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2008.08.05(Tue)

宝くじ、資格試験、自分の人生 

  やっと右手が使えるようになりました。まだキーボード操作は辛いですが、どうしても書いておきたい話題があったので、無理のない範囲で書いてみます。

  来週、サマージャンボ宝くじという大型の宝くじが抽選日を迎えます。この宝くじの最高賞金は1等と前後賞を合わせて3億円で、1000億円ほどの売り上げを上げているそうです。
  かくいう私も1等1000万円程度の宝くじを結構買っていた人間なのですが、最近ある方に「その習慣は絶対にやめた方がいい」と忠告されました。なんでも、宝くじ売り場には貧乏神がいるのだと。

  そう言われて、以前にヘラルド・トリビューンという英字新聞で、読んだある記事を思い出しました。ネタ元は、ロイター通信だったようです。

貧しいと感じている人ほど宝くじを買う傾向=米調査
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-32934720080728
--------以下引用--------
 米国の研究チームは、自分が貧しいと感じている人ほど宝くじを買う傾向が強いとの調査結果を発表した。専門誌「Journal of Behavioral Decision」に掲載された同調査では、自分自身の所得が一定水準を下回っていると感じると、人はリスクを取りがちになり、貧困のわなにも陥り易いとしている。

 研究チームは、年収10万ドル(約1100万円)未満の被験者グループに対し「低所得者」であるとほのめかして宝くじ購入枚数を比較したところ、年収10万ドル以上のグループが0.67枚だったのに対し、年収10万ドル未満のグループでは1.27枚だったという。

 調査に協力したカーネギー・メロン大のジョージ・レーベンシュタイン教授は「主観的に貧しいと感じていると、人は道理に反するぐらい多くの宝くじを買うことになる」とコメント。貧しさを感じる人ほど「お金を捨てる」傾向が強いのはとても逆説的だとしている。
--------引用以上--------

>貧しさを感じる人ほど「お金を捨てる」傾向が強いのはとても逆説的だ

  アメリカの名門カーネギー・メロン大学の教授(名前から察するにユダヤ系だろう)であるレーベンシュタイン氏にとってはアベコベの話に思えるのかも知れませんが、私にはむしろ当然に思えます。
  別に私は、宝くじを買うのは貧困層だと言いたいのではありません。上の調査でも触れているように、低所得者ではないという自己認識を持っている人も、それなりに宝くじを買っています。だから、宝くじを買うこと自体は、よほどの大金持ちでない限り、どのような所得層もやっていることだと言えます。

  問題は、なぜ主観的に貧しいと感じる人間の方が、たくさんの宝くじを買う傾向があるかということです。

  冷静に考えれば、宝くじを買うという行為は、事実上カネをドブに捨てることと同価値です。私が先日買ってしまった東京都くじは、1ユニット200万本の中に1等1000万円はたった1本しかありません。前後賞、2等まで合わせてもたったの7本です。2等までに当選する確率は1000万分の35です。100年間毎日8枚買い続けてやっと1回当たる計算になるわけで、こんなものに本気になるというのは正気の沙汰ではありません。
  それにも関わらず、宝くじを買ってしまうのは、単純に言えば、低所得層には「希望」がないからに他なりません。
  良きにつけ悪しきにつけ、先進国は相当成熟した社会であり、様々な成功モデルや人材配置システムが整備されています。分かりやすいたとえでいうと、道路に車があふれかえっていて、大胆な追い越しや運転テクニックによって目的地に早くたどり着くことが困難な様子を思い浮かべてみるといいでしょう。こういう道路状況では、きちんとした交通整理に従うしか前に進む方法はありません。
  そのとき、誰がどのような社会的地位に配置されるのか、決めているのは「生まれ」です。端的に言えば、親が誰かということで全てが決まるのです。親が高学歴で、収入や財産を持っているならば、その子供はより重要で、高収入を安定して得られる職業に就くことができます。逆に、親の収入が低いと、高等教育も受けさせられないでしょうし、学歴を問わない労働集約産業も、企業によって効率的な仕事のやり方が整備されてしまっている状況で、後発組が馬力でシェアを奪うのはかなり難しくなってしまっています。建設業や運送業なども、親から経営基盤を受け継いだ人間の方が有利に決まっています。
  これを乗り越えるには、何か特殊な才能(他人の数十倍も努力したり、理不尽な仕打ちに対して屈しなかったりするのも、強烈な意欲という立派な才能)がなければいけません。その才能というのも、子供が自分でコントロールできる要素はほとんどないのが実情です。
  そうなると、残された道は何かというと、「一発逆転」しかないわけです。宝くじで一等賞を当てるというのはその典型です。一回当てれば、今までの出遅れが全部チャラになるのですから、こんなにいいことはありません。乏しい財布の中身を割く気になるのは、一発逆転しかないとどこかで分かっているからです。
  なぜ一発逆転しかないと思うのかというと、そうでなければ救われないからです。貧乏人というのは、近代の社会では「チャンスがあるのに努力しない馬鹿者」だと見なされているわけです。
  近代国家はみんなが努力して初めて成り立つという前提で作られていて(みんなが政治に興味を持てば民主主義はきちんと機能する、などという発想が典型)、国民もそのように教育されます。「夢や希望を叶えるために努力をするのは尊いことだ」「自分を信じて努力すれば、どんな夢も叶うはずだ」という感じです。
  努力したかしないかなんていうのは、そもそも他人が評価する筋合いのものではないはずですが、あえてそれをやろうとすれば、社会的地位や経済力で計るしかないわけです。金持ちが金持ちなのは正当な努力の結果であり、貧乏人はそれを怠ったから貧乏人なのだ、ということです。金持ちは「今の地位を築いたのは自分が人一倍努力をしたからだ」と言うでしょうし、貧乏人は貧乏人で、「格差を理由にする奴は怠け者だ」と、自分の仲間(笑)を叩いて憂さ晴らしをするでしょう。後者は、よくブログや掲示板などでも見かける言論です。
  そういう差を詰めるには、要するにカネ、何でもいいから大金を得るというのが唯一の方法です。「見えないところで社会を支えるような生き方があってもいいはずだ」などと言う人もいるでしょうが、それは近代国家や近代経済システムの中で評価される要素にはなりません。中にはそういう近代的な社会的地位に対して鈍感な人もいると思います。皮肉抜きで幸福な人だと思いますが、なかなかそういう人は多くありません。
  宝くじにただでさえ少ないカネを突っ込んで、馬鹿じゃないのか、というメロン大学の教授さんの意見もごもっともなのですが、そうでもしなければ絶望してしまう貧乏人もいるということは間違いありません。

  そんな貧乏人の一人である私ですが、実は生き方もかなり「宝くじ的」でした。司法試験という資格試験を受け続けていた経験があるからです。
  ご存じのように、司法試験というのは裁判官や弁護士になるための試験ですが、特に2010年で打ち切られる旧司法試験は、難しい試験ということで有名でした。合格率は2%弱で、細かい知識や論理的なパズルを解く能力が要求される択一試験と、2時間で最高4ページの答案2枚を書かなければならない(しかもそれを1日3科目やる)論文試験、学者や裁判官と法律的なやりとりをしなければならない口述試験の三段階に分かれています。択一は受かっても、論文で落ちればまた翌年は択一から受け直しです。
  私は5回で見切りをつけてしまったのですが、中には10回も15回も試験を受け続けている人がいました。一人とか二人とかいうレベルではなく、結構いるのです。そんなにやって受からないからアホなのかというとそうでもなく、法律的な知識はあるし、論理的な文章を書ける人もいるのです(予備校の模試で受験生の書いた模範答案が出るからだいたい分かる)。
  それなら、司法書士とか宅建とか、他の試験を受けて法律を使った仕事をすればいいのではないか、と普通の人なら思うでしょうが、浪人生の心理はそうではありません。私もそうでしたが、ここまで来てしまったのだから司法試験のような難しい試験に受からないと、ロスが取り返せないと思ってしまうのです。
  実もふたもないことを言いますが、弁護士や検事にならない以上、憲法や刑法や刑事訴訟法をいくらやってもムダです。他の科目は他試験に応用できますが、細かい学説だとか、(実務を全く経験していない状態で作り上げなければならない!!)法律的な文章の作成術まで勉強するというのは、明らかにムダです。
  そういうことから考えると、司法試験に突っ込んだ時間の大半は、受からなければリターンが全くなくなってしまうわけです。これをチャラにするには、合格するまで受け続けるしかないということになります。受からなければ「努力が足りない」ことになってしまうからです。

  何か、宝くじを買い続ける貧乏人と、メンタリティがよく似ていないでしょうか。

  皮肉なことだと思いますが、努力というものが持っている価値を無批判に礼賛すればするほど、そういう不幸な人間は増えることになります。
  大事なのは努力そのものではなくて、どう生きているかなのではないでしょうか。苦痛やストレスより楽しさや喜びを感じて生きる方がいいはずですし、それを他人に分けてやれるのであれば自分にも返ってくるものがあるはずです。時にはうまく行かないこともあるでしょうが、そのときの感情や経験も他人と分かち合うことで、我々は一人ではないのだと実感することができるでしょう。
  そんな日々を生きることができれば、別に宝くじなど買う必要もないし、司法試験に無駄な時間をつぎ込まなくてもいいということになります。
  もっとも、それを近代国家や近代的経済システムの中でやろうとしても、結局はありえない理想論になってしまいます。競争や数字的評価がなくてもみんながちゃんと生きていた時代、近代より前の時代について考える価値は、そのへんにあるのだと思います。

  私も、宝くじを買うのはやめて(笑)、現実を少しずつ改善することに力を注ぎたいと思います。司法試験も、もうこりごりですね・・・。

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Comment

拝啓
「貧しさを感じる人ほど、お金を捨てる傾向が強い」これには、
目から鱗です。
確かに、宝くじに当たった自分、試験に合格した自分を想像すると、
胸がワクワクします。その分、現実を直視する事に恐怖を感じるのでしょうか。

「人間が生きている理由なんて、大した事なんかじゃない。だから安心して生きていていいんだよ」っと言っていた人がいました。
煮詰まってしまった人が、一旦でも肩の荷を下ろせる「きっかけ」が大切ですね。敬具
和尚 | 2008年08月06日(水) 10:20 | URL | コメント編集

●>>和尚さん

>確かに、宝くじに当たった自分、試験に合格した自分を想像すると、
>胸がワクワクします。その分、現実を直視する事に恐怖を感じるのでしょうか。

  その通りなんです。端から見れば分の悪い賭けであっても、本人たちはたしかにそれを希望にして生きています。悲しいですが、そういう人間は一定の割合で存在します。
  本人の見通しの甘さももちろんあるのですが、それほど人間は適切な判断ができたり、自分を客観的に見ることができるわけではないですからね・・・。
  もっとも、夢「以外」に救われる道があるなら、それでもいいのかもしれません。諦めをつけることができるからです。しかし、今の社会経済状況では、それも難しいでしょう。今後、日本全体の総需要が縮小すれば、宝くじを買う人間はもっと増えていきます。司法試験は、1年間数百万かかるロースクールのおかげで、目を覚ました人が多いようですが・・・。

>人間が生きている理由なんて、大した事なんかじゃない。だから安心して
>生きていていいんだよ

  そう考えると、一発逆転を狙っている人間というのは、自分が素晴らしい人間だとか、人よりも豊かな生活をするということに対するこだわりが強いのかも知れませんね。純粋に主観的なものなのですが、それを捨てるということは今までの自分を否定することになるわけですから、転向してもしばらくは精神的に不安定な時期が続くでしょう。それに耐えられる人間が多いとは思えません。秋葉原の通り魔みたいに暴発してしまったら、元も子もありません。
  そういう「夢から覚めた」人間を軟着陸させる社会的な仕組みを作る必要がある気がします。一回諦めてしまえば楽になります。私もそうでした。
ろろ | 2008年08月06日(水) 22:19 | URL | コメント編集

●TBありがとうございます。

暑中お見舞い申し上げます。

より良き感応をめざしたものとしての歴史:「人間」は何のために存在しているんだ?
http://sun.ap.teacup.com/souun/1078.html
早雲 | 2008年08月06日(水) 23:28 | URL | コメント編集

右手のお怪我も快方に向かわれたようでなによりです。
正直に言えば、賭けに出て富を手にしたい欲望は私にもありますが、「身の丈に合わん富を手にすれば、贅沢な貧しさをひけらかすだけだ」と、昔読んだ本の言葉を思い返し自戒自制しています(笑)。それに、貧しくとも腐らず焦らず浮足たたず、つつましく自分を育ててくれた両親の姿が何よりの鑑ですね。
RAS | 2008年08月07日(木) 23:39 | URL | コメント編集

●貧しさを感じる人ほどお金を捨てる傾向が強い

これはむしろ、お金を使うことそのものに、快感・カタルシスを感じる傾向が強いということではないかと思います。
それだけ、普段、お金の足りない状況へのストレスにさらされているということですね。
まあ、悪循環ではあります。
それをわかっていても、一瞬のカタルシスに手を出してしまうというのは、どこかに「自分へのあきらめ」があるということです。
むしろ、「一発逆転」を狙う人の方が、人生の成功を本気で夢見ているだけ、真摯に人生に向き合っていると言えるかもしれません。
周囲からは、「現実を見ていない」と言われようと、諦めずに何かをつかむ人もいるでしょう。
一方では、何らかの事情で夢に終わる場合もあるでしょう。それも運命、これも運命です。

大切なことは、内なる「価値観」の深化、知恵の深まり、を育てうる生き方をするということでしょうか。
お金を捨て続けていても、自分なりの深化を体験している人はいるかもしれません。

すみません!
申し遅れましたが、はじめてコメントさせていただきます。
とても興味を引かれる、深いエントリーですね。
では。
naoko | 2008年08月08日(金) 05:23 | URL | コメント編集

●コメントありがとうございます

>>早雲さん

全く暑い日が続きますね。旧暦ではもう「残暑」なんですが…。

そちらも何卒ご自愛ください。

>>RASさん

その「腐らず」の部分を持った人を増やすには、やはり社会全体の安定が必要です。

自民党が言っている「努力した人が報われる社会」というのは、ごく一部だけに富を集中させる社会ですから、彼らに舵取りを任せている限り、宝くじの売り上げは伸び続けるでしょうね。

親御さんのような方が「あたりまえ」である世の中にしたいものですね。

>>naoko

いえ、私が言いたいのは、「一発逆転狙い」の人々もまた、人生の負債(社会的地位や財産形成につながらなかった時間)を一括返済する自分にカタルシスを得ているということです。

私が経験者だから分かるのですが、何回も落ちている司法試験の受験生は、20代後半の時期に我慢を強いられた人が多いです。それを取り返すには合格しかないと思い、ますます他のことに目が行かなくなるのです。

能力のある人間ならさっさと受かるか、見切りを付けて他に転身するのでしょうが、法曹になる夢を若い頃から持っていた人は引くに引けなくなっているんじゃないでしょうか。旧試験が300人しか受からなくなったのにいまだに2万人以上受験しているのは、そういう人が意外と多いことを示しています。

その年から地道な仕事に就くことを拒んでいるのですから、宝くじを大量に買うのと根本は同じです。ある種の能力が低いということは、ただ単にその仕事に適性がないということなのですが、それを夢や努力という言葉で直視しないのがいけないのです。

なお、他の業界の一発逆転については、あまりよく知りません。
ろろ | 2008年08月08日(金) 08:50 | URL | コメント編集

●宝くじには、確かに貧乏神がいると思います。

こんばんは、興味深く読ませていただきました。

宝くじは、お金持ちが貧乏人に夢を見させて、ついでに儲けるためにあるのかもしれません。

貧乏な人は射幸心をあおられて、その気にさせられて、結局、なけなしのお金はお金持ちに奉仕することに。

また、お金持ちでも宝く。じとか競馬競輪などに夢中になってしまうと、全財産を失って借金苦に陥ったりする方が多いし、一攫千金を当てた者ももっとたくさんを狙って結局は全部失う人は多いですから、射幸心をあおるものには、貧乏神がいると思います。

司法試験は、死に物狂いで勉強すれば受かる可能性はありますよね。射幸心をあおる宝くじとは違うように思いますけど。
ふじふじ | 2008年08月08日(金) 23:52 | URL | コメント編集

●>>ふじふじさん

>司法試験は、死に物狂いで勉強すれば受かる可能性はありますよね。

  そう思うから、多くの人が何度も浪人するのです。

  聞かれたことに法律的にバシッと答えられるような、ある種の特殊な能力や才能がいるのは間違いありません。直前に12時間も14時間も勉強するような環境がないと不利だというのも事実です。答案を見てくれたり、論文の答え方のコツを教えてくれたりする先輩の合格者が知り合いにいる人は受かりやすいと思います。
  そういう条件がないのに受け続けても、もちろん受かる「可能性」はありますが、やはりかなり低いと言わざるを得ません。

  宝くじに年間数十万も突っ込んでいるなら、その金を別の利殖や能力の研鑽に回した方が割がいいのと同じように、そんなに司法試験の勉強をしているくらいなら、他の資格を取ったり簿記だとか体力作りとか社会に出てから役に立つことをやっていればいいのに、と思うのですが、なぜかハマっている人はそれを拒絶します。宝くじを買ったり、司法試験を受けている方が、ダメだったとしてもいいわけが出来るからではないでしょうか。
  現実から目を背けているというと言い過ぎですが、ハマってしまうことで、他の可能性から目を背けて毎年同じことを繰り返しているというところが、両者は共通しているのです。
  当たらないからもう買うのやめた、と言い出したり、受からないから別のことをしよう、と思う方が、ずっと健全だと思います。
ろろ | 2008年08月09日(土) 00:16 | URL | コメント編集

素晴らしい記事です。
ろろさんのことが、ますます好きになりました。
まぁ、私の感情などはどうでも良いのですが。

 さて、宝くじを買うことを夢を買う(非常に胡散臭い表現ですが)と表現するのを耳にしますが、夢を抱くことは素晴らしいことだという社会的風潮やメディアの誘導も、こういった問題に拍車をかけていると思います。

 私たちの世代は、幼い頃から夢を見るのが当たり前と教育されてきたように思います。学校教育はもちろん、家に帰ればメディアでも繰り返し夢の実現に向かって努力すること、夢を実現することの素晴らしさが、一握りの特別な才能をもった人間の成功に焦点を当てることで喧伝されてきました。これは今も変わらないと思います。いや、変わらないどことか今の若者達が抱く夢の種類を知ると、益々そのような傾向が定着してしまっているのではないかと懸念します。

http://news.livedoor.com/article/detail/3763448/


 目標をもたせることによって成長を促すといえば聞こえが良いかもしれませんが、現実はそのように簡単にいきません。国を担う人を育てるはずの教育機関に加えて、本来社会を正しく牽引していかねばならぬはずのメディアの誘導によって「大きな夢をもたない人間はくだらない、つまらない人間だ。夢に向かって努力しない人間は駄目な人間だ。」というような風潮があるように思います。そのくせ、夢に破れた人に対しては、夢なんか見ているからだと呆気なく切り捨てます。「成功しない人間は努力が足りないからだ」という風潮と似ているように思います。

 これは一種の脅迫であり、洗脳であると私は思っています。

 斯く言う私も、10代後半から20代前半のしばらくの間、正規職員になって地道に働けという親の言うことに逆らうように、正規職員としてではない肉体労働をしながら音楽活動に打ち込んでいた時期がありました。

 具体的に言うとDJをやりつつ楽曲制作をしていたわけですが、英国のあるレーベルから認められ20曲作成することを条件に契約するという話が持ち上がったときに、私はそれを成し遂げることができませんでした。

 憧れるアーティストが運営するレーベルに認められたという自己満足に浸り、そのレーベルと直接契約できるということに無邪気に喜ぶ自分と、しかしそれを内側から冷静に見つめている自分がいて、曲作りやその後の活動に意識を集中させることができませんでした。結局、この話はうまくいきませんでした。なんというか、冷めてしまったのですね。

 そのとき内側から冷静に見つめていた自分が直感的に感じ得たことを、その当時はうまく言葉にできずに数年間迷走を続けました。いまとなれば解るのですが、それは世界中に蔓延する得体の知れない不気味さであり、その流れの中に(無)意識的に自分も飲み込まれているという事実を認識したことに対する不安だったのでした。

 この業界というのは、1ヶ月に数100枚のレコードが販売されるような、ある意味音楽を消費してゆく業界です。(ヒットチャートの順位を競うような日本の音楽事情のように、商売じみていない面はありますが。)消費されて行く音楽の中には、数年経っても語り継がれるような名曲も確かに存在しますが、それらは本当に一握りで、だいたいは消費されてはゴミくずのように捨てられて、その存在を忘れられていきます。作られる全ての音楽が人の心を突き動かす素晴らしいものであるはずはないので、これはある意味では当たり前のことです。

 問題は、夢を追わねばならないという幻想に惑わされ、ゴミくずのように捨てられて行く楽曲群を作ることに時間を費やす人が大勢いるということです。例えば、音楽というある意味では水商売的で不安定な仕事をもって生計を立てたいと願うような人間が急激に増えたことにあると思います。メジャーデビューという幻想もそれの一種です。夢と生活を切り離して生きていける状況であれば、他人からみてクズと呼ばれるようなものを自己満足で作り続けてゆくのもありでしょう。しかし、現実はなかなかそうもいってられません。

 多くの人は泥沼にはまる前にあきらめたり他の方向へと進むのでしょうが、それでも社会経験が未熟なまま、歳をとってから定職に就こうとしてもなかなかうまくいかないのが現実でしょう。また、長く打ち込んできたことを放棄して新しいことを始めるには、体力も精神力も必要です。それもまた歳を重ねれば重ねるほど、個人の努力だけでどうにかできなくなるのが現実です。ろろさんの仰るように「夢から覚めた」人間を軟着陸させる社会的な仕組みを作る必要があるのでしょうね。


 もちろん目標に向かって努力することは大切でしょう。夢を抱くこと自体も否定しません。しかし、努力というものが持っている価値や、夢を抱くことを無批判に礼賛することについて、私たちは考え直す必要があると思います。


>大事なのは努力そのものではなくて、どう生きているかなのではないでしょうか。苦痛やストレスより楽しさや喜びを感じて生きる方がいいはずですし、それを他人に分けてやれるのであれば自分にも返ってくるものがあるはずです。時にはうまく行かないこともあるでしょうが、そのときの感情や経験も他人と分かち合うことで、我々は一人ではないのだと実感することができるでしょう。 
 
 私は音楽活動を通じて、親友と呼べる一人の友人を得ました。彼が英国に赴いて私の曲を持ち込んでくれなければ件の話はありませんでしたし、夜通し彼と語り合ったことは今の私を形作る貴重な財産となっています。彼はろろさんと同じで塾講師をしており、今では生まれ育った地方に帰って教員になろうと資格を取得し頑張っています。

 人の心の在り方について考えさせられる、素晴らしい記事でした。ありがとうございました。


しわ | 2008年08月09日(土) 20:53 | URL | コメント編集

●現実から目を背けて一発逆転を狙っているふりをする…。

あるいは、自分の心に言い訳する材料とする(無意識の場合も含めて)。
そんな場合が、ろろさんのおっしゃるように多いのでしょう。
「夢を持たない人間はダメだ」という強迫観念というのもあるかと思います。

しかし…。
一方で、やむにやまれぬ理由から、夢でも持たなきゃ、生きていけないという場合もあるかと思います。
親の借金を抱えて、家族を養う高卒の若者が、「いずれ大学にいくんだ!」という夢を語る。
健康保険も払えない。こんな人生のまま死んでいきたくはない…。
そういう「一発逆転」の切ない夢もあるかと思います。

ろろさんのおっしゃりたいケースとは違うでしょうが…。
naoko | 2008年08月10日(日) 13:52 | URL | コメント編集

●>>naokoさん

今更気付きましたが、名前に「さん」付けするのを忘れていました。大変失礼致しました。

今携帯からなので、後からまた返事させていただきます。m(_ _)m
ろろ | 2008年08月10日(日) 17:09 | URL | コメント編集

●改めて、コメントありがとうございます

>>しわさん

  なるほど、興味深い経歴をお持ちだったんですね。

>国を担う人を育てるはずの教育機関に加えて、本来社会を正しく牽引していかねば
>ならぬはずのメディアの誘導によって「大きな夢をもたない人間はくだらない、
>つまらない人間だ。夢に向かって努力しない人間は駄目な人間だ。」というような
>風潮があるように思います。そのくせ、夢に破れた人に対しては、夢なんか見ている
>からだと呆気なく切り捨てます。「成功しない人間は努力が足りないからだ」という
>風潮と似ているように思います。

  メディアが社会を正しく牽引するもの「であって欲しい」とは思いますが、実際は商業主義に走るのでまず不可能でしょうね。
  私は、ブログを書き始めた頃から似たような疑問を持っていましたが、最近確信したのは「自己実現はカネになる」ということです。ホットヨガ、なんとかブートキャンプ、資格試験合格、自分らしい就職(笑)、マイホーム、豊かな老後、なんでもいいのですが、とにかく「今のあなたにはこれが欠けていて、本来あるべき自分ではない」と誘惑すると、金を出す人間があまりに多いということです。
  集金方法は、カルト宗教と同じ仕組みです。お金を出したのに効果がないと疑うと「まだ信心(努力)が足りないのだ、もっとお布施を出しなさい」という感じです。これは冗談抜きです。そういう風に生徒を「善導」しろと講師に業務命令を出している塾なんていくらでもあります。
  その元凶は、しわさんがおっしゃるように、学校教育が自己実現を人生の目的であるかのように煽っていることなのです。私はそれを団塊の世代屋高度成長のせいにしていましたが、よく考えてみると、近代国家の教育ってそんなもんなんですよね。「理性的な市民」とか「立派なフランス国民」とか、実際に存在しないものに人間を作り替えようとする。それに向けて努力をしている子供「だけ」を評価する。
  その点、入試は結果で評価できるので、まだ正当かなと思ってしまったりします。

  ちなみに、私が難しい学校に入れるように努力すべきだと思っているのは、以下の理由によります。

★変な友達がいる確率が低い
★難しい学校に行きたくなったときに勉強しやすい
★入試の科目は全ての学問の基礎になっているから、後で役に立つ

  何か素晴らしい人間になれるとか、そういう嘘をつくぐらいなら、この仕事を辞めます。そんなに堕落してはいません。
  そういうことが何でガッコーのセンセーには分からないのかなと思ったのですが、あの人たちって教員を第一志望にして実際にそれを叶えてしまった人が多いですよね。そこで20代前半から先生呼ばわりされたら、そりゃあ夢だの希望だの言い出しますよ。採用試験に10回落ちたとしても「がんばれば先生みたいにやりたい仕事ができる」になっちゃう(笑)。
  公教育で、一応公正な試験を課して人を取るわけですから、もうこういうのは避けられないでしょう。大事なのは、子供の世界を100%学校にしないことです。システム的には何とかサティアンと大差がないんですから、もっと中身の濃い人間関係を子供に持ってもらわないと行けません。以前の記事で書いた「おやじ学級」などがその有効な手段です。  

>長く打ち込んできたことを放棄して新しいことを始めるには、体力も精神力も必要です。
>それもまた歳を重ねれば重ねるほど、個人の努力だけでどうにかできなくなる
>のが現実です。

  その通りなんです。それなのに、「どんな経験も無駄にはならない」とか「始めるのに遅すぎることなんてない」とか「努力で何とかなる」とか、脳天気なことを言う人間がなんと多いことか。
  他人事だと思っているから、そんな風に言えるんでしょう。赤の他人に対して、匿名の世界だとしても、自己責任だとか努力が足りないとか軽々しく言えるのは、他人事だと思っているからです。どこかで企業が連鎖倒産しようが、自殺者が年間3万人を超えようが、全部他人事。自分の聞きたいことだけを聞いて、見たいものだけを見ようとする。
  別にそういう人が世の中に存在してもいいとは思いますが、仲良くしたくもないですし、このブログのコメント欄でご高説を賜りたくもないですね。幸い、IPをとれるここのブログに変えてから、そういう人はめっきり減りましたね。自分がアホだという自覚はあるのかな(笑)。

>>naokoさん

>「夢を持たない人間はダメだ」という強迫観念

  しわさんがおっしゃっているように、子供の頃はガッコーのセンセーが、社会に出てからは商人とその手先であるメディアが、壊れた機械みたいに言い続けているので、そういう強迫観念を持つ人が少なくないのは不思議ではありません。
  あと、意外とみんなが見逃しているのですが、表現力や感性が欠けているために、そういう歌詞を連発するミュージシャンや作詞家も共犯ですね。分かっていてふざけているというより、頭が悪いから必死こいて連呼しているって感じ(笑)。
  「恋人がいないやつは人間じゃない、恋愛が出来ない人間は屑だ」みたいな風潮も、彼らが作り出しているのかもしれませんね。最近はみんな疲れてきたのか、だいぶ多様化していますが・・・。
  
>親の借金を抱えて、家族を養う高卒の若者が、「いずれ大学にいくんだ!」という夢を語る。

  それは「十分に実現可能な将来の目標」ですよね。心のどこかにあることで、なかなかできない貯金をすることができたり、向学心が目覚めたり、いいことが多いんじゃないでしょうか。
  もっとも、私はそれが駄目だったからといって、努力が足りないなどと言うつもりはありません。

>健康保険も払えない。こんな人生のまま死んでいきたくはない…。

  こういう人が、宝くじを買うしか望みがないような世の中にしたくないので、私はブログでグローバリストとか公明党とか自民党を叩いています。
  
ろろ | 2008年08月11日(月) 01:36 | URL | コメント編集

こんばんは。

投稿した後に、思いのほか長文なことに気付きました。
人様のブログということを忘れて駄文を晒してしまい申し訳ありませんでした。

メディアの役割についてですが、仰るとおりだと思います。現実と剥離した理想を、ついつい口にしてしまうことがあります。駄目だなぁと思いました。

子供の教育についての考え方、とても勉強になります。この前の給食の話もそうですが、子供の側に選ぶ権利というのは殆どないのですよね。学校を社会と切り離した別個の環境として扱ってはならないのだと、再確認しました。そういう意味でも、記事にされた富山県の試みを素晴らしいものだと感じました。メディアの監視が薄く、地域社会の結びつきの強い地方から、そういった取り組みが波及してゆくことを期待したいです。しかし、極端な話、学校では餌を食べさせられ、強迫観念まで植え付けられて…もちろんそれだけが原因じゃあないと思いますが、そりゃあ子供のほうにも、どこか無理がでて当然ですよね。


>他人事だと思っているから、そんな風に言えるんでしょう。赤の他人に対して、匿名の世界だとしても、自己責任だとか努力が足りないとか軽々しく言えるのは、他人事だと思っているからです。どこかで企業が連鎖倒産しようが、自殺者が年間3万人を超えようが、全部他人事。自分の聞きたいことだけを聞いて、見たいものだけを見ようとする。別にそういう人が世の中に存在してもいいとは思いますが、仲良くしたくもないですし、

そうですね。私の周りにも、そういう人がいます。何も知ろうとしないくせに、人を見下したような偉そうな口調で知ったような口を効く人が。サーカスの見せ物に熱狂しているけれど、実は自分たちも檻の中に入れられた見せ物であるということに気付けないようです。
しわ | 2008年08月13日(水) 21:07 | URL | コメント編集

●>>しわさん

>極端な話、学校では餌を食べさせられ、強迫観念まで植え付けられて…
>もちろんそれだけが原因じゃあないと思いますが、そりゃあ子供のほうにも、
>どこか無理がでて当然ですよね。

  学校教育「だけ」をいくらいじっても、子供はまともにならないのです。近代的教育システム(いうなれば、カルト・サティアン方式)が機能しているか否かが問題ではなく、その外側で起こっていることなのです。学校の中に子供を閉じこめてもダメです。
  こういう話をすると、一番理解してくれないのは当の教員なんじゃないでしょうか。彼らは、子供を善導したくてあの仕事についたという人が多いはずです。情熱を持っている若い教師とか、まさにそうです。そういう変わった大人「だけ」が子供と関わってはいかんのです。
  もちろん、学校の先生方が頑張っているのはわかるのです。しかし、頑張る(=子供をパーフェクトに善導する)のではなく、親や地域と分かち合う姿勢が必要なんじゃないでしょうか。
  これはまた記事に書くつもりですが、私は公立小中学校の教員は、みんなその学校の周りにアパートを借りるなり家を買うなりして、地域の一員になってしまうべきだと思っています。社会をバラバラにしてしまう癌は、「遠距離通勤」なんじゃないかと思っているからです。
  特に若い男の先生にはいいかもしれません。車で遠くから通勤してくるから、女子生徒をメスとみなして変なことをする奴が出てくるのです(笑)。

>何も知ろうとしないくせに、人を見下したような偉そうな口調で知ったような口を効く人

  中途半端に物事を齧っている人間や、自分は成功しているなどと勘違いしている人間が一番手に負えないのですよ。本人が気づかないだけで、すでに人生に躓いている可能性があります。それに、そういうタイプは往々にして挫折に弱い(笑)。
  そういう人も、このブログを先入観なしに読んでくれるといいのになあと思います。私も、今後はそういうタイプの人を挑発するのはやめたいと思います(笑)。
ろろ | 2008年08月14日(木) 01:01 | URL | コメント編集

 どこか一所に負担を集中させるのではなく、バランスよく分散させること。そして、地域社会が、一丸となって生きる(活きる)こと、生きることを楽しむということを自然に学び合える、そういう仕組みが必要なのだと感じています。

 しかし、言うのは簡単で、具体案を考えるのは大変です。だからこそ、重ね重ね、富山県の試みを画期的で素晴らしいと思いました。

 漠然とした感覚でしか言えないのが悔しいのですが、農業の振興がこういったことにも良い効果をもたらすと考えています。皆で協力して命を育み、その命を食して自分たちの命をつなぐ。そして、また新しい命を育む。地域社会、そして共同体、生きているということの在り方を考えるのに、農業体験はとても相応しいものだと感じるからです。
しわ | 2008年08月14日(木) 20:43 | URL | コメント編集

●>>しわさん

  確かに、こういうものは、中央に期待するのは辞めた方がいいですね。近代国家の中央政府というのは、結局国民を抽象的な単位として管理するという前提がありますから、個々別々の人間の育成という目的には向いていません。「藩校」や「寺子屋」の方が基礎能力の向上には向いています。
  ただし、「エリート育成」には国家の関与が不可欠です。竹中平蔵が東大を民営化しろとほざいているのは、エリート養成機能を骨ぬきにするためです。郵政民営化に抵抗した元官僚の政治家(城内実、小林興起、小泉龍司など)は、みな東大法学部出身です。
  まあ、竹中の場合、単純に一橋出身なので、東大を逆恨みしているのもあるんでしょうね(笑)。
ろろ | 2008年08月14日(木) 21:49 | URL | コメント編集

とってもいい記事ですね!

>それにも関わらず、宝くじを買ってしまうのは、単純に言えば、低所得層には「希望」がないからに他なりません。

そうなんですよ、本当は普通の人のために「祭り」があるんですよね。けんか祭りなんかだとよくわかりますけれど、プライドをかけて戦います。それが生きがいで希望になってます。今も。すばらしい社会の装置だと思います。

いわゆる途上国のいろんな部族間でやっている戦争も、祭りと同じですね。「未開人は戦争ばっかりしていて野蛮だ」とかいいますが、実際はせいぜい一人か二人しか死なない儀礼的な戦争です。だんじり祭りとかでも毎回のように一人二人亡くなる方がいますよね。

近代的な戦争の方が、結局は野蛮なんですよね。ちょっと話がずれてしまいましたが・・・
あやこ | 2008年08月15日(金) 18:53 | URL | コメント編集

●>>あやこさん

>本当は普通の人のために「祭り」があるんですよね

  確かにそうですね。あやこさんのご指摘には、いつも目が覚める思いがします。
  ご指摘を受けて思いついたことがあり、一本記事を書いてみたくなりました。家事を済ませたら、少し頑張ってみます。
ろろ | 2008年08月15日(金) 20:25 | URL | コメント編集

どこかの経営学の言葉を思い出しました。
(確か赤字事業について、だったと記憶)
経営的な判断を行う場合、今まで使った時間とお金については、きっぱり忘れること(考慮しないこと)。
これから使うお金や時間と、そのリターン(利益)によって判断すべし、とかだった気がします。

時間やお金を掛けて得た知識は、自分にとって資産(財産)となるのですよね。
私は上司から何かを始めようと思った時は、自分の資産をまず活用すべしと教えられました。
それがもっとも効率が良いのですから。
ただ、自分の資産をいかに活用すべきかを考えると、目的と手段がごっちゃになってしまいます。

ただ私が思うに、それらを知った上でも、少ない金額であれば、買ってもいいのかとも思いますw
aQuA | 2008年08月16日(土) 17:51 | URL | コメント編集

●>>aQuAさん

>少ない金額であれば、買ってもいいのかとも思います

  私の場合、年収の数パーセントが宝くじに消えていましたからね・・・。
  当てようと思って買うと、だんだん金銭感覚が狂ってきますよ。パチンコと同じです。

>時間やお金を掛けて得た知識は、自分にとって資産(財産)となるのですよね。

  それを生かせる場所にいるかいないか、というのも重要です。
  私は、あまり上手に活用できていないので、今後は転職も含めて大いに考えないといけませんね。
ろろ | 2008年08月16日(土) 20:17 | URL | コメント編集

初めて書き込みます。いつも参考にしています。また遊びにきます!
名前未入力 | 2008年10月27日(月) 14:52 | URL | コメント編集

●>>名前未入力の方

  どうもありがとうございます。

ろろ | 2008年10月28日(火) 01:18 | URL | コメント編集

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