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2007.09.20(Thu)

真の改革とは~今こそ、上杉鷹山に学ぶ(米沢その2) 

だいぶ間が開いてしまいましたが、今月初めに米沢を回った時の話です(前回の記事は●こちらです)。

  9月3日のことですが、この日は夕方の列車で新潟に向かうことになっていたので、日暮れまで目一杯米沢の町を回ることにしました。
  もともと私が米沢を訪れたのは、18世紀後半に米沢藩主であった上杉鷹山(うえすぎようざん)という人物に興味があったためです。
  上杉、といえば、誰でも思いつくのが「上杉謙信」ですが、江戸時代に米沢を治めていたのは彼の子孫に当たる人物です。正確には、謙信の養子である初代藩主・景勝の代に越後から会津、さらに米沢という風に転封してきました。
  その上杉謙信が祀られているのが、ここ「上杉神社」です。かつての米沢城の敷地内にあります。
上杉神社

  なかなかのたたずまいですね。この一帯は、「伝国の杜」といわれていて、上杉家にちなんだ建物や施設がいろいろあります。


上杉神社の鯉

  旧米沢城の堀です。鯉は、江戸時代から米沢の名産品です。


松の岬神社

  こちらは「松の岬神社」です。初代藩主景勝や、11代藩主上杉鷹山、さらには鷹山の時代に藩政改革に貢献した米沢藩の家老などが祀られています。


上杉鷹山公像

  こちらが、私が目当てにしていた上杉鷹山公です。上杉謙信は知っていても、この人のことは知らないという方も多いと思いますので、簡単に紹介しておきましょう。
  上杉鷹山(上杉治憲)はもともと米沢生まれの人物ではありません。先代藩主に男の子がいなかったため、宮崎県の高鍋藩から養子としてもらわれてきた人物です。
  教科書的な話では、当時大変な財政難だった米沢藩の家督を継ぐと、数々の藩政改革を進め、見事に財政を立て直し、天明の飢饉という苦難も餓死者ゼロで乗り切ることができた、そんな業績を上げた人物です。
  アメリカのジョン・F=ケネディ大統領が、ある記者会見で、「私が尊敬する日本人はヨーザン・ウエスギだ」と発言したら、肝心の日本人記者が「ウエスギヨーザンて誰だ?」と、顔を見合わせたというエピソードが残されています。
  日本のマスコミが何も勉強していないのは今に限ったことではないのでしょうが、ケネディ大統領はどうやら内村鑑三の書いた『代表的日本人』(西郷隆盛や二宮尊徳など五人の人物が紹介された英語の本)という著書で鷹山のことを知ったらしいです。

  こういう話をすると、すぐ「現代にも通じる改革精神」だとか、「鷹山に学ぶ経営の神髄」とかいう話が始まってしまいそうですが、私自身世間の第一線で働いていらっしゃるビジネスマンの方々にえらそうなことをいえる人間ではありません。このブログは社会科学的な色を打ち出してもいることですし、今回は上杉鷹山が米沢で成し遂げた「改革」の本質は何か、最近少々旗色が悪くなってきた「カイカク」と比べて論じてみたいと思います。
  以下では、幾分揶揄めいてはいるのですが、平成年代に入ってから日本の政治でさかんに用いられるようになった行財政改革のことを「カイカク」と表記します。

  まず、鷹山が優れていると思われる点は以下の通りです。

(1)パフォーマンスがうまい
(2)到達点がわかりやすい
(3)ソフトを重視する
(4)先を見て手を打つ
(5)急激な変革を避ける
(6)地域経済の自立を志向

  それぞれ、詳しく見てきます。

(1)パフォーマンスがうまい

  鷹山は、江戸の藩邸から米沢に入るとき、慣例を破って馬に乗ったまま米沢に入ったことで知られています。そして、領内を回るときは頻繁に馬から下りて、農民たちと同じ目の高さで会話をしたといいます。
  また、「籍田の礼」といわれる行事も行いました。米沢藩が新しく新田開発を行おうというとき、はじめの鍬入れを自ら行い、豊作を祈るというイベントを催したのです。
  他にも、藩内の産業を育成することになったとき、養蚕のための桑を自分の屋敷の庭に植えて、こういうことをしろと範を垂れたことや、藩の学校の成績優秀者を自ら表彰したり、詩を広く農民からも公募してみたり、いろいろ面白いことをやっています。
  なんだ、そうやって「有権者」の目を意識したパフォーマンスなら、●あの人●この人もやっているじゃないか、と思いますね。
  確かに、パフォーマンスなら彼らもやっています。特に、前者の人物のパフォーマンスは、善し悪しは別にして、引き込まれてしまうものがあります(後者は、前者を真似しようとずいぶん無理をしているようだが・・・)。
  しかし、鷹山が行ったパフォーマンスと、上のカイカク大好き人間の二人とは決定的に違うことが一点だけあります。それは、鷹山のパフォーマンスは、全て「率先垂範」の現れだったということです。
  すなわち、鷹山のパフォーマンスは自分の意図することを配下の者や農民にPRするだけではなく、そうやって仕事に関わる人間たちのやる気を出させることに主眼があったのです。何かやってもらいたいことがあるとき、まずリーダーが見本を見せて、俺は本気だから、おまえらもがんばれというメッセージを投げかけるのですが、それをお為ごかしではなく、本気で取り組んでいたことが、鷹山に関する記録を読むとわかってきます。
  これに対して、小泉さんや安倍さんのパフォーマンスというのは、単なる「芸人の一発芸」なのです。つまり、他人を面白がらせて印象に残るようにすることが目的であって、他人を動かそうという意図はありません。特に、安倍さんは支持率というものを意識していることが伝わってくるエピソードが多かったです(たとえば、●多摩川でのゴミ拾い●殉職警官の弔問)。
  彼らにとっては、国民というのはパフォーマンスの観覧者に過ぎないのです。俺たちがやってやるから、黙って投票しろということです。だから、小泉さんのやっていることが「劇場型政治」なんていわれたりします。確かにみているとハラハラドキドキはするのでしょうが、だから国民が何をするかといえば、黙ってそれを見ているうだけです。
  彼らのカイカクがどういう成果を出したかどうかは別にして、こういう姿勢では人を前向きにさせるのは難しいでしょう。
  要するに、鷹山のパフォーマンスは、参画意識を高揚するものだったということです。ただウケをねらうという性質のものだったら、人は付いてこなかったはずです。

(2)到達点がわかりやすい

  何か物事を達成しようとするとき、目標が明確でなければんならないというのは、誰にでもわかることです。しかし、それが「実現できそうかどうか」というレベルまで気が回るというのは、なかなか難しいようです。
  鷹山は米沢藩の財政を改善させるために、支出を削減するだけでなく、いかにして収入を増やすかという点について努力しました。
  そのひとつが地場産業の育成だったのですが、鷹山は漆、桑、楮(こうぞ。紙の原料)の木をそれぞれ100万本植えるという計画を立てました(●こちらのリンクを参照)。この「100万本」というところが味噌です。切りがよく、わかりやすい方が目標には適しているということを、鷹山や家老の竹俣当綱(たけのまたまさつな)たちにはわかっていたのです。
  しかも、鷹山はこれを3年でやろうと言い出したのです。期限を切るというのは大変重要で、「そのうち」できればいいと思っていると、いつまで経ってもできないものです。残念ながら3年で100万本というのは達成できませんでしたが、ノウハウのある農民を役人に取り立てるなど様々な改善を施し、言い出してから8年で100万本を達成しました。
  ちなみに、この政策を実施するときも、鷹山は率先して自分の屋敷の庭に桑の木を植えたそうです。人に言うならまず自分から・・・徹底していたんですね。

(3)ソフトを重視する

  端的に表れているのは、教育の重視です。

  鷹山は米沢に「興譲館」という学校を設立しました(今でも●米沢興譲館高校として残っている)。しかも、まだ財政があまり芳しくなかった時期にです。もともと存在していた藩校をリバイバルしたもので、当初江戸で鷹山を教えた学者の細井細州が関わり、それを藩の人々が肉付けしていきました。その教育内容も実学が中心であり、当時の学校には珍しく、カリキュラムの改訂を頻繁に行っていたようです。
  のちに、農政改革を本格的に行う段階になって、「郷村出役」という農法を指南する役人をたくさん任用しなければならなかったのですが、その時に興譲館の卒業生たちを使うことができました。こういう言い方は嫌なのですが、先行投資が生きたというわけです。そして、投資というのは、物として具体的に残るものだけではないということです。
  なお、米沢の教育の礎を築いた細井細州は、鷹山を祀った松の岬神社に合祀されています。米沢藩がいかに教育を重視していたかの現れではないでしょうか。
  また、今までにない工夫をし、それに対してマニュアルを作っておくという点も重要です。米沢藩は農法に対する建議(提案)を様々な層から集め、それをノウハウとして集積していました。そして、それを領内に伝えるのが郷村出役だったわけです。
  さらに、莅戸善政(のぞきよしまさ)が中心となって藩医の研究チームを作り、本草家(薬の研究家)である佐藤成裕の助言ももらい、『かてもの』という書物を作らせました。これは、食用になる野草やキノコの見分け方、さらにはその調理法、保存法を書いたマニュアルでした。目的はもちろん飢饉対策です。天明の飢饉の反省としてこれを作らせた鷹山は、これを無償で領内各戸に配布させました。おかげで、米沢藩は19世紀の天保の飢饉で被害をほとんど出さなかったと言います。
  鷹山と同じ時代を生きた松平定信(寛政の改革の実施者)は、飢饉に備えて米を備蓄させるという選択をしました。ハードで対処するという選択しかできなかったわけです。あえて米以外にも目をつけるというのが、鷹山の優れているところです。    

(4)先を見て手を打つ

  上に挙げた興譲館や『かてもの』にしても、鷹山は今現在の問題の対処にとらわれず、先のことを考えて準備をしておくということを怠りませんでした。
  それだけでなく、今現在うまくいっていることでも、その先を見て手を打つことができたのが鷹山です。
  たとえば、養蚕が軌道に乗ってきたとき、家臣のアドバイスで「繊維原料を作っても織物を作るのに比べたら利益が小さい」ということを知り、それならば織物を作ろうと、機(はた)を購入し、「小千谷ちぢみ」で知られる新潟の小千谷から職人を招いて早速手をつけました。当時は青苧(からむし)を用いた麻織物が中心でしたが、やがて絹織物に変化を遂げ、後の世の「米沢織」につながりました。
  これを下地に、明治時代に力織機の導入した近代的繊維工業が米沢で発展することになります。富岡製糸場が利根川流域の養蚕業や織物業(たとえば「伊勢崎つむぎ」)を背景に発展したように、米沢で繊維業が盛んになったのも、鷹山の時代に始まった織物工業があったからこそなのです。

(5)急激な変革をしない

  鷹山は役人の腐敗を防ぐために、領内各所に配置した藩の代官の世襲を禁じたいと考えていました。
  しかし、鷹山はいきなり世襲を禁止したりせずに、まずは副代官の役職を設け、そこから代官職に就くことができる人材を選んでいくという方法を取りました。これは、私も非常にうまいやり方だと思います。
  また、自分に逆らう家老たちも、いきなり粛正に及んだりせず、鷹山の方針を理解してくれる人間が増えてくるまで辛抱強く待ち、明らかな反逆行為に出た七人の家老だけを処分しました(いわゆる「七家騒動」)。その際も、藩士を一堂に集め、七人の直訴状が本当かどうかを問うてから切腹を命じたものであり、非常に慎重な手続きを行ったのです。
  私たち現代人の感覚では、腐敗の原因になっている人事など、さっさと粛正してしまえばいいという感じがします。昨今の「カイカク」論者、特に公務員カイカクをやかましく唱えている人々からは、もろにそういう雰囲気が伝わってきます(そういう人間が、安倍晋三が二世議員で、小泉に至っては三世議員だということを指摘しないのは何なんだろうと思うが)。
  確かに、癒着人事といっても、それに基づいて形成されている利害関係があったり、それによって支えられている生活があったりするのです。つまり、癒着や腐敗にもそれなりの存在意義ができてしまっているのです。それをいきなりどかそうと思うと、どうしても血で血を洗う抗争になってしまい、改革しようという側とされる側がどちらも大きなダメージを受けます。何より、関係のない庶民が巻き込まれてしまって被害を受けます。
  しかし、鷹山がやったようなアプローチなら、そういう弊害は極めて小さいものにとどめることができます。変化に対応するためには、時間が必要だからです。政治改革というのは、長いスパンで行うべきなのです。

(6)地域経済の自立を志向

  鷹山のブレーンだった莅戸善政は、「樹畜建議」という一連の提案を行ったことで知られています。これは、米沢藩の経済を自立的に運営していくための方針だったと言われています。
  たとえば、上に紹介したような『かてもの』はその成果です。さらに、●成島焼も、この樹畜建議の成果です。食料のみならず、生活必需品についても藩内で持久しようという狙いです。リンク先を見てもらえばわかりますが、成島焼は非常にデザインが質素で、普段使いの食器として作られたことが明らかです。
  この、地域経済の自立性という観点を、政治の現場に携わる人々に思い出してもらいたいです。相互依存というのは平時にはあまり問題が顕在化しませんが、その地域の財政が破綻してしまった場合や、飢饉のような極限状況では非常に問題があります。食料を外部から購入しようとしても、周辺地域、あるいは全国的に食料の需要が高まっているので、調達が困難になってしまうのです。
  上杉鷹山が現代に生きていたら、きっと●自然主義経済に対して並々ならぬ興味を示したことでしょう。

  私の抜粋ではありますが、上杉鷹山の「改革」をご覧になって、どんな感想をお持ちでしょうか。昨今言われている「カイカク」というものとは、完全に違う政治のやり方だということに気づいていただけたでしょうか。

  鷹山の藩政改革を貫いていた精神は、「徹底的に領民を食わせる」ということに尽きるのだと思います。

  武士という支配階級が生きる糧は、領民の納める税しかありません。そうであれば、武士は領民を可能な限り豊かにし、その不幸を減らすために働くべきなのです。領民が豊かになれば、自分の地位も安定するし、それだけ自分に返ってくるものも増えます。
  つまり、領民の豊かさは自分の豊かさでもあるのです。そうだとすれば、 領民がどうしたら豊かになるかを第一に考えるべきだ・・・そういう発想が鷹山にはあったのだという気がします。

  鷹山が、米沢藩の家督を継ぐにあたって、決意を詠んだ歌があります。

「受けつぎて国の司(つかさ)の身となれば忘るまじきは民の父母」

  つまり、自分は領民の親のようなものなのだ・・・ということです。
  どうも今の政治家、特に「カイカク」を旗印に掲げる人々というのは、やれ郵便局員だの社会保険庁職員だの左翼だの、国民の中に敵を作ってそれを攻撃するという発想にとらわれすぎているような気がします。いつの間にか特定グループへの攻撃が目的になってしまっていて、国民を食わせるということを忘れてしまっている人たちも多いです。
  政治家は、国民というものを無条件に愛し、その庇護をはかるものだという発想をしてほしいものです。かつての利権政治家というのは、自分の選挙区の人たちだけに限定してはいましたが、その利益を守ろうという発想がありました。残念ながら、彼らはそれを全国民に広げるという発想ができませんでした。だからこそ、「カイカク」を唱える勢力に隙を与え、その攻撃を受けて衰退していったのでしょう。
  その「カイカク」勢力が国民をきちんと食わせているのかどうかは、まあこの前の参議院選挙の結果に表れたのではないでしょうか。メディアにそっぽを向かれると勝てないのが「カイカク」一派なのです。

  さらに、鷹山は35歳で家督を譲るという時、息子に「伝国の辞」と言われる訓戒を与えました。鷹山が、統治者という役割をどう考えていたかよくわかるので、引用しておきます。

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候

  これをとらえて、国民主権的な発想を先取りしていたと考えるとしたら、あまりよろしくないと思います。
  私は鷹山は、決して江戸時代では例外的な人物ではなかったと考えています。なぜなら、近代以前の支配関係というのは、人民の幸不幸が支配者の利益に直結していた面があるからです。領民の方も、粗末に扱われれば、一揆という形で徒党を組んで領主に直訴し、領主の側もそれに対して妥協せざるを得なかったという実情があります。そして、その態様も、決して暴力的なものではありませんでした。
  この点、非常に参考になるリンクがあります。

江戸時代の飢饉と百姓一揆を見直す
http://www2.ttcn.ne.jp/~kazumatsu/sub229.htm#5

  こちらを見ると、被支配者である百姓と、支配層である武士たちとの間に、信頼関係が成り立っていたことが伺えます。
  鷹山は、このような時代にあって、優秀な指導者であったことは確かです。しかし、それが「農民を虐げているのが一般的である江戸時代の殿様」の中で特別な存在だったというとらえ方は間違っています。
  むしろ、鷹山の行った改革は、伝統的な日本社会の中で指導者が取るべきだとされていた模範的な行動、すなわち「領民をかわいがる」ことの現れなのではないかと思うのです。
  その根本にあるのは、支配者と被支配者が共存共栄の関係にあるという考えです。バブル経済前の日本の企業も、おそらくそのような精神に基づいて運営されてきたはずです。従業員は会社の子供のような存在であり、一生面倒を見るべきだ・・・そんな認識が当たり前だった時代があり、それはそのまま日本が高度成長を実現した時期でした。
  それが、どうも80年代後半あたりから崩れてきて、今や会社と従業員との間の相互信頼は崩壊寸前です。会社は従業員の生活や労働環境をかえりみず、外資系の株主やバランスシートの奴隷になっているという感じすらします。
  それでもなお、日本の企業文化が成り立っているのは、鷹山が体現したような、支配者と被支配者の間の信頼関係がいまだに滅んでいないことを示しています。

  ●以前の記事で述べたように、頭のいい人ほど日本嫌いになってしまう傾向は、ここ最近さらに強まっている気がします。日本の最高学府だと言われている東京大学の優秀な学生の就職先として、「国家公務員」ではなく、「外資系コンサルタント会社」や「外国の法律事務所」が多くなってきているという話があります。明治維新が残した「森有礼の呪い」とも言うべき欧米文化へのコンプレックスは、バブル崩壊以降ますます強まっているといえます。
  そういう時代だからこそ、鷹山のような指導者がいたことをきちんと知っておくのは、我々にとって意味があると思うのです。我々が本当に(自分自身に対して)誇ることができるのは、ロシアに勝ったことでも、朝鮮を近代化させたことでもありません。支配する側とされる側が共存共栄の関係を築いてきた我が国の長い歴史なのです。

  今後も、このような埋もれた歴史を掘り返していくような記事を書ければと思っています。

  どうやら、2009年の大河ドラマの主人公として、上杉家に仕えた名将・直江兼続(なおえかねつぐ)が選ばれたということで、行く先々にそれを宣伝するのぼりが立っていました。
  鷹山公といい、直江兼続といい、観光の目玉になる人物に事欠かない米沢ですが、非常に心配になったことがあります。この写真です。
米沢駅前の元コンビニ

  コンビニだった建物でしょう。テナント募集中の看板すら出ていません。これが、米沢駅から歩いて30秒のところ、駅前中の駅前だと言ったら驚く人が(特に東京の方では)いるのではないでしょうか。 
  どうやら、米沢もモータリゼーションの例外ではないらしく、店が出ているのは幹線道路沿いばかりでした。人が集まるべき駅前は、この空き家が表すように閑散としているのです。
  幹線道路沿いの店は、東京や仙台の大資本ばかりで、ここでいくら利益が上がっても、地域の経済にはほとんど貢献しません。地元民が使ったお金が大資本の本社がある都会へ流れてしまい、地域の中で循環しないからです。
  やはり、地方の再生は自然主義経済しかないと、改めて認識した次第です。

  おまけに、米沢市内で見た光景を一つ。
遠藤武彦事務所

  はい、そうです。なんだかよくわからないうちに農林水産大臣をおやめになった遠藤武彦衆院議員の事務所です。写真にあるようなキャッチフレーズを抱えて、オーストラリアとのEPAを推進するのは確かに無理でしょうね。やめて正解だったのかもしれません。
  彼に限らず、本当に地方のこと(や、もしかしたら将来の自分の地位)を思うのだったら、カイカクという麻薬で頭がラリっている自民党から離脱した方がいいのではないでしょうか。次の総裁選は、その一つの分水嶺になる気がします。

  さて、この日の夕方、東京へ向かう夜行列車に乗るために、新潟へ向かう米坂線に乗りました。
米坂線(米沢駅)

  快速「べにばな」です。なかなか趣があります。

  途中の駅で地元の高校生がたくさん乗り降りしていました。途中でどんどん降りていなくなるだろうと思っていたら、なかなか降りません。新潟県境が目の前の小国駅まで、かなりの人数が乗っていました。
  彼らが小国で出て行った後、時刻表を引いてみました。米沢方面の学校に通うとしたら、朝何時くらいに出るのだろうと確かめたかったのです。

  そうすると、通学に適した米沢行きの列車は、なんと「6:06発」しかありません。

  新潟県境の山がちな地形ですから、さぞかし冬は雪深いでしょう。そんな場所から、朝の6時に出る電車に乗って学校に通っている若者があれだけたくさんいる。
  そういう日常が、山形の外れで営まれているのだと思うと、何か感慨深いものを覚えました。

  東京にお住まいのみなさんも、ぜひ休日には地方の空気を味わいに出かけてみてはいかがでしょうか。自分のいる場所が日本の全てだと思いこんでしまわないためにも・・・。

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Comment

●TBです

近代の一つ前の時代を考える意義
http://sun.ap.teacup.com/souun/864.html
「教科書」的明治維新観からの脱却を 上
http://sun.ap.teacup.com/souun/513.html
「教科書」的明治維新観からの脱却を 下
http://sun.ap.teacup.com/souun/514.html
早雲 | 2007年09月21日(金) 16:55 | URL | コメント編集

>新渡戸稲造の書いた『代表的日本人』

代表的日本人を書いたのは内村鑑三です。
訂正お願いします。
ラパラ | 2008年05月20日(火) 02:16 | URL | コメント編集

●>>ラパラさん

  ご指摘ありがとうございます。全く、恥ずかしい限りです。
ろろ | 2008年05月21日(水) 01:10 | URL | コメント編集

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