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2008.02.18(Mon)

商人の歴史(7)~唐代の辺境防衛と貨幣経済 

  ずいぶんお待たせしました。例のシリーズの続きです。

  前回までのおさらいです。中国における商人の歴史、ということで見ていましたが、どうもそれは律令国家の歴史という感じになってしまいました。まあ、有意義なことは残らずふれておきたいので、それでもいいのですが、若干それてきましたね。一応議論の核を繰り返しておくと、「律令制というのは、近代国家にも通じる合理的国家観に支えられていた」ということです。
  合理的というのは、簡単に言えば「こうあるべき」という書かれたものがあって、それに現実社会を従わせるということです。どこの国も成文法といって、文字で書かれた法律を持っているわけですが、それなどまさに「書かれたものに現実を従わせる」ことで運営されていますよね。
  そして、それを人材登用という面にまで適用したのが「科挙」だったわけです。

  その「律令」と「科挙」こそが、唐帝国、そしてその後の中国を決定的に滅ぼした要因の三つのうちの二つだと私は指摘しました。今日は三つ目を取り上げます。それは「辺境防衛」です。

  辺境防衛、というのは、簡単に言えば首都を遠く離れた国境線を守ることです。日本の律令制、大宝律令にもちゃんとそういう仕組みがありました。太宰府と防人(さきもり)です。太宰府というのは今の福岡県の真ん中あたりですが、そこには「太宰大弐」「太宰少弐」という役人がいました。西日本全般を統括していたといいますが、実際は辺境防衛がその役割です。
  なにしろ、九州北部というのは、朝鮮から島伝いに簡単に攻め込むことができる場所です。鎌倉時代に元と高麗が攻めてきたときも、対馬や壱岐を経由して博多湾に来ました。のちの防人にあたる兵士が設置されたのは白村江の戦いの後ですから、唐や新羅がいつ日本に攻め込んできてもおかしくない情勢だったんですね。
  面白いのは、防人として配置されたのは東日本の男性がほとんどだったことです。そっちの方が人口が多かったからと言われています。もちろんそれもあるんでしょうが、どうも私は「朝廷という渡来系の弥生人政権が、東日本の縄文人を盾にしようとした」という構図が浮かんできてしまいます。まあ、これについて話していると何ヶ月たっても終わらないので、もう言いません。
  そういう東日本の男性が、旅立つときの切ない思いを込めたのが「防人の歌」です。さだまさしの歌ではありません(笑)。『万葉集』にも載っている立派な歌です。●こちらのサイトから抜粋させてもらいます。解釈は当ブログ管理人による適当なものなのであしからず。

  今年行く新防人が麻衣肩のまよひは誰れか取り見む  

(今年北九州に旅立つ防人の新しい麻の服(あさごろも)の肩に迷いが見える。いったい誰がこれを取り除いたりできるだろうか)

  葦辺行く雁の翼を見るごとに君が帯ばしし投矢し思ほゆ

(葦の生えている草原の上を雁が飛んでいる。その翼を見ると、あなたが背負っていた弓矢を思い出します・・・防人の妻)

  水鳥の、立ちの急ぎに、父母に、物言はず来(け)にて、今ぞ悔しき

(水鳥が立つように慌てて出発してしまい、父母に別れを告げられなかったが今になって悔やまれる・・・防人本人)

  東日本から北九州まで出かけて、3年間会えないのは、電話もメールも、郵便さえもない時代では相当つらかったことでしょう。
  これは、律令国家の本質をよく表しています。つまり、その土地に住む人間の感情や故郷への愛を無視し、目的合理性のみに従って人民を右に左に動かすわけです。フランス革命以降、「愛国心」というもので正当化されたものの正体がこれです。
  こういう現場で苦しんだり命を落とした人間の痛みみたいなものを知らないで、特攻隊は偉かっただのなんだの礼賛する人間というのは、私は理解に苦しみます。まあ、律令国家の支配層というのは、そういう人間、要するに人間をモノ扱いできる人間でないと務まらないのかもしれません。

  すいません、日本の話ばかりしてしまいました。中国に戻ります。

  私の推測ですが、唐という国は中国側のシルクロード権益防衛という使命を帯びて成立した王朝だと思っています。隋があれほど短期間に瓦解したのは、シルクロードという貿易の生命線を守ることができなかったことで、商業資本みたいな連中にそっぽを向かれたことが大きな原因ではないか、ということも述べました。
  唐は隋の轍を踏むまいと、成立当初から果敢に外征に打って出て、高句麗をたたきつぶし、最大の驚異であった突厥も服属させてしまいます。さらには朝鮮に根拠地を築いていた日本も白村江の戦いで叩いて、傀儡である新羅に朝鮮半島を統治させることまでしました。
  唐の強大な軍事力を支えていたのは、ひとつには出自です。武川鎮軍閥という、万里の長城の南に定住した騎馬民族の集団が、唐の母体です。中国の南の方には馬を飼えるような牧草地がありませんから、騎馬民族の方が常に軍事的に優位でした。そのいいところを持っていたんですね。

  そして、もう一つは「府兵制」「募兵制」いう兵力供給システムです。

  府兵制というのは、わかりやすく言うと「屯田兵」みたいなものです。唐代はまだ完全な職業兵士というものが存在していませんでしたから、辺境に農民を送り込んで、そこで自給自足させました。
  これは、唐が「均田制」という仕組みをとっていたので成立した制度です。均田制は、土地をすべて国家のものにして、それを国民にレンタルするという仕組みです。日本で言う「公地公民」です。日本で防人という仕組みが成立していたのも、公地公民制がとられていたからです。
  これと平行して、募兵制も行われていました。読んで字のごとく、金を払って兵士を集めることです。
  この辺の歴史を殷周の時代からずっと見てくると、ここでちょっと「おっ」と思うんです。蜀の劉備なんかそうですが、中国の軍隊というのは基本的にそこらへんの武装集団みたいな連中なんです。それが合従連衡だとか男気に惚れたり(笑)とかで、「ドラクエ」のキングスライムみたいにどんどんくっついてでかくなって、いつの間にか皇帝とか名乗っちゃってる。それが中国式の立身出世なんです。
  ところが、唐の律令には、そういうものとは違う高遠な理想を感じるんですね。当時の社会の中で、「こうあるべきだ」という合理的国家像を描いて、それを忠実に実行しようとした。そういうものを感じるんです。
  合理的国家像というのは、少数の賢い指導層が、土地と人民を完璧にコントロールし、ある種の利益を極大化するというものです。唐の場合は、それが「広大な領土の統治」、なかんずくシルクロード防衛だったという気がするのです。
  そして、律令の理念からすると、偉大なる唐帝国を支える主力軍として府兵制の兵士たちが君臨し、それを補助するシステムとして募兵があった、そういう感じがします。
  もっとも、現実はなかなかそうはいきません。府兵制はさっさと崩壊しました。兵士の脱走が相次いだからです。日本の防人でさえ、行きたくない、家族が心配だと歌に詠んでいたくらいです。華南の農民が、シルクロード方面に送られたら発狂してもおかしくありません。
  しょうがないので、唐王朝は7世紀後半に軍政改革を行いました。「都護府」という常備軍を辺境に配置したのです。これだと自給自足はできません。というか、シルクロード方面では、そもそも雨があまり降りませんから、農耕を大規模に行うなんて無理です。だから、おそらく、後方から食料や生活物資を供給することになったでしょう。
  後で詳しく述べますが、私はこの現象が貨幣経済の活発化につながったと思うのです。なぜなら、辺境の需要と、生産現場を結びつけるには、流通を発達させるしかないからです。そうなると、現物による決済は難しくなります。だから、唐の朝廷は銅銭を鋳造して支払いに充てたのです。
  それを証拠に、8世紀になると、現金で税を納めることを原則とする「両税法」という仕組みができあがっています。それだけ、中国の各地方に貨幣が行き渡っていたということです。そして、その要因は、唐王朝が銅銭をバンバン鋳造したことにあります。その貨幣を徴税という形で回収して、再び取引に用いるわけです。
  この貨幣経済がさらに進んで、唐後期になると「飛銭」と言われる手形まで用いられるようになります。手形の本質というのは、現金同様の決済機能です。それだけ、商業取引が活発化していたのでしょう。
  貨幣経済の拡大は、商業の拡大とコインの裏表のような関係にあるのです。

  学問の世界では、何か自然法則みたいにして生産手段が発達したり、貨幣経済が拡大したりしているみたいに描かれることが多いです。そうでなくても、「なぜ貨幣経済が拡大したか」というところのスタートの部分があまり説明されません。少なくとも、私は最近まできちんと知らされていませんでした。
  中国の歴史を見るとわかるのは、商業が活発になったり、貨幣経済が拡大したりするというのは、全て権力側が必要に迫られてその仕組みを促進していることが原因だということです。ここは大事です。権力や軍事と切り離した貨幣経済だとか、市場経済というものはありえないのです。

  ここまでの話をまとめると、唐の時代の中国の国内経済の流れは、「府兵制の崩壊(貨幣を媒介しない軍事力が衰滅)→都護府の設置(軍事力の維持という要請)→大量の物資の流通→貨幣による決済が激増→両税法導入(貨幣経済の固定化および促進)→さらなる貨幣経済化」という形で説明できると思います。

  次回は、辺境防衛に戻って、唐王朝の犯した決定的なミスについて述べたいと思います。

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EDIT  |  00:07 |  話し言葉で歴史を語る  | TB(1)  | CM(5) | Top↑

Comment

●TBありがとうございます。

「貨幣経済」と「供給→需要原理」:経済問題を考えるための基本論理:「貨幣経済」の意味
http://sun.ap.teacup.com/souun/1441.html
# 「純投資マイナス」が“利潤”を消滅させる:最終回 上
http://sun.ap.teacup.com/souun/1448.html
# 「純投資マイナス」が“利潤”を消滅させる:最終回 下
http://sun.ap.teacup.com/souun/1449.html
早雲 | 2008年02月18日(月) 00:54 | URL | コメント編集

●待ってました

このシリーズ、本当に久しぶりですね。ろろさん、やっと少しは「解放」されたのでしょうか?(笑)

それにしてもこの記事、読んでいるうちに時代感覚が狂ってしまうような感じがします。資源・軍事・貨幣経済の連関。中国史の話なのか? それとも現代の地政学? 権力の本質は時代が変わっても変わらない、ということなのでしょうね。

ひとつ気になった、というか、さらに関心をもって調べてみたいと思ったのは、唐時代の思想・学問について。立身出世がキングスライム方式から科挙に移っていった、その背景をなした思想。何からかの形で残っていると思うのですが、そこに興味を惹かれました。

現代のグローバリズムには、シカゴ学派を中心とする新古典派経済学が思想的背景としてあります。現代の科挙はMBA修得に相当するのかもしれせん。また、西欧列強が植民地支配に乗り出す時期にもアダム・スミスなんてのがいましたよね。帝国・唐を支える思想に同様のものがなかったか? すぐに朱子学という名が思い浮かぶのですが、これは宋代だったはずですし。
愚樵 | 2008年02月18日(月) 06:01 | URL | コメント編集

●はじめてのコメント

食べもの幕府へのコメント及びリンクありがとうございます。
日々是勉強を最初から読んでおりましたので、返事がおくれてしまいました。
小さなメディアの一次記事をひとつずつジグソーパズルのように組み合わせていけば、
見えなかった真実が見えてくる。
これは諜報機関の分析官(アナリスト)のやり方と全く同じですね。
日本ではこれができる人がなかなかいないのですよ。
ですから、ろろさんのブログは読む価値があります。

劉邦や劉備は漢族でしたが、唐王朝の李一族は鮮卑族(せんぴぞく)です。
司馬炎(仲達の孫)が支那大陸を再統一したときに、漢族はほぼ絶滅状態でしたから。
きっと大多数の自称漢族を統治するために律令が必要だったのでしょう。

新興商人は権力者の保護がなければ商売はできないし、
権力者は新興商人から何かと資金を融通してもらわなければ政治もできない。
西洋でも支那でもそこのところは同じようですね、昔も今も。

おしゃか日記(http://oshaka.sarashi.com/
歳徳会ホームページ(http://www.saitokukai.com/
この2つのウェブサイトにリンクしたいのですがよろしいでしょうか。
おしゃか | 2008年02月18日(月) 22:45 | URL | コメント編集

●コメントありがとうございます

>>早雲さん

  いつも勉強になる記事をありがとうございます。移動中にケータイで晴耕雨読を拝読するのが最近の日課になりつつあります。

>>愚樵さん

>それにしてもこの記事、読んでいるうちに時代感覚が狂ってしまうような
>感じがします。資源・軍事・貨幣経済の連関。中国史の話なのか? 
>それとも現代の地政学? 権力の本質は時代が変わっても変わらない、
>ということなのでしょうね。

  その通りだと思います。隋唐の歴史を学んで、「公権力が最大の経済主体であることに歴史上例外はない」という思いが、ますます強くなりました。
  ご指摘の思想面を含めて、さらに今後勉強してみたい分野です。

>>おしゃかさん

  どうも、初めまして・・・というには、同じ場所で顔(?)を合わせすぎですかね(笑)。

>新興商人は権力者の保護がなければ商売はできないし、
>権力者は新興商人から何かと資金を融通してもらわなければ
>政治もできない。
>西洋でも支那でもそこのところは同じようですね、昔も今も。

  そうですね。そして、日本でもその「公理」は通用します。古くは織田信長と堺、最近では小泉・竹中ラインと外資系金融機関といったところでしょうか。
  信長は、今後このシリーズで扱うことになると思います。

  リンクの件、是非よろしくお願いします。

  「食べもの幕府」には頻繁にアクセスしております。電凸もさることながら、その合間のおしゃかさんの「推測」が非常に的を射ていて面白く、生活の現場で顔を合わせる企業の生の情報という点で、おそらく日本でも有数の実用性を誇るブログなんではないでしょうか。 
  今後とも、ご活躍期待しております!

  
ろろ | 2008年02月18日(月) 23:50 | URL | コメント編集

●TBありがとうございます。

近代の一つ前の時代を考える意義
http://sun.ap.teacup.com/souun/430.html
早雲 | 2009年01月31日(土) 01:41 | URL | コメント編集

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