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2007.10.22(Mon)

柏崎は今(新潟その2) 

信濃川の夕暮れ


  最近非常に多忙なため、記事の更新が遅れて申し訳ございません。新潟旅行の記事の続きです。

  10月8日のことですが、中越沖地震で被災した柏崎市を訪れました。

  地図を見ておきましょう。


拡大地図を表示

  (吹き出しは、右上の×印をクリックするとなくなります。)

  さきの地震でも被害を受けた「柏崎・刈羽原発」は、市街から北東に5キロほど離れた場所にあります。現地に入ってわかったのですが、昼1時頃まで見学用のバスが出ているそうです。知っていれば乗ってみたのですが・・・ちゃんと下調べしなかったことを後悔しました。
  もっとも、今回は原発うんぬんよりも、地震で被害を受けた場所の市民生活がどうなっているかという点を見てみたかったので、駅に着くと早速町中をぶらついてみました。

  柏崎の駅は、上の地図で見てもらうとわかるのですが、駅が北口しかありません。南側には、駅に隣接した地下道を通っていくことができます(地元のFMラジオが流れている・・・寂しい雰囲気を紛らわすため?)。
  まずは、駅の北側から見て回ることにしました。海水浴場へ向かう目抜き通りを北へ向かいます。
  商店街の歩道の脇に、こんなものを見つけました。
柏崎歩道

  例の地震で歩道のブロックがめくれてしまったようです。撤去されることもなく、こうしてあちこちに積まれています。しかし、商店街の町並み自体はそれほどダメージを受けているように見えません。
  この通りには、イトーヨーカドー丸大(地元資本の丸大とフランチャイズ契約をしているらしい)という大きなスーパーもあります。私は観光スポットより、普通の人がどういう生活をしているかが気になる方なので、すかさずのぞいてみました。
  もちろん、人でにぎわっていましたが、おもしろいものを見つけました。
まいたけパン

  地元新潟の「雪国まいたけ」を使った菓子パンです。
  新潟のスーパーは、どこへ行っても「新潟産コシヒカリ」しか置いていないので、県内産の食料品が多いのだなと思って取り上げてみましたが、やられました。正真正銘の東京産(笑)でした。見ると、どうも某大手パンメーカーが新潟向けに作ったというだけのようです。
  新潟県産のまいたけを東京の工場に持って行き、そこからトラックで出荷して柏崎のイトーヨーカドーで売る・・・ここに何か、不自然なものを感じるのは私だけでしょうか。

  職場向けの土産などを買って店を出ると、海岸の方へ向かいます。

  周囲と不釣り合いなほどきれいで大きな建物があるのでのぞいてみると、TEPCOプラザ柏崎という建物でした。1階が無料で使用できるラウンジのようになっていて、中学生や高校生が勉強や談笑に利用しています。
  ロビーには、原子力発電関係のPRチラシがたくさん置いてありました。なるほど、「地元の理解」を得るために、東京電力が作った施設というわけです。
  行政が作った箱物というと、マスコミや都会の人間に無駄だの既得権益だの好き勝手言われているようですが、ここは商工会議所や、新潟最大手の進学塾などが入居しており、きちんと利用されているようです。やはり、施設は人が集まるところに作らないと生かされませんね。
  そのTEPCOプラザ柏崎を出てすぐのところにあったのが、これです。
柏崎街灯

  けっこうな繁華街にあるのに、曲がったまま放置されている街灯です。東京から来た私に、「こんな地震があったんだぞ」と訴えているようです。
  その後、雨が降ったりやんだりしている中、海水浴場の方へ向かいます。気温が急に低くなってきて、肌寒さを感じ始めました。
  海水浴場はシーズンも過ぎているので、ただの砂浜でしかありませんでした。しかし、そのすぐそばにあったのがこれです。
仮設住宅

  仮設住宅です。失礼になるので敷地内までは入りませんでしたが、人の気配が確かにします。車の数などから見ても、どうやら「満杯」状態のようです。
  ここだけではありません。市役所周辺や駅の南側にもあり、かなりの数の仮設住宅がいまだに利用されているのです。
  一日二日で済むならいいのでしょうが、被災された方はもう3ヶ月近くこういう場所に住むことを余儀なくされているのだと思うと、やるせない気分になります。
  
  帰り道に、目抜き通りから少し奥に入ってみると、さらに気分が重くなりました。
  全壊したまま放置されている家が、何軒もあるのです。ロープが張られてはいますが、建築計画を示した立て札もなく、いまだに再建のめどがたっていないようです。
  外観はしっかりしているのに、全く人気のない家もかなりあります。そういうところには、例外なくこのような張り紙が出ています。
危険表示1

危険表示2

  これが現実なのか、と、肩を落としました。イトーヨーカドーで買い物をしていた人たちの中にも、我が家に帰るに帰れない人が混じっていたのでしょう。
  他にも、アーケードが傾いたままになっていたり、歩道の陥没がそのまま放置されていたり、復興も糞もないような状態が市内のあちこちに見られます。

  地元の新聞である●柏崎日報を見てみたのですが、どうも復興にむけた動きも芳しくないようです。
  なにしろ、未だに有名人による「慰問」が地元の話題になっているほどなのです。●例の軍隊式ダイエットで有名なビリー・ブランクスさんや、●歌手の小林幸子さんが最近も柏崎を訪れています。
  それすらも、東京に本拠地のあるテレビ局やインターネット上のニュースでは、原子力発電関連のニュースをのぞいてほとんど報道されていません。中越沖地震という地震の存在もすっかり忘れ去られているようです。
  印象に残ったのが、柏崎日報に出ていた地元信用金庫の理事長の話です。経営的に苦しいのはわかっているが、それでも赤字覚悟で融資をせざるを得ない。住宅の再建を躊躇すれば、市外県外の親戚を頼って引っ越しするケースが増えて、人口流出につながる。そうなったら信用金庫もやっていけないのだ・・・という話でした。
  私有財産である個人の住宅ならまだわかるのですが、繁華街の歩道に大きな穴が開いていても、埋めることすらままならないのです。よほど公共事業用のお金がないのでしょう。今の政府にとっては、●トヨタの部品工場さえ動いていれば、その周りにある市民生活はどうでもいいのかもしれません。
  新潟県の政治は田中真紀子衆院議員の影響もあって民主党が優勢です。そういうことも関係があるのかもしれません。これが山口県、というか長州だったら、不自然に多い新幹線の駅や大工場の数同様、真っ先に中央政府の金が回ってくるんでしょうね。
  つくづく、新潟や東北は冷遇されていると感じずにいられません。大災害が起こったら、立ち直れなくなる地方も出てきそうです。そういう事態にならないように、災害があったら十分な手当をすることで、人口流出を防ぐことができるのだと思うのですが・・・。

  以上の「被害」は、全て駅の改札がある町の北側で実際に見たものです。
  
  では、駅の南側はどうなのかというと、これがまた北側と好対照なのです。
  何が一番違うのかというと、店の大きさや種類です。柏崎駅の北側にもイトーヨーカドーがありましたが、南側には郊外型の大型店舗が目白押しです。「ガスト」や「ミスタードーナツ」といった、東京で見慣れた店もかなりあります。
  どうやら、駅の南側に国道8号線が通っているのが関係ありそうです。いわゆる国道16号線化という現象です。
  こちらに、関連した記事が出ています。

“国道16号線化する風景”
http://r25.jp/index.php/m/WB/a/WB001120/id/200704191107
--------以下引用--------
「どこも似てるな…」。郊外の国道沿いを走っていて、こんな感覚に陥ったことはないだろうか? 沿道にはファミレスやスーパーが建ち並び、どこでも均質的な風景が展開されてゆく…。

 (中略)

社会学者の北田暁大氏に話を聞いてみると…。

「東京周辺の郊外を走る国道16号線沿いなどに顕著な風景ですね。これに対する批判は確かに多々あります。例えば、通り沿いがチェーン店で埋め尽くされることで、地域の持つ歴史的景観が破壊され、文化や愛着心が育たない、という批判です。ほかにも、大型店の進出により駅前の商店がつぶれる“シャッター商店街化”の問題もあります」

 (中略。「そういう風景に親しみを感じる」という意見に対して)

「それが普通の感覚ですよ。特に若い世代には。僕も田舎でコンビニを見つけると安心します。もはや現代人の重要な居場所なんですよ、そういう場所って。チェーン店だらけの道沿いに、違和感どころか、生活のリアリティを感じる人は多いはず。だから批判するだけでは仕方ないと思います」
--------引用以上--------
 
  まあ、都会の若者向けで軽いノリのフリーペーパー向けの記事ですから、あまり深い内容は期待してはいけないかもしれませんが、だいたいこういうことです。
  確かに、この社会学者とかいう人物の言っていることは一面真理ではあります。私は夜中に柏崎を出るバスに乗る予定だったのですが、北口にはどこも時間を潰す場所がありませんでした。仕方なく、南側の「ガスト」で3時間近く粘る羽目になりました。そうなると不思議なもので、妙に落ち着くのです。都会で見慣れた、マスプロの空間にいるからでしょう。

  しかし、これが「いいこと」なのかというと、私は全くそう思っていません。

  理由は簡単です。このような現象が、都会の大資本による地方からの利潤収奪に他ならないからです。
  「ガスト」にしろ「ミスタードーナツ」にしろ、本社は東京にあり、地元の商店とは桁違いの資金運用力があるわけです。また、家族経営ではないため、長時間の店舗の運営も、アルバイトのシフトを組み合わせるなどして可能です。コストを下げるための物流システムや、原材料の価格自体を低下させる方法(たとえば、中国からの輸入)も持っています。
  本来であれば、そういう資本は大都会にいて、地方には出てこないはずなのですが、道路の整備によってその状況がすっかり変わってしまいました。物流システムを整えれば、短時間かつ頻繁な輸送が可能になったのです。
  これに追い打ちをかけたのが「大規模小売店舗法」の緩和と、円高でした。前者は長年アメリカが改正を要求しており(この時点で●グローバリストの策動だということがバレバレ)していた法律で、94年に規制が緩和されました。また、円高は1985年の「プラザ合意」以降決定的になった流れであり、これによって輸入が有利になってファミリーレストランが一躍消費の主役格に躍り出ることになります。
  そうやって都会の大資本が地方に殴り込みをかけ、地元の商店を駆逐していくことになります。
  利便性が向上するならいいじゃないか、などという人は、経済というものを何も分かっていません。東京の資本が地方で利益を上げたら、その利益が再び地元に還元されることはありません。その会社の利益になり、拡大再生産や株主への配当に回るだけです。雇用の改善に役立つなどというのも虚妄です。なにしろ、そういう店舗はマネージャー以外はみんなアルバイトであり、そのマネージャーも地元出身者ではなく単身赴任や県外からの移住というケースが多いのです。
  地方としては金が出て行く方が多いのですから、じり貧になるのは目に見えています。嫌な仕組みです。こんなものを礼賛できる人間は、車で東京から遊びに来ている人間や、上の引用記事に出ている(おそらく東京在住の)馬鹿学者、カイカク真理教信者といったアホだけでしょう。
  南側の道路沿いは、どこにも地震の被害のあとが見られません。大規模店舗の持ち主である大企業が自分の庭を素早く補修したからでしょう。道路も国道ですから、国土交通省がいち早く整備したに違いありません。未だに歩道に穴が開いていて、車道にはみ出さないと通れないところがある北側とはえらい違いです。
  どうも、今の日本では、至る所で「利潤の持ち出し」が目につくようになっています。都会の大資本が地方から利潤を持ち出し、その都会の大資本から、株主配当や利子返済という形で外国資本が利益を持ち出し・・・貧しい人や地域はどんどん貧しくなるという方向へ間違いなく動いています。
  それに対する反発が、さきの参議院選挙での自民党の大敗という形になって現れたのでしょう。
  今後は、企業の利益が地元にダイレクトに還流される仕組みを作らなくてはなりません。原子力発電所を作る代わりに、TEPCOプラザを作れば済む問題ではないのです。地元で出来ること、たとえば食糧生産やバイオマスエネルギーの生産、さらには単純な二次産品については、地元にやらせるべきです。
  先ほど出てきた「雪国まいたけパン」のようになってはいけないのです。ましてや、中国産の食品をふんだんに用いたファミレスが隆盛を極めるようなことはあってはなりません。見せかけだけの利便性向上に名を借りた利潤の収奪行為だととらえるべきです。そういう「侵略者」を導き入れることは、結局地方の経済がやせ細ることを意味し、やがて衰滅することになりかねません。

  柏崎駅の北側で夕食を取ったお店は、家族経営のようで、高校生くらいの娘さんがお店に出ていました。その子が、父親らしい店主の方に電卓片手に何か話しかけています。内容はよくわからなかったのですが、商品の計算の仕方を娘さんが工夫したようです。彼女の嬉しそうな口調と笑顔が印象に残りました。
  店のお客さんも、近所の家族連ればかりです。考えてみればこの日は祝日だったのです。休みの日の夜は、お母さんも大変だろうし、外でみんなでご飯を・・・という感じなのでしょう。

  一昔前の日本では、こういう光景が当たり前だったのかもしれません。

  忘れてはならないのは、地方にまだ残っている緊密な人的関係も、それを支える経済があって初めて成立するということです。学校で日本の伝統を教えたり、国を愛する態度を教えてからといって戻ってくるものではありません。そういうことを勘違いしている「自称保守」が多すぎます(どうせ、都会の人間なのだろう)。
  地方というのは、単なる場所ではなく、そこに生きる人々の結びつきなのです。私が住んでいる東京西部には、もうなくなってしまったものが、柏崎駅の北側にはまだ残っているはずです。中越沖地震の復興スローガンは、「がんばろう!輝く柏崎!」というものですが、駅の北側に活気が戻ってきてこそ柏崎という町も輝き始めるのだと思います。

  柏崎の町の、一日も早い復興を祈っております。

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2007.10.16(Tue)

「21世紀の出島」となれ~国際港湾都市・新潟の未来図(新潟その1) 

  10月7日と8日の二日間、新潟県を回ってきました。

  今回の目的は二つありました。(1)越後国一の宮(その地方の神社の親分)である「弥彦神社」訪問と(2)日本海側で初めて政令指定都市になった新潟市と、中越沖地震の被災地となった柏崎市の現状を、じかに目で見て回ることです。
  私は東京在住なので、新潟まで夜行の高速バスを利用することにしました。これなら土曜日の勤務後にすぐ出発でき、時間を有効に利用することが出来るからです。
  新潟行きの高速バスは池袋駅前から発車しています。同じことを考えている人はたくさんいるようで、かなりの乗客がいました。4号車まで満員です。結構繁盛しているようですね。
  高速バスの魅力は、なんといってもその値段です。新潟まで片道わずか5000円ほどで行けます(ちなみに新幹線だと約10000円)。しかも、朝一番に現地で活動することができる夜行があるので、短期間の観光には実にありがたい存在です。

  もっとも、新潟方面のバスの欠点は、「四列シート」であることです。長距離のバスでは「三列シート」が採用されていることが多く、これなら隣の乗客と干渉しあわずにトイレに行くことができます。四列だとまず無理です。
  四列シートのバスに乗るときは、出来る限り乗車前にトイレをすませておく方がいいでしょう。
  また、中で眠れるかどうかも大きいです。四列の場合窮屈だというハンデがあるのですが、同じくらい重要なのが「シートピッチ」と「リクライニングの程度」です。行きの越後交通のバスはリクライニングの角度が浅く、かなり頻繁に起きてしまう羽目になりました(帰りの頸城交通のバスはかなり快適だった)。
  この辺は、高速バス用の時刻表で確かめておくしかありません。夜行バスは、格安のバスと新潟方面をのぞいては、ほとんどが三列シートのようです。

  さて、バスが新潟駅前に着くのは朝の5時です。当然、周囲は真っ暗でした。10月7日は弥彦神社を訪ねる予定でしたので、電車が動き出さないと意味がありません。
  新潟の駅前であれば、24時間営業している「ロイヤルホスト」というファミリーレストランがあるので、そこで休憩することにしました。6時半くらいまで粘って、いざ出発です。

  弥彦神社のある弥彦村は、新潟市から1時間ほどで到着します。

  新潟県


  越後線という在来線で柏崎方面に向かい、途中吉田駅で弥彦線に乗り換えます。新幹線で行く場合、燕三条から弥彦線一本で行くことができます。
  弥彦駅から10分ほど歩くと、弥彦神社に到着します。

弥彦神社入口


  この周辺は、いわゆる門前町を形成していて、温泉も出るために観光旅館が何軒もあります。
  では、境内に入ってみましょう。

良寛和尚の詩碑


  神社のご神木です。傍らに、歌人・俳人としても有名な●良寛和尚が読んだ詩碑があります。

  弥彦神社の成立は古く、万葉集にもその存在が見られます。越後国を開いたと言われている「天香山命(あめのかごやまのみこと)」が祀られている神社です。
  
弥彦神社境内


  写真でも分かるように、鬱蒼とした森に囲まれています。伊勢神宮をはじめとして、奈良以前の古い神社というのはこのような山林の中に建てられています。おそらく、木材や食料となる鳥獣、さらには水源としても機能している森林に、神秘的なものを感じていたのでしょう。
  神社を訪れる意味は、その神秘的な何かを感じ取ることにあるように思います。

  さて、一番奥にあるのが天香山命が祀られている本殿です。

弥彦神社本殿前


  背後にあるのが弥彦山です。この日は非常に天気がよかったので、このような壮大な景色を味わうことができました。

  氏子なのでしょうか、お父さんと中学生くらいの娘さんが私より先に本殿を拝んでいきました。山門を出る際、お父さんだけでなく、お嬢さんの方も神様にお辞儀をして去っていったのが印象に残りました。
  明治維新以降、近代化(国民教育と科学崇拝)によって破壊され続けてきた「神様をうやまう」という精神が、この地にまだ息づいていることに、私は安堵を覚えました。やはり、子供は親御さんの背中を見て育つのでしょう。

  この後、裏山にあたる「弥彦山」に登ることにしました。

  弥彦山は600メートル程度の標高しかありません。山頂にはロープウェイが行っているのですが、最近駅まで20分ほどの道を徒歩で通っている私は、粋がって徒歩での登頂に挑戦しました。

  目で見た感じでは、たいした高さがなかったのですが、なかなかこれがつらかったです。ずいぶん登ったな、あと少しかと思ったら、まだ2合目(笑)。途中、五合目あたりで少し平坦なところがあったときは、思わずほっとしました。
  七合目まで来ると、もう足がなかなか上がらなくなってきましたが、わき水で顔を洗って気合いを入れ、最後の力を振り絞りました。
  九合目を過ぎると、木々の隙間に日本海らしき青いものが見えてきます。しかし、もったいぶっているのか、山頂まではっきりとは見えません。
  そして、1時間半かかってやっと登頂しました。頂上からの眺めです。

弥彦山山頂より


  日本海です。うっすらとではありますが、鮮魚の直売で有名な「寺泊」の港が見えます。実に爽快です。

  その後山頂の弥彦神社のご分祀にお参りをして帰ったのですが、さすがにロープウェイで下ってしまいました(笑)。昔なら、徒歩で何度も行ったり来たりしたのでしょう。昔の人にはかなわないなと思いました。

  その後は、新潟市の中心部まで戻り、夜まで散策して見ることにしました。
  以前訪問した山形市や米沢市と随分違うのは、若者向けの店がずいぶんと多いということです。特に、中心街の古町(アクセントは「降る町」と同じ)にそれが目立ちます。
  まあ、山形県全体で人口が120万人弱で、新潟市だけで80万人いるという違いはあるのでしょうが、そればかりでない勢いを感じます。これが、政令指定都市効果というやつでしょうか。
  しかし、東京に日本中から人が集まるように、新潟市だけが栄えてあとがさっぱり・・・というのでは、結局地方の没落は早まっていくだけでしょう。
  そこで、面白い案を考えてみました。


拡大地図を表示

  新潟空港を中心とした地図です(グーグルの地図を埋め込んでいるので、よろしければ左下の「拡大図」をクリックしてみてください)。すぐ近くに新潟市中心部と、新潟港があります。少し大きくしてみます。


拡大地図を表示

  こちらも、「拡大図」の方をクリックしてもらうとよくわかりますが、海を隔てて、ロシア・韓国・北朝鮮と向かい合っています。このブログでも何度も取り上げている「中国東北部」も近くです。
  現実に、新潟空港は中国の上海、ハルピン(東北部)や、ロシアのウラジオストクなどとも国際便で結ばれており、新潟港および東港にはロシアや韓国の船が頻繁に来港します。
  それだけでなく、市内には北陸道が走っており、大阪や京都ともつながっています。長岡まで出れば関越道経由で東京もすぐです。つまり、新潟は日本海側の交通の要衝なのです。

  そこで、考えました。

  この地の利を生かして、新潟を日本の中心にしてしまえばいいのではないか?

  要するに、新潟を国際貿易都市、それも戦前の神戸や横浜に並ぶほどの「外国への窓」にしてしまおうということです。

  え?このブログって、外国との交流はなるべくするなって言ってなかったっけ?

  その通りです。しかし、それは「貿易を完全にやめる」ということではありません。限定された場所で、管理された形での貿易はむしろ続けるべきだという考えなのです。
  そのためには、外国に開かれた場所が必要です。新潟は、そのための条件を備えているのです。

  では、具体的にどうするのか。

  まず、新潟港を中心にして、「新井郷川」「県道204号線」「新潟サンライズゴルフクラブ」に囲まれた地域を「日本海国際貿易特区」に指定します。
  その上で、県道204号線をそのまま運河にして、特区を取り囲むようにし、新井郷川も川幅を広げる工事をします。これで「21世紀の出島」ができあがりです。
  そうして、この日本海国際貿易特区についてのみ、環日本海の諸国に対してのビザなし渡航を認めるのです。狙いは、貿易・商業活動の活発化です。
  もちろん、安全保障に考慮して、新潟港には海上自衛隊基地を置き、イージス艦の母港にします。さらに海上保安庁の基地も設置します。だめ押しで、新発田市(既存の駐屯地を拡張)および阿賀野市に陸上自衛隊を配置し、「出島」を完全包囲するのです。
  「出島」への出入りは、新潟港との間の高速船、および新潟空港東南に新設する船着き場だけに限定します。運河には海上保安庁の巡視船を24時間就航させます。物資輸送用のゲートは阿賀野川沿岸に一カ所だけ作り、陸上自衛隊が警備に当たることにします。北陸道とも直結させて、大量の物流にも対応できるようにするといいでしょう。
  
  それだけではありません。これに平行して陸上自衛隊を新潟県中越地域に大規模に誘致するのです。
  主たる狙いは、もちろん「出島」監視部隊の控えです(緊張が強いられるので、三ヶ月に一度程度でローテーションする)。しかし、それに加えて、彼らには平時に農作業をやってもらいます。休耕田を耕して、食料生産をさせるのです。その食料は、自衛隊と「出島」で消費します。余ったら、越後山脈の山腹に冷暗所を作って備蓄すればいいのです。
  この部隊は、柏崎・刈羽原発の警備や、新潟県特有の雪害にも威力を発揮します。「出島」との物資の行き来が活発になるので、除雪作業は今まで異常に重要になります。それをやってもらうのです。
  そして、最近新潟に多い豪雨被害などの時も、迅速な救助活動を行うことができます。新潟県民にとって、いいことばかりです。
  以前、●対馬に防衛特区を作ろうという提案をしましたが、それと同じです。
  
  政府も、借金だの少子化だの財政均衡だの、暗くなるようなことばかり言ってないで、こういう景気のいい、夢のある話をしてみたらどうでしょうか?

  明るい話をしてばかりいましたが、今度は少し深刻な話になるかもしれません。つい最近中越沖地震で被災した柏崎市の話題を扱います。

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2007.09.20(Thu)

真の改革とは~今こそ、上杉鷹山に学ぶ(米沢その2) 

だいぶ間が開いてしまいましたが、今月初めに米沢を回った時の話です(前回の記事は●こちらです)。

  9月3日のことですが、この日は夕方の列車で新潟に向かうことになっていたので、日暮れまで目一杯米沢の町を回ることにしました。
  もともと私が米沢を訪れたのは、18世紀後半に米沢藩主であった上杉鷹山(うえすぎようざん)という人物に興味があったためです。
  上杉、といえば、誰でも思いつくのが「上杉謙信」ですが、江戸時代に米沢を治めていたのは彼の子孫に当たる人物です。正確には、謙信の養子である初代藩主・景勝の代に越後から会津、さらに米沢という風に転封してきました。
  その上杉謙信が祀られているのが、ここ「上杉神社」です。かつての米沢城の敷地内にあります。
上杉神社

  なかなかのたたずまいですね。この一帯は、「伝国の杜」といわれていて、上杉家にちなんだ建物や施設がいろいろあります。


上杉神社の鯉

  旧米沢城の堀です。鯉は、江戸時代から米沢の名産品です。


松の岬神社

  こちらは「松の岬神社」です。初代藩主景勝や、11代藩主上杉鷹山、さらには鷹山の時代に藩政改革に貢献した米沢藩の家老などが祀られています。


上杉鷹山公像

  こちらが、私が目当てにしていた上杉鷹山公です。上杉謙信は知っていても、この人のことは知らないという方も多いと思いますので、簡単に紹介しておきましょう。
  上杉鷹山(上杉治憲)はもともと米沢生まれの人物ではありません。先代藩主に男の子がいなかったため、宮崎県の高鍋藩から養子としてもらわれてきた人物です。
  教科書的な話では、当時大変な財政難だった米沢藩の家督を継ぐと、数々の藩政改革を進め、見事に財政を立て直し、天明の飢饉という苦難も餓死者ゼロで乗り切ることができた、そんな業績を上げた人物です。
  アメリカのジョン・F=ケネディ大統領が、ある記者会見で、「私が尊敬する日本人はヨーザン・ウエスギだ」と発言したら、肝心の日本人記者が「ウエスギヨーザンて誰だ?」と、顔を見合わせたというエピソードが残されています。
  日本のマスコミが何も勉強していないのは今に限ったことではないのでしょうが、ケネディ大統領はどうやら内村鑑三の書いた『代表的日本人』(西郷隆盛や二宮尊徳など五人の人物が紹介された英語の本)という著書で鷹山のことを知ったらしいです。

  こういう話をすると、すぐ「現代にも通じる改革精神」だとか、「鷹山に学ぶ経営の神髄」とかいう話が始まってしまいそうですが、私自身世間の第一線で働いていらっしゃるビジネスマンの方々にえらそうなことをいえる人間ではありません。このブログは社会科学的な色を打ち出してもいることですし、今回は上杉鷹山が米沢で成し遂げた「改革」の本質は何か、最近少々旗色が悪くなってきた「カイカク」と比べて論じてみたいと思います。
  以下では、幾分揶揄めいてはいるのですが、平成年代に入ってから日本の政治でさかんに用いられるようになった行財政改革のことを「カイカク」と表記します。

  まず、鷹山が優れていると思われる点は以下の通りです。

(1)パフォーマンスがうまい
(2)到達点がわかりやすい
(3)ソフトを重視する
(4)先を見て手を打つ
(5)急激な変革を避ける
(6)地域経済の自立を志向

  それぞれ、詳しく見てきます。

(1)パフォーマンスがうまい

  鷹山は、江戸の藩邸から米沢に入るとき、慣例を破って馬に乗ったまま米沢に入ったことで知られています。そして、領内を回るときは頻繁に馬から下りて、農民たちと同じ目の高さで会話をしたといいます。
  また、「籍田の礼」といわれる行事も行いました。米沢藩が新しく新田開発を行おうというとき、はじめの鍬入れを自ら行い、豊作を祈るというイベントを催したのです。
  他にも、藩内の産業を育成することになったとき、養蚕のための桑を自分の屋敷の庭に植えて、こういうことをしろと範を垂れたことや、藩の学校の成績優秀者を自ら表彰したり、詩を広く農民からも公募してみたり、いろいろ面白いことをやっています。
  なんだ、そうやって「有権者」の目を意識したパフォーマンスなら、●あの人●この人もやっているじゃないか、と思いますね。
  確かに、パフォーマンスなら彼らもやっています。特に、前者の人物のパフォーマンスは、善し悪しは別にして、引き込まれてしまうものがあります(後者は、前者を真似しようとずいぶん無理をしているようだが・・・)。
  しかし、鷹山が行ったパフォーマンスと、上のカイカク大好き人間の二人とは決定的に違うことが一点だけあります。それは、鷹山のパフォーマンスは、全て「率先垂範」の現れだったということです。
  すなわち、鷹山のパフォーマンスは自分の意図することを配下の者や農民にPRするだけではなく、そうやって仕事に関わる人間たちのやる気を出させることに主眼があったのです。何かやってもらいたいことがあるとき、まずリーダーが見本を見せて、俺は本気だから、おまえらもがんばれというメッセージを投げかけるのですが、それをお為ごかしではなく、本気で取り組んでいたことが、鷹山に関する記録を読むとわかってきます。
  これに対して、小泉さんや安倍さんのパフォーマンスというのは、単なる「芸人の一発芸」なのです。つまり、他人を面白がらせて印象に残るようにすることが目的であって、他人を動かそうという意図はありません。特に、安倍さんは支持率というものを意識していることが伝わってくるエピソードが多かったです(たとえば、●多摩川でのゴミ拾い●殉職警官の弔問)。
  彼らにとっては、国民というのはパフォーマンスの観覧者に過ぎないのです。俺たちがやってやるから、黙って投票しろということです。だから、小泉さんのやっていることが「劇場型政治」なんていわれたりします。確かにみているとハラハラドキドキはするのでしょうが、だから国民が何をするかといえば、黙ってそれを見ているうだけです。
  彼らのカイカクがどういう成果を出したかどうかは別にして、こういう姿勢では人を前向きにさせるのは難しいでしょう。
  要するに、鷹山のパフォーマンスは、参画意識を高揚するものだったということです。ただウケをねらうという性質のものだったら、人は付いてこなかったはずです。

(2)到達点がわかりやすい

  何か物事を達成しようとするとき、目標が明確でなければんならないというのは、誰にでもわかることです。しかし、それが「実現できそうかどうか」というレベルまで気が回るというのは、なかなか難しいようです。
  鷹山は米沢藩の財政を改善させるために、支出を削減するだけでなく、いかにして収入を増やすかという点について努力しました。
  そのひとつが地場産業の育成だったのですが、鷹山は漆、桑、楮(こうぞ。紙の原料)の木をそれぞれ100万本植えるという計画を立てました(●こちらのリンクを参照)。この「100万本」というところが味噌です。切りがよく、わかりやすい方が目標には適しているということを、鷹山や家老の竹俣当綱(たけのまたまさつな)たちにはわかっていたのです。
  しかも、鷹山はこれを3年でやろうと言い出したのです。期限を切るというのは大変重要で、「そのうち」できればいいと思っていると、いつまで経ってもできないものです。残念ながら3年で100万本というのは達成できませんでしたが、ノウハウのある農民を役人に取り立てるなど様々な改善を施し、言い出してから8年で100万本を達成しました。
  ちなみに、この政策を実施するときも、鷹山は率先して自分の屋敷の庭に桑の木を植えたそうです。人に言うならまず自分から・・・徹底していたんですね。

(3)ソフトを重視する

  端的に表れているのは、教育の重視です。

  鷹山は米沢に「興譲館」という学校を設立しました(今でも●米沢興譲館高校として残っている)。しかも、まだ財政があまり芳しくなかった時期にです。もともと存在していた藩校をリバイバルしたもので、当初江戸で鷹山を教えた学者の細井細州が関わり、それを藩の人々が肉付けしていきました。その教育内容も実学が中心であり、当時の学校には珍しく、カリキュラムの改訂を頻繁に行っていたようです。
  のちに、農政改革を本格的に行う段階になって、「郷村出役」という農法を指南する役人をたくさん任用しなければならなかったのですが、その時に興譲館の卒業生たちを使うことができました。こういう言い方は嫌なのですが、先行投資が生きたというわけです。そして、投資というのは、物として具体的に残るものだけではないということです。
  なお、米沢の教育の礎を築いた細井細州は、鷹山を祀った松の岬神社に合祀されています。米沢藩がいかに教育を重視していたかの現れではないでしょうか。
  また、今までにない工夫をし、それに対してマニュアルを作っておくという点も重要です。米沢藩は農法に対する建議(提案)を様々な層から集め、それをノウハウとして集積していました。そして、それを領内に伝えるのが郷村出役だったわけです。
  さらに、莅戸善政(のぞきよしまさ)が中心となって藩医の研究チームを作り、本草家(薬の研究家)である佐藤成裕の助言ももらい、『かてもの』という書物を作らせました。これは、食用になる野草やキノコの見分け方、さらにはその調理法、保存法を書いたマニュアルでした。目的はもちろん飢饉対策です。天明の飢饉の反省としてこれを作らせた鷹山は、これを無償で領内各戸に配布させました。おかげで、米沢藩は19世紀の天保の飢饉で被害をほとんど出さなかったと言います。
  鷹山と同じ時代を生きた松平定信(寛政の改革の実施者)は、飢饉に備えて米を備蓄させるという選択をしました。ハードで対処するという選択しかできなかったわけです。あえて米以外にも目をつけるというのが、鷹山の優れているところです。    

(4)先を見て手を打つ

  上に挙げた興譲館や『かてもの』にしても、鷹山は今現在の問題の対処にとらわれず、先のことを考えて準備をしておくということを怠りませんでした。
  それだけでなく、今現在うまくいっていることでも、その先を見て手を打つことができたのが鷹山です。
  たとえば、養蚕が軌道に乗ってきたとき、家臣のアドバイスで「繊維原料を作っても織物を作るのに比べたら利益が小さい」ということを知り、それならば織物を作ろうと、機(はた)を購入し、「小千谷ちぢみ」で知られる新潟の小千谷から職人を招いて早速手をつけました。当時は青苧(からむし)を用いた麻織物が中心でしたが、やがて絹織物に変化を遂げ、後の世の「米沢織」につながりました。
  これを下地に、明治時代に力織機の導入した近代的繊維工業が米沢で発展することになります。富岡製糸場が利根川流域の養蚕業や織物業(たとえば「伊勢崎つむぎ」)を背景に発展したように、米沢で繊維業が盛んになったのも、鷹山の時代に始まった織物工業があったからこそなのです。

(5)急激な変革をしない

  鷹山は役人の腐敗を防ぐために、領内各所に配置した藩の代官の世襲を禁じたいと考えていました。
  しかし、鷹山はいきなり世襲を禁止したりせずに、まずは副代官の役職を設け、そこから代官職に就くことができる人材を選んでいくという方法を取りました。これは、私も非常にうまいやり方だと思います。
  また、自分に逆らう家老たちも、いきなり粛正に及んだりせず、鷹山の方針を理解してくれる人間が増えてくるまで辛抱強く待ち、明らかな反逆行為に出た七人の家老だけを処分しました(いわゆる「七家騒動」)。その際も、藩士を一堂に集め、七人の直訴状が本当かどうかを問うてから切腹を命じたものであり、非常に慎重な手続きを行ったのです。
  私たち現代人の感覚では、腐敗の原因になっている人事など、さっさと粛正してしまえばいいという感じがします。昨今の「カイカク」論者、特に公務員カイカクをやかましく唱えている人々からは、もろにそういう雰囲気が伝わってきます(そういう人間が、安倍晋三が二世議員で、小泉に至っては三世議員だということを指摘しないのは何なんだろうと思うが)。
  確かに、癒着人事といっても、それに基づいて形成されている利害関係があったり、それによって支えられている生活があったりするのです。つまり、癒着や腐敗にもそれなりの存在意義ができてしまっているのです。それをいきなりどかそうと思うと、どうしても血で血を洗う抗争になってしまい、改革しようという側とされる側がどちらも大きなダメージを受けます。何より、関係のない庶民が巻き込まれてしまって被害を受けます。
  しかし、鷹山がやったようなアプローチなら、そういう弊害は極めて小さいものにとどめることができます。変化に対応するためには、時間が必要だからです。政治改革というのは、長いスパンで行うべきなのです。

(6)地域経済の自立を志向

  鷹山のブレーンだった莅戸善政は、「樹畜建議」という一連の提案を行ったことで知られています。これは、米沢藩の経済を自立的に運営していくための方針だったと言われています。
  たとえば、上に紹介したような『かてもの』はその成果です。さらに、●成島焼も、この樹畜建議の成果です。食料のみならず、生活必需品についても藩内で持久しようという狙いです。リンク先を見てもらえばわかりますが、成島焼は非常にデザインが質素で、普段使いの食器として作られたことが明らかです。
  この、地域経済の自立性という観点を、政治の現場に携わる人々に思い出してもらいたいです。相互依存というのは平時にはあまり問題が顕在化しませんが、その地域の財政が破綻してしまった場合や、飢饉のような極限状況では非常に問題があります。食料を外部から購入しようとしても、周辺地域、あるいは全国的に食料の需要が高まっているので、調達が困難になってしまうのです。
  上杉鷹山が現代に生きていたら、きっと●自然主義経済に対して並々ならぬ興味を示したことでしょう。

  私の抜粋ではありますが、上杉鷹山の「改革」をご覧になって、どんな感想をお持ちでしょうか。昨今言われている「カイカク」というものとは、完全に違う政治のやり方だということに気づいていただけたでしょうか。

  鷹山の藩政改革を貫いていた精神は、「徹底的に領民を食わせる」ということに尽きるのだと思います。

  武士という支配階級が生きる糧は、領民の納める税しかありません。そうであれば、武士は領民を可能な限り豊かにし、その不幸を減らすために働くべきなのです。領民が豊かになれば、自分の地位も安定するし、それだけ自分に返ってくるものも増えます。
  つまり、領民の豊かさは自分の豊かさでもあるのです。そうだとすれば、 領民がどうしたら豊かになるかを第一に考えるべきだ・・・そういう発想が鷹山にはあったのだという気がします。

  鷹山が、米沢藩の家督を継ぐにあたって、決意を詠んだ歌があります。

「受けつぎて国の司(つかさ)の身となれば忘るまじきは民の父母」

  つまり、自分は領民の親のようなものなのだ・・・ということです。
  どうも今の政治家、特に「カイカク」を旗印に掲げる人々というのは、やれ郵便局員だの社会保険庁職員だの左翼だの、国民の中に敵を作ってそれを攻撃するという発想にとらわれすぎているような気がします。いつの間にか特定グループへの攻撃が目的になってしまっていて、国民を食わせるということを忘れてしまっている人たちも多いです。
  政治家は、国民というものを無条件に愛し、その庇護をはかるものだという発想をしてほしいものです。かつての利権政治家というのは、自分の選挙区の人たちだけに限定してはいましたが、その利益を守ろうという発想がありました。残念ながら、彼らはそれを全国民に広げるという発想ができませんでした。だからこそ、「カイカク」を唱える勢力に隙を与え、その攻撃を受けて衰退していったのでしょう。
  その「カイカク」勢力が国民をきちんと食わせているのかどうかは、まあこの前の参議院選挙の結果に表れたのではないでしょうか。メディアにそっぽを向かれると勝てないのが「カイカク」一派なのです。

  さらに、鷹山は35歳で家督を譲るという時、息子に「伝国の辞」と言われる訓戒を与えました。鷹山が、統治者という役割をどう考えていたかよくわかるので、引用しておきます。

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候

  これをとらえて、国民主権的な発想を先取りしていたと考えるとしたら、あまりよろしくないと思います。
  私は鷹山は、決して江戸時代では例外的な人物ではなかったと考えています。なぜなら、近代以前の支配関係というのは、人民の幸不幸が支配者の利益に直結していた面があるからです。領民の方も、粗末に扱われれば、一揆という形で徒党を組んで領主に直訴し、領主の側もそれに対して妥協せざるを得なかったという実情があります。そして、その態様も、決して暴力的なものではありませんでした。
  この点、非常に参考になるリンクがあります。

江戸時代の飢饉と百姓一揆を見直す
http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub229.htm#5

  こちらを見ると、被支配者である百姓と、支配層である武士たちとの間に、信頼関係が成り立っていたことが伺えます。
  鷹山は、このような時代にあって、優秀な指導者であったことは確かです。しかし、それが「農民を虐げているのが一般的である江戸時代の殿様」の中で特別な存在だったというとらえ方は間違っています。
  むしろ、鷹山の行った改革は、伝統的な日本社会の中で指導者が取るべきだとされていた模範的な行動、すなわち「領民をかわいがる」ことの現れなのではないかと思うのです。
  その根本にあるのは、支配者と被支配者が共存共栄の関係にあるという考えです。バブル経済前の日本の企業も、おそらくそのような精神に基づいて運営されてきたはずです。従業員は会社の子供のような存在であり、一生面倒を見るべきだ・・・そんな認識が当たり前だった時代があり、それはそのまま日本が高度成長を実現した時期でした。
  それが、どうも80年代後半あたりから崩れてきて、今や会社と従業員との間の相互信頼は崩壊寸前です。会社は従業員の生活や労働環境をかえりみず、外資系の株主やバランスシートの奴隷になっているという感じすらします。
  それでもなお、日本の企業文化が成り立っているのは、鷹山が体現したような、支配者と被支配者の間の信頼関係がいまだに滅んでいないことを示しています。

  ●以前の記事で述べたように、頭のいい人ほど日本嫌いになってしまう傾向は、ここ最近さらに強まっている気がします。日本の最高学府だと言われている東京大学の優秀な学生の就職先として、「国家公務員」ではなく、「外資系コンサルタント会社」や「外国の法律事務所」が多くなってきているという話があります。明治維新が残した「森有礼の呪い」とも言うべき欧米文化へのコンプレックスは、バブル崩壊以降ますます強まっているといえます。
  そういう時代だからこそ、鷹山のような指導者がいたことをきちんと知っておくのは、我々にとって意味があると思うのです。我々が本当に(自分自身に対して)誇ることができるのは、ロシアに勝ったことでも、朝鮮を近代化させたことでもありません。支配する側とされる側が共存共栄の関係を築いてきた我が国の長い歴史なのです。

  今後も、このような埋もれた歴史を掘り返していくような記事を書ければと思っています。

  どうやら、2009年の大河ドラマの主人公として、上杉家に仕えた名将・直江兼続(なおえかねつぐ)が選ばれたということで、行く先々にそれを宣伝するのぼりが立っていました。
  鷹山公といい、直江兼続といい、観光の目玉になる人物に事欠かない米沢ですが、非常に心配になったことがあります。この写真です。
米沢駅前の元コンビニ

  コンビニだった建物でしょう。テナント募集中の看板すら出ていません。これが、米沢駅から歩いて30秒のところ、駅前中の駅前だと言ったら驚く人が(特に東京の方では)いるのではないでしょうか。 
  どうやら、米沢もモータリゼーションの例外ではないらしく、店が出ているのは幹線道路沿いばかりでした。人が集まるべき駅前は、この空き家が表すように閑散としているのです。
  幹線道路沿いの店は、東京や仙台の大資本ばかりで、ここでいくら利益が上がっても、地域の経済にはほとんど貢献しません。地元民が使ったお金が大資本の本社がある都会へ流れてしまい、地域の中で循環しないからです。
  やはり、地方の再生は自然主義経済しかないと、改めて認識した次第です。

  おまけに、米沢市内で見た光景を一つ。
遠藤武彦事務所

  はい、そうです。なんだかよくわからないうちに農林水産大臣をおやめになった遠藤武彦衆院議員の事務所です。写真にあるようなキャッチフレーズを抱えて、オーストラリアとのEPAを推進するのは確かに無理でしょうね。やめて正解だったのかもしれません。
  彼に限らず、本当に地方のこと(や、もしかしたら将来の自分の地位)を思うのだったら、カイカクという麻薬で頭がラリっている自民党から離脱した方がいいのではないでしょうか。次の総裁選は、その一つの分水嶺になる気がします。

  さて、この日の夕方、東京へ向かう夜行列車に乗るために、新潟へ向かう米坂線に乗りました。
米坂線(米沢駅)

  快速「べにばな」です。なかなか趣があります。

  途中の駅で地元の高校生がたくさん乗り降りしていました。途中でどんどん降りていなくなるだろうと思っていたら、なかなか降りません。新潟県境が目の前の小国駅まで、かなりの人数が乗っていました。
  彼らが小国で出て行った後、時刻表を引いてみました。米沢方面の学校に通うとしたら、朝何時くらいに出るのだろうと確かめたかったのです。

  そうすると、通学に適した米沢行きの列車は、なんと「6:06発」しかありません。

  新潟県境の山がちな地形ですから、さぞかし冬は雪深いでしょう。そんな場所から、朝の6時に出る電車に乗って学校に通っている若者があれだけたくさんいる。
  そういう日常が、山形の外れで営まれているのだと思うと、何か感慨深いものを覚えました。

  東京にお住まいのみなさんも、ぜひ休日には地方の空気を味わいに出かけてみてはいかがでしょうか。自分のいる場所が日本の全てだと思いこんでしまわないためにも・・・。

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2007.09.05(Wed)

「田舎」とは何なのか(米沢その1) 

  山形県内を回る旅行を終えて、昨日帰京しました。旅行中にも断片的に様子はお伝えしましたが、その時考えたことなど知っておいて頂いて損はないと思い、記事としてまとめることにしました。

  今回の旅行は●青春18きっぷという普通列車乗り放題のチケットを使いました。当然全て各駅停車です。9月1日の朝に東京の上野駅を出て、宇都宮→黒磯→郡山→福島→米沢と、各駅を乗り継いで山形入りしました。
  本格的に動き始めたのは9月2日ですが、この日は「山形市」「上山(かみのやま)温泉」を訪ねました。

  山形市に着いたのはこの日の昼前でした。

  着いたものの、さてどうしようか・・・と思っていたら、駅構内のポスターで●芋煮フェスティバルという有名な行事があると判明しました。私は旅先では「見る」より「食べる」を優先する方なので、早速駅の観光案内所で芋煮について聞き、会場に出発しました。
  山形駅でお勧めなのは貸し自転車です。なんと無料なのです。夕方5時までに返せばよいので、日中の観光はこれで十分でしょう。
  そういうわけで、芋煮フェスティバルのやっている河原まで、自転車で行くことにしました。途中の景色から。

山形城東門

  山形城の東門です。天守閣は残っていません。


文翔館

  重要文化財の「山形県旧県庁舎及び県会議事堂」(文翔館)です。明治時代というのは、どこもこういう西洋風の建物を建てるのが流行ったんですね。

  さて、自転車だと15分くらいで芋煮会場に着きます。

芋煮会場

  まんなかで湯気を立てているのが「6メートルの大鍋」(会場のアナウンスが連呼しているので覚えてしまった)です。これと、3メートルの小鍋(こちらは庄内風味噌味)で、3万食分作るそうです。
  お目当ての芋煮も、去年までは並ばないと手に入りませんでしたが、今回は整理券(300円払う)が導入されたおかげで、かなりスムーズに入手することができます。
  芋煮は、こんな感じです。

芋煮


  中身は里芋に、長ネギ、牛肉などです(すべて山形県産)。パワーショベルと6メートルの鍋で作った・・・というので、味はあまり期待していなかったのですが、これは良い意味で裏切られました。河原でみんなでわいわい食べるという雰囲気にも助けられているのかもしれませんが、こちらで金を払って食べる肉じゃがより味は上です。

  会場は様々な催しものがあり、中にはこういう方々も「活動」していらっしゃいました。

自衛隊の五目おこわ

  陸上自衛隊の炊き出しです。無料で五目おこわが食べられるとあって、人が殺到していました。後ろに見える飯盒用の機械を使って作っていたので、いざというときの訓練という意味合いもあるのでしょう。
  先日の中越沖地震でも山形駐屯地の部隊が現地入りして炊き出しなどに活躍したそうです。こういう「予行演習」の賜物というわけですね。

  その後、米沢に戻る途中、「上山温泉」に立ち寄りました。

  起源が15世紀に遡るという古い温泉郷で、以前は公営競馬場もあり、大変賑わっていました。
  私が訪れたときも、日曜日ということで、思ったより観光客が出ていました。本格的に温泉に入らなくても、温泉街の中にある●足湯を利用できるのがいいですね。

  私は昔この温泉を訪れたとき、100円で入れる公衆浴場があったのを覚えていたので、そこを目指すことにしました。
  少し迷いましたが、8年ほど前に訪れたと思しき公衆浴場にたどり着きました。料金は相変わらず100円です。なぜか髪を洗うのは別料金だったりします。

  そうして、浴場に入ったすぐ後のことでした。

  茹でダコみたいに真っ赤になって、浴場のタイルの上に寝そべっている30代と思しき男性がいました。どうも、番台の主人がその様子を気に入らなかったらしく、浴室に入ってくるなり、男性の持っている洗髪札を取り上げてしまったのです。
  男性は怒り心頭で、脱衣場のところで主人を捕まえて抗議しています。主人も主人で、風呂に入るところで勝手に寝そべるなとか、おまえの寝床じゃねえなどと言い返しています。まさか、風呂場で喧嘩が始まるとは思いませんでした。
  だんだん男性がヒートアップしてきて、主人(年金生活は確実であろう老人)につかみかかろうとしています。その場には、トヨタの奥田会長みたいな老人客(呆けてしまっているようで、会話が全くかみ合わなかった)と、私しかいません。

  これはまずい・・・ということで、止めに入りました。

  こういう時は、正邪の判定はしないで、両方に言いたいことを言わせるのが一番いいだろうと思い、「どうしたんですか?」と、水を向けてみました。
  男性は、出て行けと命令されることよりも、いきなり札を取り上げられたことに腹を立てているようです。まあ、傍目から見ても主人の行動が唐突でした。私は「そうだよねぇ、いきなり取り上げられたらびっくりするよねぇ」と言い、主人の方を見ると、主人も少々罰の悪そうな顔をしています。ひどい頑固者というわけでもないようです。
  で、結局あんたどうしたいの?と男性に聞くと(ちなみに会話は少々訛っていました)、胸くそ悪いので頭を洗ったらすぐ出ると言います。
  私が「そういうわけで、頭洗うのはいいですよね」と主人に同意を求めると、主人はすんなり認めました。まあ、腕をつかまれたりして、主人も身の危険を感じていたのかもしれませんね(笑)。

  というわけで、その場は丸く収まりました。ただ、男性の方が「上がってから言いてえこと言うから」と言っているので、気が気ではありません。
  肝心の風呂が熱すぎて、ものの3分程度入浴して飛び出してしまいました。一体、何を氏に来たのかわかりません(笑)。
  例の男性がまだ脱衣場にいました。彼は「さっきはどうもすいませんでしたね」と、私に声をかけてきました。少し落ち着いてきたみたいなので、向こうの話を聞いてみました。
  どうやら、その男性は山形市で、親類がいる上山の公衆浴場をたまに利用しているということでした。で、来る度に文句をつけたくなるのだと言います。

  「昔はここも温泉街でにぎわったし、競馬もあったでしょ。だから、殿様商売なんですよ。既得権益にしがみついててるんだよね」

  男性がそんなことを口にしたので、私は言いたいこともあったのですが「なるほど」とだけ返しました。彼はさらに続けます。

  「こうして客にはその日の気分で嫌がらせみたいなことをして(これ以外にも湯を水でうめたりすると怒るらしい)、お客さんに対するサービス意識なんて全然ないんですよ。それにほら、地元の人って、頻繁に利用するでしょ、そうすると自分の風呂場みたいになって、孫とか金払わないで勝手に入れちゃうんですよ。そういうのをあの爺さん(=主人)は見て見ぬ振りしてるんだよね・・・」

  私は、彼の言いたいことがよく分かります。山形市、すなわち県内最大の都市在住ですから、もしかしたら東京に住んでいる私と共通する感覚があるのかも知れません。しかし、その場は「田舎だからねぇ・・・」としか言えませんでした。
  結局、男性も私がいる手前妙な真似はできないと思ったのか、着るものを着たらすぐに出ていってしまいました。

  私も後を追うようにして浴場を出たのですが、この一件で「田舎とは何なのか」がわかった気がしました。

  都市住民の客の男性が言っていることは、間違ってはいません。確かに、あの主人にはサービス精神はありません。私が貴重品を預けたときも「名前何てんだ?」と、少々横柄な言葉遣いで対応しています。
  しかし、そのような態度で浴場の主人を務めていることを、既得権益という悪し様な言葉で形容するのは、少し違うと思うのです。
  男性の言い分としては、金を払っている客なのだから、もう少し丁寧に対応してほしい、ということなのです。彼自身も、止めに入ったとき何度も口にしていましたから事実です。
  しかし、それならばなぜ「公衆浴場」という場所に足を踏み入れるのか、逆に男性に聞きたくなるのです。公衆、と言っているのですから、まあ確かに誰でも入れるという建前なのですが、観光や帰省で来た人間が利用する頻度など多寡が知れています。そういう人間たちより、普段から利用している老人と、なあなあの関係を築いている方がむしろ自然だと思うのです。
  男性は金を払っている客だという論理を持っているのですが、それは地元の人間からすれば、金を払ったことにかこつけて自分の共同体に侵入してくる行為だと考えられなくもないのです。それを正当化したいのなら、金とサービスを対価関係にして競争している、普通のホテルや旅館に行くべきなのです。
  内輪の人間を優先するとか、外から来た人間に対して不親切だとか、そういう姿勢を全て「既得権益」だと言って非難することは、恐ろしいことだと私は思っています。その論理を敷衍すれば、地方に無数に存在する共同体、すなわち人的関係の塊を、全て否定することにつながるからです。
  そういう閉鎖的な人間の輪があったからこそ、その土地土地の文化風習や伝統というものが守られてきたのではないでしょうか。そういう人たちにとっては、外部者の締め出しや談合も、生きていくための知恵であり、生活の糧をうまく配分するための手段だったと言えなくもないのです。
  多くの「保守」や、文化伝統の墨守を謳う人々はここが分かっていません。田舎で肩を寄せ合って生きている人間に対して、「非効率的」とか「不公平」だとか「自分の利益に固執している」とか指摘するというのは、その土地の独自性を否定し、ひいては、そこを基盤にして育った文化や伝統というものを否定することにつながるのです。保守を自称している人間が、そういうものを「カイカク」しようと主張するのは、背理としか言いようがありません(国家主義と保守を混同している)。
  主人がいきなり洗髪札を取り上げた行為を弁護するわけではありません。しかし、外部から来た人間が床を広く占有して我が物顔をしていたら、憤慨する主人の気持ちもわからなくはないのです。
  それでも、「それなら、外の人間は入れるな」と言われてしまえばそれまでですが、少なくとも利用する側が、「使わせていただく」という気持ちを持つことは大切なのではないでしょうか。少なくとも、金を払っていれば自分の方が上なんだ、という姿勢を持つことは、何のプラスにもならないという気がするのです。たとえ、理屈としては正しいと、都市生活の中で認められていても。
  それどころか、都市の人間が何となく田舎に対して持っている反感を、昨今の地方向けの予算削減だとか公共事業のカットにうまく利用されているという気すらします。

  上山温泉の中心街を通って駅へ向かったのですが、シャッターを閉めている店が結構ありました。今日は観光客が多い日のはずですが・・・。
  道ばたでアイスコーヒーなどを出している店の人にきいたら、「ホテルで土産を売るから、普通の土産物屋はあがったりみたいですね」ということらしいです。ホテルと土産物屋という、古めかしい分業を否定して、ホテル側が自分のところに泊まっている客にそのまま売りつけるという「効率的」な方法を選択した結果でしょう。
  確かにそれは間違っていないのですが、次のテナントも決まらず、シャッターを閉めたままのお店を見ると、何か悲しい気分になります。地方の温泉街というのは、どこもこんな感じなのでしょうか。

  自分のあずかり知らないところで、昔から続いてきた何かが死に絶えていくのは、悲しいことです。

  次回は、米沢といえば誰もが思いつく人物のことを取り上げます。

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2007.09.02(Sun)

米沢から「東京」を想う 

  引き続き米沢から更新しています。

  のっけから不吉な言い方ですが、今日は出だしから大きく躓きました。

  私の計画では、今日はレンタカーを借りて喜多方まで足を伸ばすことになっていました。米沢と喜多方は県こそ違いますが、峠を一つ越えればあっという間です。●こういうバスも走っています。目当てはもちろん「喜多方ラーメン」でした。
  しかし、レンタカー屋に2軒あたったのですが、撃沈しました。1日5000円程度で利用できる軽自動車やコンパクトカーは全て出払っていたのです。唯一の残っていたのは8000円もするボロいセダン。
  ガソリン代とあわせたら1万円を超えると思うと、馬鹿馬鹿しくてやめました。
  私は、●青春18きっぷという乗り放題の乗車券を持っているので、まあ当てのない旅もいいだろうと、県庁所在地の山形市をたずねることにしました。

  そうしたら、なんと・・・幸運にも、全国的にも有名な●芋煮フェスティバルをやっているというポスターが。
  早速会場に駆けつけ、しばらく待ちましたが、美味しくいただきました。(様子は後日の記事で詳報)

  その後、途中下車して、「上山(かみのやま)温泉」という場所を尋ねました。実はこのとき、ちょっとした事件があり、そのおかげで、「地方」や「田舎」とは何なのか、深く考えることができました。(これも後日の記事で詳報)

  さて、これから夕食です。米沢というのは、ラーメンが大変おいしいということで有名です。
  昨日出かけた●「熊文」というお店は最高でした。ネットでこの店のことを調べると必ず「あっさりしていて懐かしい味」という評価が出てきますが、間違いありませんでした。
  どうも、私は東京でラーメンを食べるとなると「激辛」だの「濃厚とんこつ」だの、何か食べ物本来のあり方と違った方向へ走ってしまいます。そして、たまに、あっさりした昔風のラーメンを食べようと思うと、●このお店●このお店のように、なぜか高価になってしまうのです。要するに、東京では「あっさり」も「自然派」も「昔ながら」も、全て消費を促すブランドに過ぎないというわけです。

  東京でのあわただしい生活に慣れている私にとって、この米沢のお店の味は、何かほっとするものでした。

  熊文のラーメンというのは、米沢という土地そのものなのかも知れません。穏やかではあるけれども、刺激がない。だから、若い人は激辛や濃厚ギトギトや豚骨のラーメンがあふれる東京を目指したがるのでしょう。
  しかし、プロデューサーなる怪しい人種が店舗の設立やメニュー決定に絡み、妙にブランド化してカップラーメンまで発売するような東京のラーメンに、私は「狂奔」という言葉を想起せざるをえません。
  たまにこうして地方に来ると、東京の狂ったような時や物の流れを、相対化できる気がします。それだけでも、意味があるのかもしれません。

  もう少し旅は続きますが、取り急ぎ報告までに。

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