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2009.12.24(Thu)

もう景気は良くならない(4) 

●前回の最後に金利について言及したので、今回はその話を続ける。

利子の取得を禁止している宗教がある。キリスト教はもともとそういう教えを持っていた。そして、この姿勢は、中世に至るまで守られていたようだ。

たとえば、有名な神学者であるトマス・アクィナスは、不完全ながらも利子の取得を批判している。

http://yanagi.web.infoseek.co.jp/het04/christ.htm

「貸した金のゆえに利子を受け取ることはそれ自体において不正なことである。 ....酒あるいは麦を貸したものが二つの返還を求めたならば、 ――すなわち、一つは等しい物の返還、そしてもう一つは使用の代金、つまり利子と呼ばれるもの――不正義の罪を犯すことになるのである。」 (設問78第1項)



また、イスラム教は今でもそれを守っている。最近日本でも知られるようになってきた、イスラム金融という仕組みで、今でもその教えは生きている。

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/1356/kuru/isramicBank.html

 世界を席巻したイスラム商人を生み出したイスラム教が利潤(もうけ)を禁 じている訳がありません。禁じているのは、アラビア語で「自己増殖する」と の言葉から派生した「リバー」です。持っているだけで、何もしないで安穏と してても儲かる、というのは許せないという発想です。
 融資と投資の違いを説明する場合、たいていはシェイクスピアの『ベニスの商人』を引き合いに出すもの、と相場が決まってます(マルクスだってそうしました)。ご存じの通り、『ベニスの商人』では、商船に投資した富豪が、船が沈没したため一夜にして巨額の債務者に転落します(これは《投資》です)。そして、その元富豪に《融資》した高利貸しのシャイロックが「担保」として「お前の肉〇〇ポンドをよこせ」と要求する訳です。
 これは、投資と融資のギャップをめぐる話です。投資の方にはリスクがあり、儲かるかも知れませんが(つまり配当です)、大損するかもしれません。対して融資は、かならず見返りがあります(これが利子です)。

 イスラム銀行は、リスクの負担のない「融資」をやりません。貸し手(銀行)が元利を保証をされる一方で、借り手(事業者)だけがすべてリスクを負うことは、イスラーム的公正の観念に反するからです。この意味で、イスラム銀行はリバー(利子)をとらないのです。では、どうするか? 無利子金融では、共同事業の契約に関する法規定を活用します。資本提供者(銀行)と事業者(借り手)を共同事業者です。事業が成功すれば、資本提供者は元本を回収したうえ、儲けを事業者との間で、例えば折半します。失敗して損失が出た場合は、資本提供者の配分もゼロで、元本さえ保証されません。リスクも両方が負う訳です。



アラビア語が利子のことを「自己増殖」と名付けているのは非常に的確な比喩であろう。

さらに、ギリシア哲学の巨頭アリストテレスも、利子取得行為を厳しく非難している。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Club/9835/issue/0026.html

憎んで最も当然なのは高利貸である。それは彼の財が貨幣そのものから得られるのであって、貨幣がそのことのために作られた当のもの〔交換の過程〕から得られるのではないということによる、何故なら貨幣は交換のために作られたものであるが、利子は貨幣を一そう多くするものだからである(…)、従ってこれは取財術のうちで実は最も自然に反したものである。(57頁)



このように、金利を取ってカネを貸す行為を非難されるのは、金利に共同体や社会を破壊する作用があることを先人達が見抜いていたからである。その作用とは、富を偏在させる働きがあるということだ。

たとえば、完全に外部に向けて閉じた社会がある。この社会の中で財やサービスを交換するためには銅貨が必要だとする。近くにあった銅山からは金が取れなくなったので、新しい貨幣は作れない。つまり、彼らは常に一定の量のカネを回して活動力を融通しあっている(=総需要は一定で変化しない)ことになる。

そのメンバーの一人であるAが、仕事をして稼いだカネを使わずに貯めておいた。その後Aは新しい農機具を買いたいというBの求めに応じて、銅貨100枚を年10%の利子つきで貸した(話を単純化するために、単利とする)。

かりにBがカネを返すのが1年後になったらどうなるか。Bは利子として、銅貨10枚をよけいに払わなくてはならない。

そんなの当たり前だろう、と思う人は、すでにドツボにハマっている可能性がある。Aは貯めておいたカネをBに預けただけで、「何もしないで」銅貨10枚を手にいれた。その一方で、Bはカネを返すために、10%よけいに稼がなくてはならなくなった。

これがもし一回きりの行為ならたいした問題はないのかもしれないが、B以外にも複数の人間がAからカネを借り入れたらどうなるだろう。総需要として与えられた銅貨の枚数は同じなのだから、銅貨は次々とAのもとに流入する。あなたがAならば、貸し出す相手を増やせば利子だけで何もしなくても生活できることに、少し経てば気づくはずだ。また、生活資金を他人から取得した利子の合計(いわゆる不労所得)よりも少なくすれば、次からはもっと多くの金額を貸し出せることに気づくだろう。

もし仮に、この社会にA以外に他人にカネを貸して生計を立てる主体がいなかったとしたら、最終的には全てのカネがAのもとに集まることになるだろう。そうでなくても、Aは非常に大きな力を持つことになる。

貯蔵された貨幣が金利と結び付くと、必ずこのような弊害が生まれるのである。

この弊害を「表面上」回避する方法はあるのだが(後に述べる)、それでもなお、金利が持つ「自己増殖する」という性質、そして、それゆえに富の偏在を招くという性質は変わるところがない。

このような仕組みを、今にいたって我々は当然のものと受け入れている。しかし、そこが、大きな罠なのである。(続)

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Comment

●TBです

経済社会にとって非合理な「利息」
http://sun.ap.teacup.com/souun/164.html
ドル紙幣は貨幣ではなく「利子がつかない小額の国債
http://sun.ap.teacup.com/souun/796.html
早雲 | 2009年12月24日(木) 01:45 | URL | コメント編集

●旧約聖書

旧約聖書を少し読めば、利息の禁止、偶像崇拝の禁止、豚肉の禁止が書いてあります。
イスラム教が特別なのではなく、旧約聖書に書いてあるだけなのです。
キリスト教はそれを、守っていないだけなのです。
山 | 2009年12月28日(月) 23:13 | URL | コメント編集

●>>山さん

そうですか。

じゃあ暇があったら読んでみますね。
ろろ | 2009年12月28日(月) 23:43 | URL | コメント編集

●管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
 | 2010年01月07日(木) 21:01 |  | コメント編集

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