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2008.01.02(Wed)

【情報操作】メディアリテラシーというものを教育できるのか 

  いきなりニュースを引用します。タイトルを見て、びっくりしないでくださいね。

遠距離克服!中田&加藤あい結婚へ
http://news.livedoor.com/article/detail/3449870/
--------以下引用--------
 人気女優の加藤あい(25)と06年サッカーW杯日本代表の中田浩二(28)が結婚することが31日、分かった。2人はこの日までに結婚の意思を固め、双方の親族にも報告済み。加藤の関係者は「具体的なことはこれからだが、2人の間では結婚の方向で進んでいる」と明言。早ければ年内にゴールインする。

 日本とスイス。往復3万キロの“超遠距離”を乗り越え、人気女優とサッカー界を代表するイケメンが幸せの“ゴール”に飛び込む。
--------引用以上--------

  はぁ?芸能記事?とお思いになりましたか?(笑)

  実は今年は芸能やスポーツなども取り入れた総合的なオピニオンブログにする予定・・・というわけではありません

  私は自己紹介欄でもわかるように、サッカーが好きなのですが、別にこの記事自体には興味はありません。まあ、覚えておいて、飲み会の席などで1分くらい時間稼ぎに使えるネタかなという程度にしか思っていません。
  実は、今日この芸能記事について、面白い出来事があったのです。

  私のような塾講師は、授業の前に教材の予習をやっておかなくてはいけません。新年早々の4日から、早速朝から晩までの授業が始まります。そこで、喫茶店に行って、さっきまで予習をやっていました。
  その時、私の隣に初老のご夫婦が座っていました。初詣帰りなのでしょうか。旦那さんの方がスポーツ新聞を広げています。
  不意に、奥さんの方が、「加藤あいって誰?」と言い出しました。
  旦那さんが少しの間答えずにいると、奥さんは「知らないわぁ」と、面倒くさそうな口調で続けました。どうやら、スポーツ新聞(スポーツニッポンだったと思う)の裏面いっぱいを使って、中田選手と加藤あいさんが結婚する話題が記事になっていて、それが目にとまったようなのです。
  すると、旦那さんはおろむろにその記事を読み始め、「○○の宣伝に出ているんだよ」と言い始めました。時間にして1、2分といったところでしょうか。じっくり聞いていたわけではないのですが、どうやら二人は中田選手のことも加藤さんのこともあまりよく知らないようです。
  私は、ふと思ってしまいました。

  「なぜ、自分たちが知らない、生活にも関わらない芸能記事について、この人たちは会話をしようとするのだろう?何も、興味がないなら無理をしなくてもいいのではないか?」

  そのご夫婦がいなくなった後も、しばらくそのことについて考えていたのですが、どうも、それは「新聞が一面で取り上げていたからではないのか」という結論に至りました。
  私が思うに、実はこれはあまり好ましくない現象です。なぜなら、メディアが設定した枠組みの中で、受け手の世界観や情報の系統が固定化されてしまっているからです。
  そして、そういう受動的な姿勢を助長しているのが、近代的な教育なのではないかと思うのです。私があえて「現代日本の」という風に定義しなかったのは、私たちが現在進行形で影響を受けている教育のあり方は、実はヨーロッパで近代化が始まった時点から変わっていないと思うからです。その教育のあり方というのは、「教師」という存在が、「教室」や「学校」という空間の中で、情報の発信センターになっており、「生徒」や「学生」といった存在はそれを受信するという役割に固定化されているというものです。
  元来、教育というものはかなりの贅沢品でした。家庭教育のことを言っているのではありません。教科書があり、専門的な知識を備えた教え手がそれに従って整理された知識体系を伝授するという方法のことです。こういう「教育」を受けていたのは、ヨーロッパで言えば神学校(キリスト教の神父を育てる学校)の学生、中国で言えば●以前の記事で扱った科挙受験生くらいしかいませんでした。これを政府が税金を使ってやるようになったのが近代の教育です。ヨーロッパの近代教育が神学校をベースにしているのは、神学校を指していたscholar(「スコラ哲学」のスコラ)が、今でも「学者」という言葉や、scholarship(奨学金)という語に残っていることからもよく分かります。
  そういう近代の教育というのは、人間を自由にするためとか、個人の人格を育成するとか、きれいな建前を建てようと思えばいくらでもできます。しかし、そういうものを一切取り払って、このようなシステムの中で望ましいとされる学び手というものを考えると、結局は発信された情報を大量に、正確に受け取って、それを発信者が望むような形で応用できる人間なのではないかと思います。
  もちろん、ゼミ形式だとか、ディベートの訓練だとかすれば、多少は「応用力」というものは付くのでしょう。しかし、習ったことを正確に覚えて、既存のフォーマットに沿って表現するという根本的な部分は同じです。大学だとか、学会だとか、その道の権威だとか、公的機関が発信した情報が、ゼミやディベートといったものの基礎になっているからです。
  そういった営みの全てを否定するつもりはありません。やはり、ある物事を考えたり、他人と意見を交わしたりするためには、一定の知識や概念といったものが必要になってくるからです。そういう営みを放棄するということは、言語活動(本を読んだり、思ったことを声にして人に伝えたりすること)を否定することに他ならないからです。また、実際ある種の知識の獲得によって、生活が便利になったり、ある技術が習得しやすくなったりすることは事実です。

  しかし、忘れてはならないのは、近代的な教育というのは、メディアに依存したコミュニケーションを助長するという側面があるということです。
  学校で言えば、教員教科書というメディアがあって、それらが発信する情報を大量に、正確に受け取ることが出来て、しかも「試験」という形で応用できれば、高い成績を得ることが出来ます。ずっとそういうことを習性にしていると、社会に出てから急にそれを変えるのはかなり難しいでしょう。そうなろと、メディアが合理性を欠いた情報を送ってきたり、優先順位が本来であれば低いはずの争点を掲げてくると、疑うことをせずに、それに乗っかってしまうという危険が出てくるのです。
  そういう点から言えば、近代教育で「被害」を受けやすいのは、疑うことを知らない優等生だといえるでしょう。これは、別に学校だけのことを言っているのではありません。この世の中は狂っているどうしようもない世界だとか、あるがままに生きろとか叫んでいる「文学」「音楽」のメッセージを真に受けるというのも、立派な優等生です。
  本当に基本的な知識や考え方については、それほど危険はありません。四則計算が速いとか漢字や綴りが正確だとかいっても、変な考えに洗脳される危険はないでしょう。
  しかし、これがもし高度な知識になったらどうでしょうか。教室の授業でも、メディアの記事でもそうなのですが、時間や紙面に制約があるため、そこで与えられる情報には数多くの前提知識があるのが普通です。私も授業をやる立場の人間ですから、もうこれは知っているはずだという知識や概念については、話を端折らざるを得ないということは良く理解できます。
  ここが危険なのです。そのような前提知識の一つ一つを、いちいち噛みしめているゆとりというのは、社会生活上ほとんどありません。そうなると、情報を送り出すメディアの方が「こんなのは当然知っているはずですよね」という前提知識、特に、存在意義や成り立ちというものをよく考えずに鵜呑みにしてしまうケースが多くなってしまいます。
  そういう「前提」部分に、なんらかの意図を持った情報操作が入り込んだ時が、一番危ないのです。たとえば、経済のことを論じた記事に、「近年加速する流通市場のグローバル化に対応して」というフレーズがさりげなく入っていたとします。一回だけならいいのですが、毎日毎日これが繰り返されると、「グローバル化」という言葉の意味を考えようとしなくなります。たとえば日本経済新聞を毎朝読んでいたりすると、「何でグローバル化しているんだ」という、根本的なところに考えが行かなくなってしまい、消費税の導入は避けられないとか、外国人労働者を入れるのはしょうがないという発想に行き着いてしまうのです。
  それでは、なぜ人がそういう情報操作に乗っかってしまうのかというと、その方が絶対的に楽だからです。頭を使わなくて済むから、いちいち悩まなくて済むからです。
  たとえば、メディアの言っていることは信用ならんと言っているネット右翼や自称保守の方々のブログを拝見すると、そういう人たちに限って全然自分の頭で物事を考えていなかったりします。中西輝政氏のような学者や、櫻井よしこさんのようなジャーナリスト、さらにはアメリカ政府のような彼ら自身が好意的にとらえている外国政府の見解などを、文言通りそっくりそのまま受け取っています。また、彼らが「特定アジア」や「左翼」といった敵を叩く時の論証も、見事なまでにパターン化されています。そして、そういう「敵」についてのメディア発表については、嘘かも知れないなどと疑ったりすることはありません。
  そういう意味で彼らは現代社会の「優等生」です。敵はこいつだという前提知識を与えておけば、勝手に崖の向こうの空の果てまで突っ走ってくれるタイプです。メディアにいいように操られないように、自分を疑ってみる必要があるでしょう。

  しかし、こんな教育が徹底されていたら、今頃とっくに世界中が全体主義の大帝国になっていてもおかしくはないのに(ある意味似たような状況が生まれはしたものの)、今の今まで人間社会がやってこられたのはなぜなんでしょうか?上に挙げたような「自分で考えているつもりのバカ」が、今でも世の中の多数派にならないのはどうしてなのでしょう?
  それは、メディアが与える体系的な知識以外の何かが、社会全体が一定の価値観に洗脳されることを防いできたからだと思うのです。それを一言で言い表すのは難しいのですが、多分「生活感覚」とでも呼ぶべきセンスなのだと思っています。
  たとえば、●こちらの「木走日記」さんの記事にあるように、2006年に企業の経常利益が過去最高を更新したのに、労働者の平均給与が9年連続で減少しているという話を聞いたら、「なんかおかしいんじゃないか」と思う人がほとんどのはずです。そこで考えるのをやめずに、「ひょっとして、株主とか役員とかいう連中が利益をガメているのではないか」と思う人も出てくるでしょう。そこまで行かなくても「もう少し給料を上げようと思えば上げられるよなぁ」という結論は普通に出てくるはずです。
  これが、「優等生」になると、メディアが記事の後ろにくっつける解釈(たとえば、技術研究に投資して国際競争力をつけなければいけないとか、会社の所有者である株主の利益を図るのがよい企業だとか)まで覚えてしまい、現実に出てきた矛盾や不整合に注目することが出来ないのです。ここまで来ると、もう重傷です。自分の生活がおかしくなってきたら、真っ先に新興宗教に入信したり、頭がおかしくなって犯罪を犯す危険があります。
  そうならずに、生活の中の手の届く範囲で判断することや、知り合いや周囲の人間の様子から得た経験則によって、社会や集団の利益が守られているという側面は絶対にあります。逆に言えば、庶民に出来ることは、そういう感覚をきちんと磨いておいて、為政者の嘘に強くなることだけであって、小難しい問題についての知識はあまり必要ないのです。
  そういう点では、「学校は全てではない」というのは当たっています。

  こういうことを言うと、「国民は身の回りの矮小な問題ばかり考えていればいいということか。外交や国防のような国家主権に関わる問題を軽んじるとは何事だ」とかいうことを言い出す人がいます。
  もうこの際はっきり言っておきますが、そういう人は根本的に認識が狂っています。国防とか外交とかいった話題が普通の人の生活の中に入り込みすぎるのは危険なのです。なぜなら、必要とされる前提知識が膨大なため、どうしても世論や国民の感覚が安易な結論に傾きがちだからです。たとえば、北朝鮮を悪役にしておけば、「水戸黄門」みたいな感覚で楽ができたりします。キムジョンイルは頭のおかしい独裁者で、あんなやつは正義の味方であるアメリカ様や小泉さんに叩きつぶしてもらおう(笑)という感じでしょうか。
  そういうときに、メディアの真価が発揮されるのです。北朝鮮を悪の帝国だと見なすような報道が連日繰り返されれば、それがいつしか前提知識になってしまって、疑うことが許されなくなります。「拉致被害者の心情を考えろ」などという補強材料までつければ完璧でしょう。北朝鮮と交渉しようという考えを口にしたら、その時点で社会的に抹殺されてしまいかねません。
  そういう単眼的なものの見方をしてしまったら、微調整の繰り返しである外交や国防という場ではかえって危険でしょう。たとえばそれが政治家であったとしたら、自分が人気を獲得した時のイメージを崩すことができません。対外強硬派の政治家(たとえば安倍晋三や中川昭一)というのは、その程度の存在なのです。
  だいいち、国防だの外交だのエラソーにぬかしているブログやサイトに限って、メディアが投げてよこした餌に飛びついて騒いでいるだけだったりします。外交や国際関係について論じたいなら、それこそきちんと歴史や地政学(の意義)について勉強すべきです。政治だったら何となくエラソーなことが言えるからいいかな、とか思ってテキトーな意見を垂れ流している人間は、自分が愚民扱いしている一般大衆にすら相手にされないでしょう。
  まあこれは、憲法のとある条文を呪文のように唱えているアホな連中についても言えることですが・・・。

  このような、メディアに依存した現実認識の罠に陥らないようにするには、一にも二にも「本当にそれでいいのかどうか疑う」しかありません。
  特に、メディア情報の前提とされていて、意味内容について曖昧にされたまま使われている言葉や概念こそ要注意です。先に上げた「グローバル化」や、「効率」「コスト」「便利」「国際世論」「競争力強化」といったキーワードなどがそうです。
  さらには「~となることは必至」「~なのは時代の流れ」「~という世界的な傾向」というようなフレーズにも注意が必要です。それが客観的に見て正しいかどうかは証明しようがなく、情報の発信側の解釈が入っている可能性が非常に高いからです。最近は学者ですらそういうフレーズを多用しているので、新聞やテレビでなくても警戒しなくてはいけません。
  こういうことを覚えておくだけで、だいぶ騙されることは少なくなると思います。

  困ったことに、こういう概念を学校で教えることはできません。情報を大量に発信し、受け手に無批判な理解を要求するという学校も一つのメディアなのであり、「価値判断を伴う言葉は全て疑え」ということは自己否定になるからです。

  そうだとすれば、こういう「教育」を実践するのは、「家族」「友人」「目的を共有する仲間」という関係しかありません。

  人間社会をハーメルンの笛吹男のような破滅から救っているのは、そのような生身の人間のつながりなのです。そう考えると、グローバリスト、中でもその権化と言える「ユダヤ系金融資本」が、各国の保守的な文化伝統を躍起になって叩きつぶしてきた訳がよく分かるというものです。彼らは、庶民に連帯されるのが怖いのです。
  ここまでお読みになった方であれば、この「連帯」というのが、共産党が唱えるみたいな「たたかう民衆の連帯」というような概念とは全く違うということはおわかりいただけると思います。そういう連中が言う「革命」こそ、メディアに依存した行動の最たるものだということです。

  人の世が狂い始めたのは、目に見える人間の体温や息づかいよりも、文字で書かれたメディア情報を上位に置いてしまったからだと言っても過言ではないのです。こうしてインターネットでささやかながらも情報を流通させられるようになったのですから、少しずつでも、血の通った、手の届く関係や生活経験を大事にすることから始めるべきです。
  自分は多分、情報受信を強いられる奴隷になっているのだと自覚すること、それが日本の一般庶民にとって一番大切なのであって、あえて「メディアリテラシー」という言葉を覚える必要はないのだというのが私の今の考えです。

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Comment

保守ブログや2ちゃんねる等で日本国民を愚民扱いもしくは、外国の様に「政治に積極的になれ」、と言われ場合が多いですが、その割に政治に積極的な外国の方が単純で極端な動きが多い気がします。
こういう疑問がなかなか指摘されないのが前から不思議なんですが…
む~ | 2008年01月02日(水) 08:44 | URL | コメント編集

●あけましておめでとうございます

はじめまして、ろろさん。ArtSaltと申します。
既に数ヶ月ほどこのブログを拝見しております。
過去ログ「『田舎』とは何なのか(米沢その1)」 http://roronotokoro.blog113.fc2.com/blog-entry-32.html を読んだとき、「保守ってなんだろう。愛国心ってなんだろう」という問いに対する答えがなんとなくわかったような気がします。
本日のエントリでは「生活感覚」というのがキーワードでしょうか。
自分は政治経済のことがあまりわからないのでめったにコメントしませんが、今後も陰で応援いたします。
ArtSalt | 2008年01月02日(水) 10:27 | URL | コメント編集

●コメントありがとうございます

>>む~さん

>保守ブログや2ちゃんねる等で日本国民を愚民扱いもしくは、
>外国の様に「政治に積極的になれ」、と言われ場合が多い

  こういう人たちは、戦前みたいに、日本を国際政治のパワーゲームに参加させて、国家主義的な自尊心を満足させたいだけでしょう。「強い日本、強い俺」という感じで。日本が外国を外交的に打ち負かしたり、権益を一つ獲得したりするたびに、喝采を叫びたいだけなのです。で「こんなに国を思っている俺は、おまえら愚民とは違うぞ」と(笑)。
  要するに、アメリカでFOXテレビや「ラッシュ・リンボー」みたいな番組に洗脳されている「愛国者」と同じなのです。自分だけを安全なところにおいて、立場の弱い人間が戦争の手駒に使われているという現状を知ろうとしない阿呆です。
  こういう連中とアホ左翼の差は、情報発信源が産経新聞か朝日新聞かという違いでしかありません。

>>ArtSaltさん

  ご愛読ありがとうございます。

>「『田舎』とは何なのか(米沢その1)」・・・を読んだとき、
>「保守ってなんだろう。愛国心ってなんだろう」という問いに対する
>答えがなんとなくわかったような気がします。

  同じ記事に、とんちんかんなコメントをつけている自称保守と違い、本当に分かっていただける方がいらっしゃるのは嬉しい限りです。あの記事自体、ぐちゃぐちゃ考えるというより、ふと自分の頭の中に湧いてきた感覚をもとに書いたもので、結構よく出来ているのではないかと自画自賛しています(笑)。

>本日のエントリでは「生活感覚」というのがキーワードでしょうか。

  あえて言うなら、そうでしょうね。

  人間というのは、まず何よりも自分や周りの人たちが生活していくというのが最優先事項なのですから、それに照らして物事を考えるのは大切です。それを離れたところでああでもない、こうでもない、とやり始めるのが「右翼」「左翼」なのだと思っています。
  その生活感覚が広がっていくと、自然と自分のいる共同体や国家を防衛するという方向へ進むはずです。右翼や自称保守の言っている「愛国」というのは「愛政府」「愛体制」であり、つまるところはそういう高尚な理念に献身している「自分への愛」でしかありません。私もそういう時期がありました。目が覚めるのは早いほうがいいです。

>自分は政治経済のことがあまりわからないのでめったにコメントしませんが、
>今後も陰で応援いたします

  どうもありがとうございます。

  もっとも、私が一番コメントしてほしいのは、「政治経済のことがあまりわからない」と素直に認識できている方だったりします。差し支えなければ、ちょっとした疑問でも構いませんので、今後ともコメントをつけていただけると嬉しいです。
ろろ | 2008年01月02日(水) 13:13 | URL | コメント編集

●今年もよろしくです

今年も早速冴えてますねえ。
メディアリテラシーとして教えるよりも生活感覚を磨くことが大事とは新しい発見です。どれだけリテラシーを教えられても、疑う「感覚」のバックボーンが日常生活からずれて(乖離して)いたら狂った方向に進んでしまう恐れがありますからね。

コメ欄に来るのは時々になるかと思いますが、今年もいろいろ勉強させて頂きます。
Masaya | 2008年01月02日(水) 17:57 | URL | コメント編集

●>>Masayaさん

  コメントどうも、今年もよろしくお願いいたします。

>どれだけリテラシーを教えられても、疑う「感覚」のバックボーンが
>日常生活からずれて(乖離して)いたら狂った方向に進んでしまう
>恐れがありますからね。

  ええ、ここは重要だと思いますよ。日常生活と乖離した「人権」という発想が危険であるように、日々の生活と遊離した「天下国家」というものもおかしな方向へ行きがちです。
  戦前は、まさに近代教育が抜群の威力を発揮した時代だったと思っています。大アジア主義や大東亜共栄圏という自殺的な発想に国民を引きずり込むことに成功しました。日々の生活もままならない農民がたくさんいて、町に出ても工場労働者として低賃金でこき使われることは「当然」であり「必要」だと洗脳されていました。
  もちろん、前線の兵士たちや総動員にかり出された一般の人びとは献身的に働いたと思います。しかし、だからといってあのような「ネズミのクラッシュ」みたいな社会状況を肯定することはできません。
  ああいう惨状を招いたのは、ひとえに明治政府が国民をよく「教育」していたからだと思います。
  最近私は「戦後民主主義教育を改めれば問題は解決する」という立場を否定していますが、その理由は愛国心や利他的精神を育てても(何もないよりはましかもしれないが)、暴走を止めることはできなからです。安倍晋三やその周りにいる政治家(下村博文や山谷えり子など)、さらには世界日報で教育改革を主張している統一協会の発想は、昭和期のような暴走を助長する意図があるような気がします。
  それよりも、最低限の学力を下の方まできっちりつけさせることの方が大事です。そういうものは、反復でなんとかなるし、後々に害を残しません。
ろろ | 2008年01月02日(水) 23:23 | URL | コメント編集

●あけましておめでとうございます。

庶民の価値観から物事を見るに同意です。庶民の見方で今まで教えられてきた歴史と比べると面白いです。
例えば江戸時代は藩とかで一揆が多いとお家取り潰しになる恐れを考えてその地域の農業、産業を発展させた(伊達家とか)。明治以降、東北では貧しくなり身売りする女性が多くなったっていう対比を考えると庶民から見た歴史はどっちがいいかで考えれば答えは明らかになります。ここに政治的だの外国だの言い訳はいりません。庶民にとってどちらが幸せに暮らせるか、これだけです。この視点は大事です。庶民の知恵だと思います。
この視点で考えると大化改新と明治維新って似てるような気がしてます。大化改新って豪族が土地をもっていたのに全ての土地を天皇家が管理する側面がありました。他人の土地を国の名目で奪い、その豪族たちを陥れ政権から排除しその土地を自分達のいいように牛耳った一族、藤原氏です。菅原家、物部一族、蘇我一族、その他の一族は政権から遠ざけられました。平安時代って京が一番華やかで関東方面は酷い?暮らしにいわれてましたが義経や頼朝が関東・東北の暮らしを考えるとそんなに酷い暮らしには思えない。ということは藤原氏が牛耳る京に嫌気がさした者達が関東に集い鎌倉幕府を作ったと考えることが出来ます。初めは菅原一族やその他の氏族を庶民は応援したが次々殺されたり陥れられたのをみて新しい国?を作って京の支配から抜け出そうと思ったのでは?逆にいうと蘇我一族とか物部一族とかの時代は庶民も何とかなる時代だったのに大化改新とかで有名?になった藤原氏は既成の氏族を廃し自分達の利益を考えたから国?が荒れた。初めは他の氏族を応援したが駄目だとわかると京(藤原氏)の支配を避ける方法(幕府)を考えた。京では自分達の支配にならない関東を見下し東くだりという言葉が出来たというかんじです。つまり元々、平安時代だろうが奈良時代だろうが、鎌倉時代並みの生活を関東とかでは行っていた。京での発言力がなかっただけで。大化改新が藤原氏が他族を廃し自分達の利益を増やすきっかけだとしたら明治維新後薩摩や他の氏族が内乱?勢力争いによって実権を握った長州はイギリスなどの外国と深く関わっていたらしいですが、藤原氏はどうだったのか?藤原氏って先祖代々続いた中臣の姓をあっさりすてて藤原になってます(中臣氏とは違う渡来人の噂もあり)。明治維新が大化改新に似てるなら大化改新後の世界が今の社会に似てくるかもしれません。
幸未来願 | 2008年01月03日(木) 03:50 | URL | コメント編集

●追加させて下さい。

先のコメントの続きになりますが既成の氏族を廃し自分達の利益を追求した一族が藤原氏だとしたら、現在同じように日本の企業や土地を買い漁って自分達の利益を考えてる者が今の世の藤原氏に該当するのではと考える事が出来ます。今の日本で日本の企業を外資系と買い叩く大企業やマスコミ、自民党清和会が現在の藤原氏なのではないでしょうか?
昔の日本人は京の影響を避ける社会(幕府)を作ることで彼等から身を守ったともいえます。京の近くでは商業が発展してます。イギリスは頭がいいやつらは海賊になるそうで農業とかでは生活が厳しいということらしいですが、京で商業が発展したのも農業では生活が厳しいから商業にという流れがあった可能性はないでしょうか?海賊か商業かという違いは民族の違いだと思います。
最近日本でも金至上主義?がありますが、京の人々は悪政に耐える手段として商業を選んだ。現在の日本も産業に力をいれて農業はおざなりです。なにか似たかんじですね。
関東は悪政を逃れるために幕府を作ったからそんな商業より農業や産業(塩とか)が守られたのかなと。江戸幕府の時に善政をしいたら関西や南西方面も他の産業が賑やかになりました。
昔の日本人が藤原氏に対抗する氏族に期待したように、今の日本はグローバル化に反対してくれる政治家を応援するのかなと。藤原氏の陰謀に滅んだ氏族を見て、幕府を考えたように、グローバル化を推進する勢力の影響を最小限に抑えるために現在のもしくは未来の日本人は現在の幕府を考えるかもしれませんね。これは余りに現在の藤原氏が酷いことを続けたらの話ですが。
幸未来願 | 2008年01月03日(木) 04:35 | URL | コメント編集

●新年初頭に良い文章を拝見しました

「憲法のとある条文を呪文のように唱えているアホな連中」の一味の愚樵です。あけましておめでとうございます。

芸能ゴシップの話題から出発して近代教育を一刀両断にした筆捌きには恐れいります。

>人の世が狂い始めたのは、目に見える人間の体温や息づかいよりも、文字で書かれたメディア情報を上位に置いてしまったからだ

まったく同感です。これこそ「近代」なのだと私も思っています。

他所様のコメント欄に我流を書いて申し訳ないのですが、私は「文字で書かれたメディア情報」を【public】と呼んでいます。「目に見える人間の体温や息づかい」を【private】と呼んでいます。そして「近代」とは【public】が【private】を侵食することだと定義しています。

【public】はおそらくヒトという種に特有のものです。【private】は他の動物種にもある。哺乳類などには間違いなくあるものです。【public】はヒトを社会性を持つ人間たらしめるものですが、【public】だけでは社会は成立しません。【private】が絶対に必要です。ひょっとしたら【public】がなくともヒトは生存できるかもしれません。

しかしなぜか人間は【public】に憧れをもつ。この憧れの度合いは【private】の充実に比例してるようです。無垢な娘が逞しい青年に憧れを抱くように。

歴史的な実例を挙げると、明治時代の日本人などその典型でしょう。江戸時代は【private】が充実した社会でした。支配階級である武士は【public】に縛られていたようですが、庶民は【private】に満たされた場で暮らしていた。『逝きし世の面影』に記されているかつての日本庶民の生活がそれです。だが明治維新により国策が一変し、「天皇教」なる一神教が広く流布されるようになると【private】で満たされていた庶民は瞬く間にその色に染め上げられてしまいました。

これと同じ現象は、ひょっとしたらローマ時代の地中海世界にもあったのかもしれません。また、イスラームでも同じことが起こったのかもしれません。
そう、貨幣とならんで一神教も私に言わせれば【public】です。今日、いまだ「天皇教」にすがり付いている人たちを見ると私は「隠れキリシタン」を連想してしまいます。

現代の消費社会では、この【public】は消費者の欲望とリンクしているようです。そのことが【public】を操る一部の人たちに世界の操作を許す基礎となり、その破綻は内には社会の崩壊という形で、外には環境問題として立ち現れている。この2大問題は、いくら【public】を追求しても解は得られないのではないか。

人間がおそらくは本能的に持つ【public】への憧れを如何に制御し、【private】を充実させるか。これが現代に生きる私たちに突きつけられている問題です。問題解決の一手段は教育でしょうが、「近代教育」ではそれは到底為しえない。私はそう思っています。

長くなって申し訳ありません。けれど、あとひとつだけ。

私が日本国憲法9条を擁護するのは、9条を【public】の否定と見ているからです。憲法という【public】なものの中に含まれた【public】の否定。私にとっての「護憲」とは【public】の否定、もしくは制御なのです。もちろん「護憲」が直ちに【private】の充実につながるわけでありません。やり方によってはますます【public】をのさばらせてしまうことにもなりかねない。私の願いは、「護憲」のなかに【private】充実の道を探ることです。
愚樵 | 2008年01月03日(木) 06:23 | URL | コメント編集

●怪物を生み出さない為に

メディアリテラシーこそは日本人が「絶対」身に着けるべきものだと思います。
既存のメディアがグローパリズムをマンセーしているのは、スポンサーには逆らえないからです。
よってスポンサーに頼らずに情報を発信できるインターネットこそが、より重要な情報源です。
私も、最近なってようやく新聞に対するメディアリテラシーが身についた感じがします。
ただしテレビのプロパガンダに対抗できるほどではないので、テレビは見ないようにしました。
プロパガンダの名人ゲッベルスが作った洗脳ノウハウがナチス・ドイツの専売特許でなくなった以上、テレビ/映画といった動く映像にゲッベルスの洗脳手法が使われていると見るべきで、これは強力な洗脳効果があるのだとみんな理解するべきでしょう。
ナチスは「選挙で当選して政権の座についた」ことを忘れてはいけません。
ヒトラーも選挙資金を提供した「スポンサー」の意向に従い、戦争を起こしたのです。
メディアリテラシーこそが「怪物」の誕生を防ぐ為の必須の能力であります。
ナチス・ドイツがユダヤ人を殺した人数より戦死したドイツ人のほうが多いのですから。
WIZARD03 | 2008年01月03日(木) 07:35 | URL | コメント編集

●生活感覚とは‥‥

詰まるところ、命との関わりになると思います。命は動物だけのものでありません。植物にもあります。

以前にカキコしましたが、我が家(実家)はやっと今頃になって地下鉄駅から3分という、都民からすればとんでもない高級住宅地になりましたが、父母一族がここへやってきたときは、ようやく電気が供給されているだけで、ガスなんてものは全くなく、炊事は竈、風呂は薪、トイレは当然ながら汲み取りという状態でした。そのかわりといっては何ですが、近所に家はほとんどなく、事実上山の中といった風情だったので、薪は周囲の「山林」から切り放題だったようです。

水については、どうも井戸から取っていたようです。私が小学校へあがる前ころまで、さすがに生活用水は水道供給になっていましたが、すいかなどを冷やすのに使っていたのを思い出します。いまはすっかり枯れてしまっていますが。

動物についていては、私が就学前のころを思い出すと、ネコはそれ以後も高校生になるまで飼っていましたが、犬も飼っていました。多分だと思いますが、ネコはネズミ退治、犬は番犬だったのでしょう。もともと山を切り拓いたところだったためか、玄関前の道路側溝の蓋の裏には、小学生のころまで青大将も住んでおりました。

今は動物たちについては以前のようにはいなくなってしまいましたが、「庭には植林」という父の方針で、木々は大小取り混ぜれば100本近く植えられえていると思います。当然成長するものですから、10年ほど前に側溝そばに設置したコンクリート擁壁が、近接する銀杏の木の根の成長に伴って前のめりに倒れかかっているような有様です。

それで、今になって思うのですが、

我が家は私にとって絶好の「生活感覚」鍛錬の場だった。飼いネコは放し飼いでしたから、ネズミ除けになる一方で、庭木に訪れる小鳥もハントし、「大きな同類」との類似性を誇示しましたので、「食物連鎖」の一環を「体感」しましたし、風呂は最近になって近所がうるさいということからようやく「ガス転換」しましたが、それまでの基本は薪でしたから、エネルギーはもともと木々から得るということも学びました(そういえば年越しの際には餅つきもしたが、普段のご飯は電気釜だったのにもち米だけは竈と薪で蒸かしていた)。

生活は、食料とエネルギーなしでは成り立ちません。食料とエネルギーを「消費」するということは、結局は「他者の命を戴いている」ことなのです。ろろさんがコメント返しで述べておられた、「かつての人類は地球の生み出す利息だけで生活していたが、今や元本に手をつけ始めた」というのは、自給自足経済(≒鎖国、すなわち江戸時代)の体感がない欧米ユダヤの飽くなき貪欲のなせる業でしょう。われわれの先祖が、来日外国人をして「彼らは食用にすると言ったらいくら金を積んでも鶏を譲ってくれないが、卵を産んでもらうと言えばタダで手放す」と言わしめる感覚を持っていたのは誇らしいことであると同時に、われわれが今一度見直すべき先祖の「遺産」であると思います。それを根本に据えていれば、メディアの嘘≒プロパガンダも「感覚的に」、「何か違う」という「違和感」で以って対抗できると考えます。
のらくろ | 2008年01月03日(木) 11:06 | URL | コメント編集

●あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます!

去年はこのブログを通じて大変お世話になりました。
私は、このブログで人生観が大きく変わりました。

これからも私の人生の大きな影響を与え続ける存在であることは
疑いようがありません。

今年もよろしくお願いいたします。
中村 | 2008年01月04日(金) 11:45 | URL | コメント編集

ブログ主含め、面白いコメントばかりで凄い

明治維新で京都から天皇家が江戸に移り、
今も東京に皇居が存在する事ってのはつまる
所藤原氏がやったような事ですねぇ・・・東京に
皇居があり続ける限り、一神教を真似た日本人を
総白痴化させる天皇教を作り出した維新政府の連中
の呪縛は解けないでしょう。俺は是が日本が大東亜
戦争突入及び敗戦・戦後の奴隷の平和にさかる堕落した
日本を創り出したんだと思っています。日本人は皇室に
頼ってはいけません。
皇室は、政治利用してはいけないのです。静かに京都の山奥
で日本神道の主として一般民衆に溶け込んでいればよい。
日本政府がお金を出さなくても、信者が幾らでも彼等一族を
支えるでしょう。

もっと奥の深い問題は、天津神の侵略で元々の日本人の
支配層であった国津神が追い出され、あるいは支配下におかれ
日本の歴史が書き換えられた事にもあるんでしょう。
日本の問題はその歴史の分だけ奥が深くややこしいものです。
I-RIAS | 2008年01月07日(月) 11:38 | URL | コメント編集

花ブナと申します。

I-RIASさん、おっしゃる通りと思います。多少そのあたりに関わる愚論を拙ブログで取り上げたことがあります(どうもこの手の話題は特定の荒しを呼ぶようですが)。
http://blog.goo.ne.jp/banabuna/e/c1b3840d5b3639723596e505fb2ef6fb

私も誤ったメディア情報については、のらくろさんのいうように感覚的に「何か違う」という「違和感」で以って対抗するしかないと思っています。そのためには自分の内面に己が(無意識に)信ずることができる感性・価値観が必要なわけですが、それを育てるのがろろさんのいうところの血の通った人間関係・生活経験そのものだということでしょう。本当にものすごく当たり前で間違いないと思います(笑)。

愚樵様のおっしゃる【Public】に対する過剰な期待を制御する考えとしては、憲法のような文字に頼るよりも古くからある「足るを知る」「分をわきまえる」という感覚で充分だと思います。これは、夏目漱石による【Public】を権威化した西洋風の心性批判にも通じます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=933&pgh=0
こういった感覚を現代人が少しずつ「思い出すこと」が、そもそも怪しげな(と私は思っている)【Public】を根本から見直す契機になると思います。

このような観点から、結局9条に【Public】に対するアンチテーゼが込められていたとしても、それは結局、9条という新【Public】による旧【Public】の批判であり、【Public】の抱える根本問題が全く解決できていないと思います。世界平和が達成できていないのは9条に対する世間の理解不足ではなく、根本的には漱石の指摘するような【Public】の抱える問題が今なお解決していないからだと思います。事実、世界平和の実現に9条は過去も現在も何の役にも立っていないでしょう。たまたま「日本の防衛」のために9条の条文を米国などの思惑(自衛隊を彼らの利益に使おうとする)に対抗する材料として使うことができただけです。しかし、それは世界平和の実現に9条が役立ったのとは違う。冷静に日本の近代史を解析すれば、9条というのは所詮、防衛戦略上で使う「道具」的メリット意外、なんら「9条的に」ポジティブなものを生んでいないと思います(むしろ多くの内乱の原因となってきた)。

私は、本来のPublicというのは、共同体内のPrivateな経験の積み重ねの中で育まれ、言語だけに頼らない「合意」として蓄積されていくものだと思います。ですから、Publicの中身=自分を取り巻く世界への認識と対処方法、は個々の人間の成長段階や共同体のあり方(環境的制約への対処方法)によって異なるはずです。よって、個人の経験や共同体の歴史による裏づけのない言語のみによる(バーチャルな)【Public】が初めからあって、それに皆が到達すべしと考えることは、人間の成長の機会や共同体としてのあり方の自由度を狭める傲慢な考え、あるいは大きなお節介であるといえます(もちろん「地球上の人間という生物種」には、どこに住んでいようが「ある程度共通の環境的制約」は生じるでしょうから、結果として異なる共同体間のPublicにも「ある程度の共通性」が生まれることは確かです。そして、その共通性と違いを優劣の先入観なく相互により深く理解することは有意義な「共同体間」活動だと思います)。

また、個人がどの範囲までPublicを認知し、共同体にとって望ましい対処をできるようになるかという過程は、技の習得として考えると良いと思います。【自称武芸(平和)の達人】が秘伝【Public】に書き残された高度な技(武力放棄による平和達成)が出来ると宣言したからといって、素人がすぐにその技を実行はできません。技が高度であるほど、長い時間修行せねばならず、おそらく「守・破・離」のプロセスを全て経験する必要があるでしょう。『守』のレベルは、ほぼ誰もがマスター可能で、簡単に実生活に活用できる技の習得です(いわゆる人として社会生活を送るのに必要なPublic=常識的な知識や振る舞いの取得が『守』に相当するでしょう)。しかし、破や離のレベルとなると技の習得に相応のリスクと適性が生じてきます。まず本人にその覚悟がなければ、できもしない他人(≒自称人道的な教師・活動家)が無責任に「あなたにはできる」などと言ってはいけないというのが私の認識です。そういうことがいえるのはある意味弟子に対して愛のない無責任な似非師匠です。従って、共同体から遊離し、本質的に子供の成長に責任を負わない職業教師による『平和教育』や共同体運営に責務のない他人が【Public】に書いてある『平和運動』をすることは、無意味であり、時に有害ですらあるでしょう。(これは自己の帰属する共同体を意識しない近代的国家主義者が【Public】上の存在でしかない国家への奉仕を他人に求めることと本質的には同義であります)

「武力に頼らない自国および世界の恒久的な平和」を目指すことは間違いなく相当のリスクを孕んだPublicの『離』に挑むことです。この『誰も成し遂げたことのない幻の大技』を会得したいのであれば、少なくとも一度単に紙に書かれた【Public】から離れ、それを信奉する「師匠」をも超える覚悟が必要だと思います。

以上を鑑みて、私は、世界平和を本気で実現したい人は、9条等の既存の教義に拘らずに「日々自身が実行できる確実な方法」を自ら編み出し、長い時間をかけて実現する覚悟のある人のみ取り組む課題だと思います。
(そのような観点から、ネット上で私が評価できる平和活動家は、例えばこのような方だけです。http://www.j15.org/peace/index.html

また、幻の大技を成就させるためには、もっと人間や社会の基礎力を作るところからはじめねばなりません。そのためには我々の共同体が一体何だったのか思い出した上で自らがまず自立できる経済システムを確立することが先決であると考えています。武力に頼らない自国および世界の恒久的な平和の実現は「その後」です。順番を間違えると自他共に滅ぼしかねません。古来の日本人はこのことを良く理解していました(参考:ロのヲシテとトのヲシテ:http://www16.0038.net/~hotuma_ikeda-m/page6.htm

以上、人様のブログで分をわきまえず長々と持論を繰り広げて本当にすみませんm(__)m
花ブナ(banabuna) | 2008年01月07日(月) 13:59 | URL | コメント編集

●過酷な日々を生きる方に

絵本「嵐と湖」を紹介します。
http://www.j15.org/Picturebook-Mind/StormandLake.pdf

嵐の中だからこそ、じっと目を開ける意味がある。
ろろ様、皆様どうか本年もよろしくお願いします。
花ブナ(banabuna) | 2008年01月07日(月) 19:21 | URL | コメント編集

●コメントありがとうございます(1)

  返事遅れてすみません。しかし、質も量もすごいですねこりゃ・・・(笑)。

>>幸未来願さん

>江戸時代は藩とかで一揆が多いとお家取り潰しになる恐れを考えて
>その地域の農業、産業を発展させた(伊達家とか)。明治以降、東北では
>貧しくなり身売りする女性が多くなったっていう対比を考えると庶民から
>見た歴史はどっちがいいかで考えれば答えは明らかになります。

  はい。全くその通りです。私が明治維新を評価しないのも、おっしゃるような対比ゆえです。
  江戸時代は、とにかくエネルギーの無駄がなかった時代だと思います。だから、一般庶民も受益者になれました。支配層は確かに権力を持っていましたが、武士道というかなりきついタガをはめられていて、全く自由ではありませんでした。それがよかったのです。
  よく江戸時代について、武士には力はあるが金はないという、いい時代だったと言う人(たとえば日下公人氏)がいるのですが、そういう人は明治維新によって西南雄藩に金と権力が一気に集中したという批判は絶対しません。維新の志士などと言うのは、西郷隆盛や坂本龍馬など少数の例外を除けば、みな破壊者にすぎません。
  まあ、あれを成功したカイカクとして肯定するのは勝手ですが、それなら「自分は西洋近代至上主義者だ」とはっきり主張すべきです。明治維新というのは伝統の破壊、保守勢力の虐殺に他ならなかったからです。

>>愚樵さん

>しかしなぜか人間は【public】に憧れをもつ。この憧れの度合いは
>【private】の充実に比例してるようです。無垢な娘が逞しい青年に
>憧れを抱くように。

  ここは違うと思います。「パブリック」なものに憧れるのは、「プライベート」に不満があるからです。
  「パブリック」というものは、生活経験を捨象した、ある種抽象的な理念に支えられていると思うのですが、そのような理念で人間や社会を抽象化しようとするのは、具体的な生活の中で自分の欲望が充足されていないからです。一段階抽象化したレベルで他者と関係を結べば幸福になれると信じているのだと言ってもいいでしょう。
  たとえば、「愛」や「正義」がそうですし、「革命」や「愛国心」というのもそうだと感じます。この世(具体的な生活)で報われないから、あの世(理念化された言葉の世界)で救われようとするのです。革命や愛国心をことさらに強調するような人間には、影があります。幸福の匂いはしてきません。
  文学や思想、要するに言語的な世界の恐ろしいところは、人間が歴史的に経験してきた生のあり方と全く違うところに「生き甲斐」や「人生の目的」を作り上げてしまうことだと思います。要するに、「パブリック」というのは「バーチャル」な産物であり、桃源郷なのです。その根源はキリスト教にあると思います(ニーチェはそれを分かっていたからキリスト教を執拗に攻撃した)。
  たとえば、巷の「9条真理教」の人たちはどうでしょうか。彼らは、純粋に平和を求めているのではなくて、平和運動という「パブリック」の世界に人生の目的や生き甲斐を求めてしまっているのではありませんか?どう見ても、彼らが具体的な人なり集団を救うための方便として平和主義を語っているとは思えません。だから、彼らは「格差社会」という抽象概念は叫んでも、具体的にこうしろということは言えません。具体的な人間の生活などどうでもいいとどこかで思っているからです。メディアが投げてくる言葉という餌に食いついて夢を見ている人たちの典型例です。
  蛇足ですが、愚樵さん御自身の思想や思索には大きな価値があると思っております。9条がなければ崩壊するようなヤワなものとは思えません。
ろろ | 2008年01月08日(火) 00:47 | URL | コメント編集

●コメントありがとうございます(2)

>>のらくろさん

  去年は特段のお世話になりました。今後ともよろしくお願いします。

>生活は、食料とエネルギーなしでは成り立ちません。食料と
>エネルギーを「消費」するということは、結局は
>「他者の命を戴いている」ことなのです。
  
  そうなんですね。そもそも「いただきます」というのは、そういう意味があった言葉何じゃないかと思います。

  私は生まれも育ちも東京ですが、「明日もし外国産の品物が全く入ってこなかったらどうするのだろう」などと昔からよく考えていました。変な色の付いた食べ物も嫌でした。「今流れている水を生み出すためにどれほど雨が降ったのだろう」と思うと、水をじゃーじゃー出しっぱなしにするのにも抵抗がありました。クーラーの風に至っては、今でもどこか「邪悪」な感じがして、あまり好きではありません。
  要は想像力なんでしょうね。もちろん、一番いいのは直に触れること、自分が大きな環の中にいることを実感しながら生きることです。江戸時代が現代より優れていたのはそこに尽きます。
  おっしゃるように「思い出す」ことですね。だからこそ、私は明治維新を否定しているのですが・・・。

>>中村さん

  ずっとご覧になっていただけて、嬉しいです。

>私は、このブログで人生観が大きく変わりました。

  それはおそらく、私がどうこうよりも、ご自身の心根が腐っていなかったからだと思いますよ。六本木ヒルズみたいな場所に住める神経の人間が、私の米沢の記事や食品偽装の記事を見ても何も感じないでしょうしね。
  今後とも、ご期待に添えるようがんばります。

>>I-RIASさん

>東京に 皇居があり続ける限り、一神教を真似た
>日本人を総白痴化させる天皇教を作り出した
>維新政府の連中の呪縛は解けないでしょう。

  このくだりを見て、烈火のごとく怒り出す人間・・・いるんでしょうねぇ(笑)。

  私は国家神道というのは、キリスト教の猿まねだと思っています。伊藤博文や山県有朋がそこまで邪悪だったかはわかりかねますが、少なくとも西洋流のやり方でないとダメなんだ、という強迫観念に陥っていたことはわかります。鹿鳴館のダンスパーティーと同じですね。

>もっと奥の深い問題は、天津神の侵略で元々の日本人の
>支配層であった国津神が追い出され、あるいは支配下に
>おかれ日本の歴史が書き換えられた事にもあるんでしょう。

  東西日本の気質の違いなどを考えるに、この辺は十分推察できますね。渡来人勢力が巣くう西側(岸信介の「岸」も「季氏」)が、縄文人の住む東を制圧していたのだと・・・。
  そして、鎌倉幕府=東国武士の勝利によって、日本は初めて脱渡来人政権を作ることができたということができます。
  歴史を教えていて思うのですが、平城京や大宝律令のようなものまで「日本的」だと信じ込まされているのを見るにつけ、幸未来願さんがおっしゃったような「藤原氏の呪い」は未だに解けていないような気がします。

>>花ブナさん

  やはりいらっしゃいましたか。ボリュームがあるコメントです。帰宅途中の携帯画面では読み切れませんでした(笑)。  

>結局9条に【Public】に対するアンチテーゼが込められていたとしても、
>それは結局、9条という新【Public】による旧【Public】の批判であり、
>【Public】の抱える根本問題が全く解決できていないと思います。

  そうですね。言葉で生み出されたものの限界だと思います。

>本来のPublicというのは、共同体内のPrivateな経験の積み重ねの
>中で育まれ、言語だけに頼らない「合意」として蓄積されていくものだと思います。

  転倒しているんですよね。具体的な生活なり感情なり経験があって、それに言葉をつけるというのではなく、言葉が先にあって、これに生活や感情を隷属させようとしているのです。そういう点では、右翼と左翼は全く同類です。
  聖書に「初めに言葉ありき」というくだりがありますから、彼らは実は一神教信者なのではないでしょうか?
  そもそも、近代化というのは、「法の支配」だとか「平等」といった絵空事が、土地に根付いた生活や文化を破壊していく過程だったわけです。それが長く続いているうちに、感性が麻痺してしまって、絵空事の方に真実があるのだと信じ込んでしまったのが現代です。メディアから自由にならなければいけないと思うのはそういう現状をなんとかしたいからなんです。

  最後に、リンク先の絵本読みました。グローバリゼーションこそ「毒の入った大きな缶」なのではないかという気がしました。
  目を開ける方法はただ一つ、「メディアが投げる毒餌を無視し続けること」。心の空腹を満たすのは、貴方のそばにいる他者のぬくもりしかありません。

  しかし、どのコメントも気合いが入っているので、返信は記事を書くより大変でした。このような思いに支えられていることの幸福を感じます。
ろろ | 2008年01月08日(火) 01:24 | URL | コメント編集

拝啓
遅まきながら、今年も宜しくお願い申し上げます。
皆様のコメントがとても素晴しくて、書き込みを躊躇しました。
垂れ流された情報を精査し、何らかの意図を持った情報操作に気がつける様に、
今年も勉強させて頂きます。敬具
和尚 | 2008年01月08日(火) 13:45 | URL | コメント編集

>>ろろさん

お返事ありがとうございます。

>聖書に「初めに言葉ありき」というくだりがありますから、彼らは実は一神教信者なのではないでしょうか?

このあたりについて、以前から少し気になっていたので、ろろさんの返答に答えるようで、やはりどんどん話しが持論に展開する愚論を、自分のブログにアップしました。
http://blog.goo.ne.jp/banabuna/e/d31b66f59d12ff334d743549318f9cdb
花ブナ(banabuna) | 2008年01月08日(火) 21:50 | URL | コメント編集

●コメントありがとうございます

>>和尚さん

>垂れ流された情報を精査し、何らかの意図を持った情報操作に
>気がつける様に、今年も勉強させて頂きます。

  そうですね。お互いがんばりましょう。まずは「疑うこと」です。メディアは、人間よりも簡単に嘘をつくのです。

>>花ブナさん

  どうもありがとうございます。そちらのブログにコメントをしておきます。
ろろ | 2008年01月09日(水) 01:04 | URL | コメント編集

突然ですが(笑)、彼女を愛していると叫びながら、彼女が嫌がる行為を繰り返すストーカーを考えてみましょう。このストーカーは彼女が自分を嫌っていることを認められません。相手の反応を見ていれば明らかでも、もしかしたら、嫌い嫌いも好きのうち、などと考えてしまう。欲望は現実を歪めます。また、彼は自分の欲望をぶつけることが愛情だと勘違いしています。しつこく付きまとい、夜な夜な電話をかけ、それが愛情だと悦に浸るわけです。

欲求不満を解消するために中国や北朝鮮、韓国といった他国を攻撃し、在日を過剰に差別し、それを愛国心だと勘違いしている人たちと良く似ているでしょう。メディアが人を洗脳している以上に、受け手の洗脳されたい願望が見え隠れします。都合の良い情報を集め、それが真実だと思って満足する。彼らにとって真実なんてどうでもいいのです。気持ちいい情報を得たいだけなのだから。別の例だと、確率的には絶対に負けるパチンコというギャンブルに、勝てると思って打ち込む人たちでしょうか。

メディアリテラシーというのは、徹底した現実主義、論理性もさることながら、欲求に打ち勝つ強い精神力が重要なのではと思います。特に、自分が信じたい類の情報を、いかにして批判的に検討するか、逆に信じたくない類の情報をいかにして受け入れるか、そういうトレーニングが必要です。

しかしそれは誰にでも耐えられることではない。築き上げてきた価値体系が崩壊して、長い抑うつを経験して、ようやく壁を超えられる、というレベルの代物ではないでしょうか。
Takane | 2008年01月09日(水) 16:15 | URL | コメント編集

できるみたいです。
http://homepage2.nifty.com/kamitsuki/
小学3年生に嘘と誇張について教えるフィンランドの教育

道理で個人あたりGDPが世界一な訳だ・・・・。
三輪耀山 | 2008年01月13日(日) 10:21 | URL | コメント編集

●コメントありがとうございます

>>Takaneさん

  初めまして。

>メディアが人を洗脳している以上に、受け手の洗脳されたい願望が
>見え隠れします。都合の良い情報を集め、それが真実だと思って
>満足する。彼らにとって真実なんてどうでもいいのです。

  私もそういう時期があったので、よく分かります。

  しかし、そういう馬鹿に限って「一般人と違って俺たちにはメディアリテラシーがある」とか言ってやがるのは失笑を禁じ得ませんね。毒入り餃子の件なんかがそうですが、メディアが小出しにする情報につられすぎのブロガーが多すぎます。
  彼らは、本当に「優等生」です。受験エリートが官僚になって凝り固まった考えを持つように、彼らも似たような人間とばかり交流するので、価値観が濃くなる一方ですね。そういうのは、何かショックがないと抜け出せない気がします。

>メディアリテラシーというのは、徹底した現実主義、論理性もさることながら、
>欲求に打ち勝つ強い精神力が重要なのではと思います。

  そうです。だから、それを教えて身につけるのは困難だと思っているのです。
  庶民は素人なのですから、危ないものには手を出さない、おかしい人には関わらない、ていいと思うのですが・・・。

>>三輪耀山さん

  コメントいただくの久しぶりですね。

  フィンランドの教育界がやっている方向というのは悪くないと思うのですが、一体どれだけ実効性があるのかは疑問です。そもそも公教育が自分自身も含めて上から投げかけられる情報を疑え、と教えるのは限界があると思いますよ。
  ただ、そういうニーズが国民の間にあるということは、素晴らしいことだと思いますね。教育カイカクというのも、こういうものを見習うべきですね。
ろろ | 2008年02月05日(火) 23:13 | URL | コメント編集

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