適用したのが「科挙」だったわけです。

  その「律令」と「科挙」こそが、唐帝国、そしてその後の中国を決定的に滅ぼした要因の三つのうちの二つだと私は指摘しました。今日は三つ目を取り上げます。それは「辺境防衛」です。

  辺境防衛、というのは、簡単に言えば首都を遠く離れた国境線を守ることです。日本の律令制、大宝律令にもちゃんとそういう仕組みがありました。太宰府と防人(さきもり)です。太宰府というのは今の福岡県の真ん中あたりですが、そこには「太宰大弐」「太宰少弐」という役人がいました。西日本全般を統括していたといいますが、実際は辺境防衛がその役割です。
  なにしろ、九州北部というのは、朝鮮から島伝いに簡単に攻め込むことができる場所です。鎌倉時代に元と高麗が攻めてきたときも、対馬や壱岐を経由して博多湾に来ました。のちの防人にあたる兵士が設置されたのは白村江の戦いの後ですから、唐や新羅がいつ日本に攻め込んできてもおかしくない情勢だったんですね。
  面白いのは、防人として配置されたのは東日本の男性がほとんどだったことです。そっちの方が人口が多かったからと言われています。もちろんそれもあるんでしょうが、どうも私は「朝廷という渡来系の弥生人政権が、東日本の縄文人を盾にしようとした」という構図が浮かんできてしまいます。まあ、これについて話していると何ヶ月たっても終わらないので、もう言いません。
  そういう東日本の男性が、旅立つときの切ない思いを込めたのが「防人の歌」です。さだまさしの歌ではありません(笑)。『万葉集』にも載っている立派な歌です。●こちらのサイトから抜粋させてもらいます。解釈は当ブログ管理人による適当なものなのであしからず。

  今年行く新防人が麻衣肩のまよひは誰れか取り見む  

(今年北九州に旅立つ防人の新しい麻の服(あさごろも)の肩に迷いが見える。いったい誰がこれを取り除いたりできるだろうか)

  葦辺行く雁の翼を見るごとに君が帯ばしし投矢し思ほゆ

(葦の生えている草原の上を雁が飛んでいる。その翼を見ると、あなたが背負っていた弓矢を思い出します・・・防人の妻)

  水鳥の、立ちの急ぎに、父母に、物言はず来(け)にて、今ぞ悔しき

(水鳥が立つように慌てて出発してしまい、父母に別れを告げられなかったが今になって悔やまれる・・・防人本人)

  東日本から北九州まで出かけて、3年間会えないのは、電話もメールも、郵便さえもない時代では相当つらかったことでしょう。
  これは、律令国家の本質をよく表しています。つまり、その土地に住む人間の感情や故郷への愛を無視し、目的合理性のみに従って人民を右に左に動かすわけです。フランス革命以降、「愛国心」というもので正当化されたものの正体がこれです。
  こういう現場で苦しんだり命を落とした人間の痛みみたいなものを知らないで、特攻隊は偉かっただのなんだの礼賛する人間というのは、私は理解に苦しみます。まあ、律令国家の支配層というのは、そういう人間、要するに人間をモノ扱いできる人間でないと務まらないのかもしれません。

  すいません、日本の話ばかりしてしまいました。中国に戻ります。

  私の推測ですが、唐という国は中国側のシルクロード権益防衛という使命を帯びて成立した王朝だと思っています。隋があれほど短期間に瓦解したのは、シルクロードという貿易の生命線を守ることができなかったことで、商業資本みたいな連中にそっぽを向かれたことが大きな原因ではないか、ということも述べました。
  唐は隋の轍を踏むまいと、成立当初から果敢に外征に打って出て、高句麗をたたきつぶし、最大の驚異であった突厥も服属させてしまいます。さらには朝鮮に根拠地を築いていた日本も白村江の戦いで叩いて、傀儡である新羅に朝鮮半島を統治させることまでしました。
  唐の強大な軍事力を支えていたのは、ひとつには出自です。武川鎮軍閥という、万里の長城の南に定住した騎馬民族の集団が、唐の母体です。中国の南の方には馬を飼えるような牧草地がありませんから、騎馬民族の方が常に軍事的に優位でした。そのいいところを持っていたんですね。

  そして、もう一つは「府兵制」「募兵制」いう兵力供給システムです。

  府兵制というのは、わかりやすく言うと「屯田兵」みたいなものです。唐代はまだ完全な職業兵士というものが存在していませんでしたから、辺境に農民を送り込んで、そこで自給自足させました。
  これは、唐が「均田制」という仕組みをとっていたので成立した制度です。均田制は、土地をすべて国家のものにして、それを国民にレンタルするという仕組みです。日本で言う「公地公民」です。日本で防人という仕組みが成立していたのも、公地公民制がとられていたからです。
  これと平行して、募兵制も行われていました。読んで字のごとく、金を払って兵士を集めることです。
  この辺の歴史を殷周の時代からずっと見てくると、ここでちょっと「おっ」と思うんです。蜀の劉備なんかそうですが、中国の軍隊というのは基本的にそこらへんの武装集団みたいな連中なんです。それが合従連衡だとか男気に惚れたり(笑)とかで、「ドラクエ」のキングスライムみたいにどんどんくっついてでかくなって、いつの間にか皇帝とか名乗っちゃってる。それが中国式の立身出世なんです。
  ところが、唐の律令には、そういうものとは違う高遠な理想を感じるんですね。当時の社会の中で、「こうあるべきだ」という合理的国家像を描いて、それを忠実に実行しようとした。そういうものを感じるんです。
  合理的国家像というのは、少数の賢い指導層が、土地と人民を完璧にコントロールし、ある種の利益を極大化するというものです。唐の場合は、それが「広大な領土の統治」、なかんずくシルクロード防衛だったという気がするのです。
  そして、律令の理念からすると、偉大なる唐帝国を支える主力軍として府兵制の兵士たちが君臨し、それを補助するシステムとして募兵があった、そういう感じがします。
  もっとも、現実はなかなかそうはいきません。府兵制はさっさと崩壊しました。兵士の脱走が相次いだからです。日本の防人でさえ、行きたくない、家族が心配だと歌に詠んでいたくらいです。華南の農民が、シルクロード方面に送られたら発狂してもおかしくありません。
  しょうがないので、唐王朝は7世紀後半に軍政改革を行いました。「都護府」という常備軍を辺境に配置したのです。これだと自給自足はできません。というか、シルクロード方面では、そもそも雨があまり降りませんから、農耕を大規模に行うなんて無理です。だから、おそらく、後方から食料や生活物資を供給することになったでしょう。
  後で詳しく述べますが、私はこの現象が貨幣経済の活発化につながったと思うのです。なぜなら、辺境の需要と、生産現場を結びつけるには、流通を発達させるしかないからです。そうなると、現物による決済は難しくなります。だから、唐の朝廷は銅銭を鋳造して支払いに充てたのです。
  それを証拠に、8世紀になると、現金で税を納めることを原則とする「両税法」という仕組みができあがっています。それだけ、中国の各地方に貨幣が行き渡っていたということです。そして、その要因は、唐王朝が銅銭をバンバン鋳造したことにあります。その貨幣を徴税という形で回収して、再び取引に用いるわけです。
  この貨幣経済がさらに進んで、唐後期になると「飛銭」と言われる手形まで用いられるようになります。手形の本質というのは、現金同様の決済機能です。それだけ、商業取引が活発化していたのでしょう。
  貨幣経済の拡大は、商業の拡大とコインの裏表のような関係にあるのです。

  学問の世界では、何か自然法則みたいにして生産手段が発達したり、貨幣経済が拡大したりしているみたいに描かれることが多いです。そうでなくても、「なぜ貨幣経済が拡大したか」というところのスタートの部分があまり説明されません。少なくとも、私は最近まできちんと知らされていませんでした。
  中国の歴史を見るとわかるのは、商業が活発になったり、貨幣経済が拡大したりするというのは、全て権力側が必要に迫られてその仕組みを促進していることが原因だということです。ここは大事です。権力や軍事と切り離した貨幣経済だとか、市場経済というものはありえないのです。

  ここまでの話をまとめると、唐の時代の中国の国内経済の流れは、「府兵制の崩壊(貨幣を媒介しない軍事力が衰滅)→都護府の設置(軍事力の維持という要請)→大量の物資の流通→貨幣による決済が激増→両税法導入(貨幣経済の固定化および促進)→さらなる貨幣経済化」という形で説明できると思います。

  次回は、辺境防衛に戻って、唐王朝の犯した決定的なミスについて述べたいと思います。

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2007.12.12(Wed)

商人の歴史(6)~合理的国家を支える科挙 

  あの、話し言葉で・・・ということなんで、最初にちょっと余談しますが、許してください。
 
  私このシリーズ結構好きなんですよ。書いていくことで自分自身がものすごく勉強になるし、気合い入れてアホみたいにリンク引っ張ったりした記事よりも反響がいいんで(笑)。

  これはみなさんにもお勧めしたいんですが、どんなに稚拙でも構わないから、まずは自分なりの歴史の流れみたいなものを作ってみるといいんじゃないでしょうか。別にそんなたいしたもんじゃなくてもいいんです。事実誤認だったら後から直せばいいし、そもそも細かい事柄をいちいちフォローする必要はありません。
  私はだいたい中学1年生くらいから歴史というものに興味を持ってきましたが、若い頃の「覚えるのが楽しい」というところから、ずいぶん変わってきました。このシリーズが目指しているのは、暗記が苦手な人でも、歴史の「意味」を自分なりに作っていってもらうきっかけになることです。

  それじゃあ、始めましょう。前回は、中国の唐王朝の時代に本格的にできあがった「律令」という仕組みについて説明しました。この律令というのは、コメント欄でしょうたさんが面白いたとえをしてくれましたが、「西洋音楽の楽譜」と似ています。ルールに則ってプレーできれば、プレーヤーの生まれや文化的背景を問わないからです。
  律令を貫いているのは何かと言われたら、間違いなく言えるのは「合理主義」です。なぜ均田制といって、国家が土地を国民に割り当てるという仕組みを取るのか。その方が、領土を巡って争いが生じないので、合理的だからです。尚書省とかいう役所が存在するのは、中書省が作った勅命を伝えるためです。とにかく、律令の中にある仕組みには、全て必然性があります。
  こういう仕組みを導入すれば、唐という巨大な国を一つにまとめることができます。それは同時に中国を一個の商圏にできるということですから、権力者、つまり皇帝の周囲にいる御用商人にとっては非常にありがたいことだったでしょう。

  ところが、困ることがあります。この律令制度を忠実に動かしていくための人間がいないのです。

  日本みたいに貴族を使ったらどうなんだ?と思うかもしれませんが、そういうわけにはいきません。
  あと、中国の場合、だいたい戦乱を勝ち抜いて新しい王朝が生まれるもんですから、皇帝一家の補佐をやるような有力な貴族なんていうのは、おおかた皆殺しにされています。いつでも代打がいる状態では、天から統治権を授かる、すなわち易姓革命の論理が成り立たないからです。
  ここは同じランドパワー(大陸国家)でも、ロシアと違うところです。ロシアの場合、「モンゴル(キプチャク汗国)」や「カザン汗国」みたいな明確な敵が外部にいたので、内部での権力闘争に使うエネルギーを外部に放出できたのに対して、中国の場合は長城の中というリングが決まっているので、その中でバトルロワイヤルをやるしかなくなるんですね。もっとも、ロシアもソ連崩壊でエネルギーの外部放出ができなくなって、内乱みたいな状態になったことがあります。
  とにかく、そういう国では、二番手三番手を張れるような実力者を生かしておくと、いつ自分がやられるか分からないのです。だから、統一国家ができるときそういう有力勢力は軒並み殺害するか骨抜きにしてしまいます。

  そこで、使うことにした仕組みが「科挙」です。

  科挙は、要するに人材登用試験です。秀才や進士といった6科目を、2回に渡って行います。かなり過酷な試験だったようです。●こちら●こちら(続きになっている)に、その様子がよくまとめられているので、ご覧になっていただくと面白いです。

  科挙が導入されたのが、久々に中国での統一王朝が実現した隋王朝の頃だったというのは、興味深いです。行政組織をきちんと作ろうにも、手足となって働くのに適当な人間がいなかったということです。
  隋は、結局十分な人材を登用できないまま、30年くらいで幕を閉じましたが、この仕組みはきっちり唐に受け継がれました。大運河といい、科挙制度といい、隋は唐に多くのものを残していったことがよくわかります。
  この科挙ですが、「登竜門」だと言われていたというのはご存じでしょうか。この試験に受かると、竜になれるわけです。要するに、どんなに身分が低かろうと、受かりさえすれば一生政府の役人として高い身分を保障されたのです。
  そういう試験ですから、当然みんな受けに来ます。倍率は3000倍なんてこともあったようですね。合格者が500人しかいなかった頃の司法試験でもせいぜい70倍から80倍くらいの倍率ですから、どれだけすごいかよくわかるというものです。
  こういうことをいうと、すぐ「受験教育の弊害」だとか、まあ私みたいな職業の人間には耳に痛いことが言われるわけですが、はっきり言って日本の難関大学受験程度で弊害うんぬんなんて言っているようでは甘いです。科挙の場合小学生くらいから四書五経の丸暗記やら、答案の書き方を勉強し始めて、合格者の平均年齢が36歳です。70歳過ぎて受かっても親族一同でお祝いしたなんていう記録が残っています。一生を科挙に捧げるわけですね。
  そんな人間使い物になるのかよ、とか思うかも知れませんが、なるんです。というか、そういう風にして、ものごとを丸暗記するのがクセになっている人間の方が、むしろ律令体制にはフィットするんです。
  記憶力を試す試験というのは、必ず出題される範囲や内容が決まっているものです。その枠内でどうやって知識を覚えたり、使ったりするかという能力が問われるわけです。四書五経に書いてあることは、まあ確かに役に立つんだろうけど、誰が何をどういったか、その解釈にはこういう仕方があるなんていうのを、丸覚えしていても、少し場面が違うことが出てきたらたちまち通用しなくなってしまいます。
  これって、結局律令と同じなんですよ。現実の世界というのは、はっきり言って人間は生まれてきたら必ず死ぬことぐらいしか確実なことはないと思うんです。昔みたいに、科学的世界観が発達していない頃は、不思議なことだらけだったはずなんです。
  しかし、律令というのは違う。皇帝が治める中国という国はこうなっていて、こういう風に治められなければならない、という風に、あらかじめ決めつけてしまうんですね。普通は、現実にいろいろ起こってからそれに対処するということを人間はやっているんですが、そうではなくて、「世界はこうだ」と決めつけて、その中で自己完結させるのが律令という合理的システムなんです。
  はっきり言ってしまえば、一種のフィクション、ファンタジーです。近代国家というのもそうでしょう?権力を三つに分けてとか、議会が作った法律を根拠にして政治をするとか、いろいろやってますけど、これって考えてみたら変じゃないですか。「国家」とか「法体系」なんてものは、誰も見たことがないはずです。人間が考え出したという点ではフィクションです。
  そういうものを運営する時、人間関係だとか縁故だとか情愛とか、そういったものを優先させてしまう人間は邪魔なんですね。コネで採用するとか、かわいそうだから税金取るのをやめておこうとか、そういうことを必ずやってしまいますから。
  それなら、科挙で選んだ人間の方がいいわけです。科挙人間は勉強漬けで生きてきた人間から、個別の人間関係はともかく、律令だとか国家だとかいったフィクションがあると、それをまず忠実に覚えようとしてくれます。そして、それがあるべき姿だと思って、現実に反映させるようにがんばってくれます。

  善し悪しは別として、近代国家にはこういう「科挙官僚」が必要なんです。だから、近代になってもこれを真似した国があります。革命があった後のフランスです。今でもある仕組みなんですが、「グランゼコル」というのがそれです。まあ、特殊な大学みたいなもので、中に入ってからも科挙みたいなすさまじい量の勉強を課されます。昔は貧しい家の師弟がのし上がる手段だったみたいで、●こちらのブログの記事にそういう雰囲気をよく伝えてくれる記述があります。
  以前、●このシリーズの記事で私は、革命後のフランスというのは保守的な文化伝統がほとんどない国になったということを話しましたが、それとも関係があります。百年戦争だとか、絶対王政の時代は、フランスの官僚というのは貴族から供給されていました。しかし、この貴族というのはやっかいな存在なんですね。気位が高いし、いざとなれば自分の領地に帰って生活していくことができるので、なかなかコントロールできないんです。商人みたいにお金だけあって身分が低いひとたちにとっては、特にこの貴族出身官僚というのは鬱陶しくてしょうがないのです。
  だからフランス革命やって貴族をみんなぶっ殺して、「グランゼコル」を出た科挙人間を官僚にするようにしたという言い方もできるんです。何しろ、科挙人間は自分が学習能力で偉くなったという自負がありますから、システムとか法体系とかに異常なまでに固執してくれます。そして、ここがおそらく、多分一番大事だと思うんですが、合理的だと思ったことは制度として採用してくれるんです。
  唐の律令というのは、近代を生きている我々にとっては無駄が多い時代だなという感じがするんですが、当時からすればすさまじく合理的なシステムだったと思います。もちろん中国のことですから(笑)ボロはすぐ出ちゃったんですが、何しろ人間の感情や欲望を無視して合理的に国家が運営されるということを、あの時代にあそこまで追究できたっていうのはすごいことだと思うんです。もちろん、いいか悪いかは別ですが・・・。

  でも、すぐ感じるんじゃないですか。科挙にしろグランゼコルにしろ、「非人間的」な匂いがすると。何か、科挙人間って、人間と言うよりは、コンピュータみたいですよね。
  それは間違っていません。偏見だというそしりを覚悟でいいますが、科挙というのは、行政を担当する人間の人間性を抹殺するためのシステムなんです。合理的な世界観を植え付けて、人間を生まれ育った土地だとか、家族だとか、文化伝統から切り離して、為政者の命令通りに動くロボットにするということです。
  何のために必要かって?政治を担当する人間に反抗させないためです。科挙官僚が反乱を起こした話なんて、私は聞いたことがありません。フランスのグランゼコル出身者が暴動に加わったという話も聞きません。軍人という連中と、正反対の存在が科挙官僚なんです。
  もともと、律令が国籍や文化的背景を問わない「透明な」仕組みだったわけですから、それを扱う人間も「透明な」人間じゃないとダメだということです。自分流に解釈をしたり、地元を優先したりする人間はダメだということです。
  彼らは科挙官僚になる過程で、曖昧な判断だとかその場その場に応じたテキトーな行動を否定するようにしつけられていますから、官僚になった後も合理的「だとされている」価値観や仕組みを忠実に反映させる人間になります。だから、官僚というのは合理的だ合理的だと信じさせることができれば、要するに「洗脳」すれば、あとはそっちの方へ突撃してくれるんです(笑)。昭和初期の革新官僚とか、いまどきのグローバルスタンダードを盲信している若手官僚とか、みんなそういうパターンですね。
  だから、真の意味で政治を支配したいと思えば、科挙的官僚が「すばらしい、合理的だ」と信じるような仕組みなり雰囲気なりを作り上げてしまえばいいんです。「大学」と「マスコミ」さえ握れば、そんなに難しい事じゃないですよね。多分、昔イギリス、今アメリカといった国々、ていうか、そういう国々を支配している商人(たとえば、●こういう連中)は、そうやって日本を含めた後進国を動かしているんじゃないでしょうか。ああ、この一家の話は、しばらくしたら独立して扱うかも知れません。
  
  ともかく、律令という合理的世界観と、それを支える透明人間である科挙官僚を備えた唐というのは「世界史上初めて生まれた近代国家」だと言っても過言ではありません。

  しかし、それが国家として本当にうまくいくのか、ということはまた別の話です。

  「律令」「科挙」以外にも、唐が繁栄し、また滅んでいった要因がありました。それが「辺境防衛」です。

  ずいぶん長くなりそうですね。多分、こんな感じでダラダラ続いていきます。続きをお楽しみに。

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2007.12.06(Thu)

商人の歴史(5)~律令制について 

  題名を見て「また始まったか」とか思わないでくださいね(笑)。

  さて、だいぶ前になりますが、唐の反映が絶頂を極めた裏に、既に滅亡に至るメカニズムが内包されていたという話をしました。

  専門的に細かく見ると、府兵制についての話とか、いろいろあると思うのですが、私はもう思い切って話を三つに絞ってみたいと思います。すなわち、唐という最強国家が最強国家となり、また没落していったその要因は、

  「律令」

  「科挙」

  「辺境防衛策」


  この三つだけだと断定してしまいます(笑)。もちろん、専門的な視点からすれば、とんでもないという批判は承知の上です。

  さて、まず一つ目の「律令」から見てみましょう。

  律令というのは、簡単に言えば「成文法」のことです。「律」というのは刑法のことです。「令」というのは、それ以外の法律、たとえば行政法だと思えばいいでしょう。一応付け加えると、これだけだと細かい部分の調整がきかないので、あとから「格式」というものも追加されることがほとんどです。要するに、「規則」「施行令」みたいなもんです。「延喜式」とか日本史でも出てきましたが、あれです。
  何でこれが唐が滅んだ原因なんだよ、という人もいそうですが、それはひとまず置いておいて、何で律令なんかわざわざ作ったのか、というところが問題です。
  目に見えるように書いてあるルールが成文法です。だから、何をやったらダメかということが、圧倒的に分かりやすいのが特徴です。まあ、法学の世界なんかでは「大陸法」っていってフランスとかドイツがそういう感じだとかよく言われます。イギリスはそうじゃなくて「慣習法
」だとか。
  でも、そういう区別とかはあまり重要ではありません。イギリスでも、新しいことや未知の分野を規定するときは、成文法を使っています。選挙法が良い例ですね。そうなんです。実は、成文法には、「未知の事柄も枠内にあてはめて飼い慣らすことができる」という特徴があるんです。
  唐や、その土台を作った隋がなぜこんなものを導入したのかといえば、簡単に言えば未知のものを飼い慣らす必要があったからです。要するに「異民族」です。
  もともと隋も唐も、「武川鎮軍閥」といって、万里の長城の内側に無理矢理住み着いちゃった騎馬民族です。民族で言うと鮮非(せんぴ)系です。だから、揚子江の辺りとか、シルクロードの先の方にいる連中なんていうのは人種が違うんです。
  ひょっとしたら、言葉も違ったかも知れない。この時代の写真が残っていれば一発でわかるんでしょうが、多分「中国」というのは顔も言葉も違う連中の集まりだったんじゃないかなと思うんです。

  でも、それだと都合の悪い人たちがいますよね。それが「商人」なんですよ。

  以前、唐が隋から禅譲を受けたのは、商人、ここでは商業資本といった方が適当でしょうか、そういう連中が唐の方に乗り換えたからじゃないか、という話をしました。その理由は、隋と違ってシルクロードを守ってくれそうな勢力になりうるからじゃないかということも話しました。
  商人というものの発端が御用商人で、権力者の周りで御用商人が動き回るために作られたのが「都市」なのだとしたら、ごく初期の、たとえば孔子が生きていた時代の中国では、いろんな場所にプチ権力者(笑)みたいなのがいて、それぞれ商圏を形成していたのでしょう。「○王」とか言われる連中がそれです。
  しかし、秦や漢のような統一王朝が出来た辺りで、度量衡の統一や貨幣の大規模な鋳造が行われて、「中国」という統一市場が出来たのだと思います。まあ、この辺は国家がどうやって出来るかという難しい話になってしまうので、もうやめておきましょう。
  中国の商人たちにとって、一番儲かるのはシルクロードを使った交易です。絹織物、塩、茶、唐の時期になると陶磁器なんかも加わってきますが、そういった中国ならではの商品は、外国でよく売れるんです。やっぱり、気候風土なんかの制約があって、中国ほどのものは作れないからでしょう。塩に関しては、内陸の人間が活動領域を広げるためにどうしても必要でした。岩塩は?という人もいそうですが、海水塩とどっちが使いやすいかは一目瞭然です。
  そのシルクロードを使った交易を効率よく行うには、「大量」の物資を「速く」「安全に」動かす必要があるのです。どうですか、推進力は違うけれども、ベクトルは今の中国進出企業とか商社なんかと全く同じでしょう。
  要するに、いつの時代でも商人、特に商業資本と言われるほどの大きな商人は「グローバリスト」になる資格があるということです。「グローバリスト」というのは、このブログが勝手に悪用している言葉で(笑)、利益を極大化するために、自国への影響を考慮せず積極的に海外に進出し、国家間の垣根を取り払おうとする勢力のことを言います。中国の商人には、そういう原型かあるんじゃないかという気がしています。
  そういう商人たちにとっては、律令というのは非常にありがたい仕組みだと思うんです。なぜなら、権力者が変わっても、フォーマットが同じですから、誰が何をやるのかが簡単に分かります。これが「人治」だったらこうは行かないんです。煬帝は賄賂を出せば何でもやってくれたけれど、その息子は潔癖で、商人の言うことを聞いてくれない、なんていうのじゃ困りますからね。
  中国は「人治」国家だと言われたりします。何をするのもルールではなくて人が動かしているのだということらしいです。多分中国の方が遅れているということを言いたいのだと思いますね。愛国ブログみたいなのが、よく中国は決まりを守らない、金のためならルールをすぐ破るとか書いていますが、そういうときにも人治国家だというのを言っていたりします。
  しかし、私の考えは逆で、中国というのは隋唐以降間違いなく法治国家だったと思うのです。それは、中国の歴代王朝が律令制を踏襲していったからです。多分、冷戦時代に流布した、毛沢東の時期の中国のイメージにとらわれすぎていて、中国という国を見誤っている人が多いような気がしますね。右も左もそうだと思います。
  律令という制度のキモは、「仕組みさえ覚えれば誰でも操作できる」「特定の民族や文化にかかわらず支配が可能である」という点でしょう。唐王朝の支配層は鮮非ですから、中国人じゃありません。まあ、もうこの頃は中国化していたんでしょうけど、多分食べるものとか南の方と全然違ったはずです。余談ですが、今でも中国は、北は小麦(麺)、南は米の文化ですね。でも、そういう違いは律令制では問題ではない。極端な話、漢文という共通語が使えて、律令の仕組みを理解できる人ならば、日本人でも政治を動かせるはずです。
  それはなぜかというと、律令は非常に合理的な仕組みだからです。ある分野の仕事はその専門の部署がやるべきだとか、税金を納めるのは一家の男を単位にするとか、頭で考えれば理解できることです。八百万の神にお米を納めて収穫を感謝するとかいう仕組みと、根本的に違います。ああ、言っておきますけど、別に新嘗祭が遅れているなんて言っていませんからね。
  中でも、唐の律令というのは合理的だったと思います。均田制という土地管理の仕組み、駅伝制に代表される情報伝達システム、わかりやすく明確な租庸調という税制・・・だから、唐の周りにいる国はみんな律令制を採用することにしました。
  ていうか、実は私、ここは順序が逆なんじゃないかと思っているんです。本当は、律令が良い仕組みだから取り入れたんじゃなくて、律令を使った方が国を治めやすかった連中がいるんじゃないかと思うんですよ。日本でいえば、ずばり「渡来人」です。
  律令っていうのは、オペレーターの人種だとか文化を問いませんから、外国の人間が乗っ取りに使うのに非常に都合が良いんですよね。多分、新羅やベトナム、吐蕃(今のチベット)も、インテリ亡命中国人みたいな連中が支配層になるために、その国のリーダーに「これなんかいいですよ」とか薦めた結果、律令制を導入したんじゃないかと思うんです。
  そして、その後押しをしていたのが、ある国を統一したシステムで統治してほしいと思う商人層じゃないかと思うんです。日本でも、大宝律令が施行されている前後に、和同開珎が流通し始めているのがその証拠です。
  ただ、日本の場合は、土着勢力の持っている感化力みたいなのが圧倒的に強かったんでしょうね。だから、中国のようにはならなかった。次の科挙のところでもお話しますが、中国はここで「超合理的国家」になってしまったことで、もう坂道を転げ落ちるようにしておかしくなっていくんですね。まあ、最後にはまとまる予定ですので、みなさんとしては一応「律令制は民族や文化を超えた合理的システムだ」ということだけ覚えておいていただければ結構です。
  
  そして、律令とフィットする人材登用システムが、「科挙」だったというわけです。

  すみません。時間がないので次回に回します。多分明日には更新できますので、引き続きお楽しみ下さい。

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2007.11.10(Sat)

商人の歴史(4)~グローバル帝国・唐の誕生 

  ●前回の記事で、中国の王朝の中でも隋・唐というのは非常に重要だという前振りをしました。今回は、この二つの王朝を通じて、中国が大きく変容していったということを考えてみたいです。

  隋というのは、非常に短命な王朝です。たったの4代で、30年続きませんでした。
  しかし、この王朝は、次の唐王朝への重要な橋渡しをすることになります。それが「大運河の建設」です。下記の画像をご覧下さい。
隋代の運河

  このときの大出費と国民への負担が仇になって、隋はあっけなく滅びてしまうわけですが、だからといってこの運河建設を過小評価してはいけません。
  大陸の川というのは、日本の川のように、急激に上流から下流に向かって流れていきません。どういうことかというと、遡上が可能なんです。ということは、船舶を使った大量の物資の移動が可能だということです。
  そして、この運河建設によって、中国は初めて南北が完全に結ばれたのです。具体的に言うと、通済渠と江南河が揚子江と黄河を結び、永済渠が天津と黄河を結びました。
  こういうものができて、一番嬉しいのは誰だと思いますか?もちろん、隋の皇帝は嬉しかったと思うんですが、一番嬉しいのは大商人だと思うのです。
  なぜなら、大きな商人なら、船を使って大規模な輸送ができるからです。私は●以前の記事で、「商社」が利益を出すコツは、ものが頻繁に動くこと(大量性・反復性)と、遠くからものを仕入れること(遠隔性)だという話をしましたが、そのためには有利な輸送手段が絶対に必要になります。
  だから、商人の歴史というのは、輸送手段・交通手段の発達の歴史でもあるのです。おそらく、隋の皇帝が勝手に考えたと言うより、御用商人のような連中、おそらくはシルクロードで中央アジアやヨーロッパと取引していた商人が考えたのでしょう。
  そういう人間たちが、メリットを訴えて権力者を動かしているのです。隋が滅んだのは、もちろん最大の敵である高句麗に対する遠征で過大な出費を強いられたという面もあるのですが、実は商人たちの「ニーズ」に応えすぎたことが原因じゃないかと考えています。

  完全に余談ですが、この隋を取り巻く国際関係を見ると、非常にためになることが多いです。
  当時、隋は高句麗という強敵を抱えていました。今の中国東北部から北朝鮮にかけて存在した、ツングース系の国です。この高句麗が、万里の長城の北にいる突厥(とっけつ)という遊牧民と手を組もうとしたことが、隋に高句麗遠征をさせた原因だったと言われています。
  このような隋の苦しい立場を的確に見抜いていたのが、当時の日本、要するに聖徳太子です。まあ、この人も実在したかどうかわからない人なんで、あえていうなら「蘇我氏を中心とした当時の大和朝廷中枢部」とでもいうべきかもしれません。彼(ら)は、隋から優れた制度や文物を仕入れる必要性を感じていました。そのためには、朝貢、つまり奴隷契約でない形で国交を結びたかったわけです。だから、「天子」なんていう、中国の皇帝しか使えないような称号をわざと用いた国書を届けたんですね。隋は、この失礼な国書に対して、返礼の使者をよこしました。要するに、対等にやりましょうという日本の主張を認めてしまったわけです。
  これは、現代の国際関係でも応用可能ですね。北朝鮮の存在する意味はそこにあるといっても過言ではありません。朝鮮人があれほど「高句麗・渤海史」を自分の歴史だといって譲らないのを、もっと利用した方がいいです。

  さて、そういう無理繰りをしていた隋は、簡単に滅亡しました。しかし、これはある意味、次の唐王朝の露払いをしたのだと思えば、納得がいきます。
  唐王朝は、中国の中では結構長続きした王朝です。7世紀初めに登場して、10世紀まで存続しました。
  この時代の中国というのは、はっきり言って世界最強国家といっても過言ではありません。これは、単に軍事力のことを言っているのではありません。
  この時代は中国が空前の豊かさを享受した時代でもあったわけです。もちろん、中国のことですから、別に庶民が豊かになったわけじゃありません。皇帝やその下にいる貴族連中が豊かだったということです。
  そのことは、唐代の文化にも現れています。今でも残っている「中国文化」というのは、大半がこの時代です。李白や杜甫に代表される「唐詩」、空海も学んだと言われる「書道」、今でも通用する高い技術を誇った陶磁器の「唐三彩」、それに歴史研究(修史)や真言宗・天台宗に代表される仏教の隆盛です。遣唐使船は、このような文化を日本に伝える役割をしました。
  唐が比較的簡単に全国統一を成し遂げることができたのは、隋のおかげです。隋の最後の皇帝が、李淵という北方の豪族に地位を譲り渡した、まあ禅譲というやつを行ったのもあるんですが、何より大運河が出来ていたおかげで、軍事作戦を非常に行いやすかったということがありました。
  これは推測ですが、おそらく隋代に力をつけた商業資本、隋の煬帝に運河を造らせた人々が、李淵の一族の方に乗り換えたというのが本当の原因かもしれません。もともと隋も唐も「武川鎮軍閥」といって、3世紀から6世紀にかけての南北朝時代に万里の長城の内部に移り住んだ騎馬民族でした。だから、黄河以南の漢民族と違って武力はあるわけです。この連中が内部での競争を経て強大になって、隋や唐になったということです。
  隋がなぜ中国を完全に統一できたのかと言えば、漢と同じで、シルクロードの起点に当たる中原といわれる地域を支配できたからです。具体的に言うと、今の陝西省です。

  あ、すみません。今軽くびっくりしたんですが、私の使っている一太郎2007というワープロは、「しゃんしー」って入れて変換すると、「陝西」という漢字が出てくるんですね。そういう文字入力をするニーズが相当あるんでしょう。日本と中国の相互依存がかなり進んでいる証拠ですね。
  こういう時代は、前にもありましたね。普通の人が上海を「しゃんはい」と呼び始めた時代です。ええ、第一次世界大戦後です。大陸進出のあと、ハシゴを外されて戦争へ・・・なんていう風にならないといいんですが。

  戻ります。この中原という地域を支配する、もしくは支配しそうな連中に、おそらく中国の商人たちというのは積極的に支援してきたんじゃないかという気がするんです。
  ここはシルクロードの拠点でもあるわけですが、同時にすぐそばにモンゴル高原があるのがおわかりでしょうか。要するに、遊牧民という危険な連中が商売の邪魔をしてくる可能性が高いわけです。だから、中国の支配者というのは、ここをきちんと守れる勢力でないといけないわけです。
  隋は、この点では失格でした。高句麗という、中原と何の関係もない場所にいる敵とダラダラダラダラ3回も戦って、しかも全部負けてる(笑)。だから、大運河作りに協力した商人たちに見放されてしまったんじゃないかと勝手に考えています。
  なにしろ、ローマ帝国の国庫が空になってしまうほど、中国側はシルクロード貿易で儲けていたのです。それを流通させている商人たちも、当然金を持っていたと見るべきでしょう。そして、そういう人たちが隋より唐を選んだというのが、禅譲の真相という気がしています。

  唐は、中国の支配者としてはもう文句のつけようのないくらい「優秀」でした。まず、東にいる高句麗を新羅と組んで叩きつぶし、大陸に干渉してこようとする日本とその傀儡である百済を白村江の戦いで叩きのめして、新羅を子分にして朝鮮半島を安定させました。
  これで、何の憂いもなくなった唐は、万里の長城の北にいる宿敵・突厥に大軍を差し向けて服属させます。これは大きいです。シルクロードの東端でちょっかいを出してくるチンピラ野郎が、もう悪さはしませんと誓うことになり、中国の商人たちは安心して貿易ができるようになったからです。
  こうすると、まるで何か唐の皇帝が商人たちの使いっ走り、用心棒みたいな感じすらしてきますが、それが本当なんです。つまり、大商人というのは常に国家権力と二人三脚であり、互いに補完し合っているのです。
  だから、国家権力と経済は別だという、新自由主義的な考え方というのは歴史の法則を無視した空理空論もいいところなんです。まあ、そういう連中も、国家権力を動かして自分たちが収奪しやすいキセーカンワだとかミンエーカなどという仕組みを作っているだけなんですがね・・・。

  そうやって、前代未聞の繁栄の時代を迎えた中国ですが、実はここにすでに落とし穴があったのです。歴史というのは面白いもので、ある国が繁栄の絶頂にある裏で、滅亡への青写真ができあがっていることがあまりに多いのです。唐もその例外ではありませんでした。
  
  というところで、次回に続きます。

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