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2010.12.23(Thu)

カネはヒトを捨象する 

捨象(しゃしょう)とは、)事物または表象からある要素・側面・ 性質を抽象するとき、他の要素・側面・性質を度外視すること。

では、カネがヒトを捨象するというのはどういうことか。

以前、ひとり寂しい老後に備えようと、投資用の不動産を購入しようと思ったことがある。仙台や札幌のように、東京より地価が安い大都市圏でワンルームを買い、それを他人に貸して上がりを得ようという考えだった。

そうなると、買いもしないのに、ローンの支払い計画だとか、どんな相手に貸そうだとか、いろいろ考えてしまうわけだ。これを、いわゆる妄想というのだが(笑)。

その関連で大家の経営指南めいた本を読んだこともあったのだが、その中にあったのが、大学生はいい借り手だということだった。4年間は家賃を納めてくれるし、親が家賃を払ってくれるので取りっぱぐれがないからというのがその理由だった。

面白いことに、生活保護世帯や母子世帯なんかをターゲットにした賃貸というやり方も紹介されていた。なんでも、他に比べて割安な家賃にしておけば、そういう人は他に出て行かないというのだ。

後者は言い様によっては行き場に困る人に住む場所を提供してやっている側面もあるからいいとして、前者の例は、カネというものの性質をよく表しているように思う。

つまり、大家が他人に不動産を貸し出すというのは、カネを得るためである。逆に言えば、その一点を除けば、借り手の人格などに興味はない。ヤクザや中国人に物件を貸したがらない大家が少なくないのは、彼らがよけいな修繕費をかけさせたり、周囲が空き物件になる可能性が高まったりするからであって、カネをきちんと払って迷惑をかけなければ、貸すことに問題はない。

大家と店子の間には、人間的な接触は必要ない。そういう面倒くさいことは、管理会社に手間賃を払えばやってくれる。そうすることで、資産家は複数の投資案件を管理できることになり、より多くカネを得る機会が増すのだ。

そこには人間の姿はなく、カネの大小しかない。人間の様々な要素が捨象されているのだ。

投資の世界だから、そういうのは仕方がないと思う向きもあるかもしれないが、昨今はこれが「雇用」だとか、あまつさえ「家庭」にまで下りてきているのが現実である。

すなわち、会社は労働者に払う賃金をコストとしてしかみなさなくなり、なるべく低賃金で人を雇おうとする。その結果、工場や中国に移転し、会社は派遣社員だらけということになってしまっている。

もちろん、この論理は大きな流れから見たら問題がある。賃金を初めとする企業支出は、すなわち他の企業の売り上げになるわけで、やがて必ず総需要を形成する。そして、企業自身がモノを売るという形でその恩恵を受けることになる。

しかし、今の企業はミクロな視点で利益を上げることしか考えていないし、そうすることが良いことだと喧伝されている。まあ、経済循環を活発にしたくても、外資や銀行といった株主が「配当を払え」とうるさいからできないのもあるかもしれない。

家庭というのは、婚活などというアホらしい産業を見てみると分かりやすい。相談員は、女性相手に必ず希望年収をきくそうだ。結婚相談所というのは、不特定多数の会員を紹介するので、その中の一部を抜き出すとなると、どうしても年収のようなデータでふるいをかけて行かざるを得ない。

というより、そういう相談所に伴侶候補を求めて来訪する女性は、希望年収を前提に相手を選ぼうとしていることがほとんどではないのか。

もちろん、長期的に安定した家庭を営むためには、性格が合うだとか、同じ目的意識(たとえば子育て、家業)を持っていることだとか、年収の多寡以外の側面が大きく影響する。しかし、大勢の中からピックアップするとなると、カネをどれだけ稼ぐかという点だけが問題になってくる。

ここでも、人間の諸要素は捨象されていることがわかる。

以上をまとめると、今の社会は人間を評価する時、「いくら稼ぐか」「どれだけ損をするか」という、金銭的な利害得失だけに焦点を当てている。そして、それ以外の要素はほぼ無視して人間を評価することになる。

これが、「カネがヒトを捨象する」ということの意味である。

これは、日本が近代経済システムを導入した明治以降、必ず訪れる必然であった。しかし、戦前においては、日本の土着文化があまりに強固だったため、徹底した破壊は進まなかった。

そして、戦後日本でも、冷戦に隠れて経済発展を遂げ、右肩上がりの成長の恩恵にあずかれる人が多かったため、カネのことに汲々とする必要がなかった。 そうやって、ごく最近、おそらくは昭和天皇が崩御する頃まで、カネによって捨象されることの残酷さに気づかずに来たわけである。

今、我々、特に若い世代は、カネの持つ捨象作用に切り刻まれ、あっけなく捨てられる運命にある。これを見て、一部の者は、よく一定の地位を占めている団塊の世代等が若者を締め出しているのだという。

しかし、問題は世代間対立なのではない。上の世代は、カネをよりたくさん得るために、新参者をうまく利用しようとしているだけである。憎くてやっているわけではない(そういう感情を、社会上層部に利用されている節はある)。

先日の取手の刃物男や秋葉原の無差別殺傷事件の被疑者、さらには自殺する小中学生というのは、そういった社会の冷たさを感じ取って、おかしくなってしまったのではないか。

そうだとすると、我々ができることは、今の経済システムから徐々に抜け出し、人間を不幸にしない新しい経済の仕組みをつくっていくことである。

具体的には、自分たちで衣食住をまかない、エネルギーを自給し、余剰生産物は地域単位の減価する通貨で交換する。そうすることで、カネを貯めてヒトに貸すことが不合理になり、金融(カネをきちんと返すかどうかしか興味がない、捨象の最たるもの)が頂点に立つことがなくなる。

今はまだ、いろいろな慣習やしがらみが居座っていて、なかなか「近代」の壁を打ち破るのは難しい。自分たちが取り組んでいる自給的な農業ひとつとっても、そういう障壁を痛いほど感じている。

しかし、そんなものに負けていては世の中を変えられない。今は我慢の時である。やがて来る我々の時代は、我々自身が良い方向へ変えていく。そういう気概がなくては、真の変革は成し遂げられない。

いつか必ず、実現しよう。ヒトが捨象されない社会を。


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