年末のご挨拶
すっかり耕作放棄地状態になってしまったこのブログも、一応再開することに決めました。
残念ながら、まだ本格的に力を入れて執筆(?)をできる状況にはありません。そういうわけで、ネット上にちらばっている情報をいろいろ調べて、それをもとに記事を書くという、ここ本来のスタイルにはしばらく戻れないと思います。
しかし、それでもこのブログは続けていきたいと思います。
理由はいくつかあるのですが、まず一つ目は自分自身将来の道筋がある程度開けてきて、浮動状態から脱しつつあることがあります。あまり詳しくは申し上げられませんが、塾講師をメインにやっていくのはおそらく来年限りで、今後は別の仕事に従事することになります。
また、以前から関わっていた某政党と縁が切れて、政治的な考えを発表するのに気兼ねがなくなったというのもあります。簡単に言えば、その団体が急におかしな方向へ行きだしたので、私や仲間が脱退したのです。以前はそこの「教義」に縛られて、今の議会政治や経済システムについて議論しても意味がないと盲信していたのですが、それ自体現実社会の問題を直視していないのではと疑問を感じ、いろいろあって脱退に至りました。
そして、一番大きいのは、私自身が「言ってるだけ」の状態から、「実行」をし始めたということです。
近代経済システムの最大の問題点は、貯蔵可能なカネの大小によって人間が序列化されてしまうことにあり、その仕組みを抜け出たところで自律的な生活を営むしか最終的な解決方法はありません。
そうだとすれば、そういう生活を自分で作っていかねばならないのですが、私自身が自分のやりたいことを優先してしまったことと、なかなかそのような仕組みを作るスタートラインにもつけずにいました。
しかし、今年の9月、上に述べた某政党から脱退した仲間と一緒に、無理のない形で新しい生活スタイルに移行していけるきっかけ作りをやろうということで活動を始め、今月ようやく耕作する場所が決まりました。なにしろまずは食糧生産ができなければ仕方がないので、田んぼと畑で必要なものをつくることから始めたわけです。
外向けの発信という点では、他の仲間より私の方が一日の長があるので、こちらでも拠点作りの様子は少しずつ報告してまいります。もっとも、私自身が一番参加できる機会が少ないメンバーなので、どの程度期待に添えるかは未知数ですが…。
最後ですが、このブログで新しい記事が上がるのを期待されている方も少なからずいらっしゃると知り、勇気が湧きました。
言葉で物的条件を変えることはできませんが、それを変えようとする人の心を動かすことはできるのだと思います。
そういうわけで、懲りずに2011年も頑張ります。みなさん、よいお年を。
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カネはヒトを捨象する
では、カネがヒトを捨象するというのはどういうことか。
以前、ひとり寂しい老後に備えようと、投資用の不動産を購入しようと思ったことがある。仙台や札幌のように、東京より地価が安い大都市圏でワンルームを買い、それを他人に貸して上がりを得ようという考えだった。
そうなると、買いもしないのに、ローンの支払い計画だとか、どんな相手に貸そうだとか、いろいろ考えてしまうわけだ。これを、いわゆる妄想というのだが(笑)。
その関連で大家の経営指南めいた本を読んだこともあったのだが、その中にあったのが、大学生はいい借り手だということだった。4年間は家賃を納めてくれるし、親が家賃を払ってくれるので取りっぱぐれがないからというのがその理由だった。
面白いことに、生活保護世帯や母子世帯なんかをターゲットにした賃貸というやり方も紹介されていた。なんでも、他に比べて割安な家賃にしておけば、そういう人は他に出て行かないというのだ。
後者は言い様によっては行き場に困る人に住む場所を提供してやっている側面もあるからいいとして、前者の例は、カネというものの性質をよく表しているように思う。
つまり、大家が他人に不動産を貸し出すというのは、カネを得るためである。逆に言えば、その一点を除けば、借り手の人格などに興味はない。ヤクザや中国人に物件を貸したがらない大家が少なくないのは、彼らがよけいな修繕費をかけさせたり、周囲が空き物件になる可能性が高まったりするからであって、カネをきちんと払って迷惑をかけなければ、貸すことに問題はない。
大家と店子の間には、人間的な接触は必要ない。そういう面倒くさいことは、管理会社に手間賃を払えばやってくれる。そうすることで、資産家は複数の投資案件を管理できることになり、より多くカネを得る機会が増すのだ。
そこには人間の姿はなく、カネの大小しかない。人間の様々な要素が捨象されているのだ。
投資の世界だから、そういうのは仕方がないと思う向きもあるかもしれないが、昨今はこれが「雇用」だとか、あまつさえ「家庭」にまで下りてきているのが現実である。
すなわち、会社は労働者に払う賃金をコストとしてしかみなさなくなり、なるべく低賃金で人を雇おうとする。その結果、工場や中国に移転し、会社は派遣社員だらけということになってしまっている。
もちろん、この論理は大きな流れから見たら問題がある。賃金を初めとする企業支出は、すなわち他の企業の売り上げになるわけで、やがて必ず総需要を形成する。そして、企業自身がモノを売るという形でその恩恵を受けることになる。
しかし、今の企業はミクロな視点で利益を上げることしか考えていないし、そうすることが良いことだと喧伝されている。まあ、経済循環を活発にしたくても、外資や銀行といった株主が「配当を払え」とうるさいからできないのもあるかもしれない。
家庭というのは、婚活などというアホらしい産業を見てみると分かりやすい。相談員は、女性相手に必ず希望年収をきくそうだ。結婚相談所というのは、不特定多数の会員を紹介するので、その中の一部を抜き出すとなると、どうしても年収のようなデータでふるいをかけて行かざるを得ない。
というより、そういう相談所に伴侶候補を求めて来訪する女性は、希望年収を前提に相手を選ぼうとしていることがほとんどではないのか。
もちろん、長期的に安定した家庭を営むためには、性格が合うだとか、同じ目的意識(たとえば子育て、家業)を持っていることだとか、年収の多寡以外の側面が大きく影響する。しかし、大勢の中からピックアップするとなると、カネをどれだけ稼ぐかという点だけが問題になってくる。
ここでも、人間の諸要素は捨象されていることがわかる。
以上をまとめると、今の社会は人間を評価する時、「いくら稼ぐか」「どれだけ損をするか」という、金銭的な利害得失だけに焦点を当てている。そして、それ以外の要素はほぼ無視して人間を評価することになる。
これが、「カネがヒトを捨象する」ということの意味である。
これは、日本が近代経済システムを導入した明治以降、必ず訪れる必然であった。しかし、戦前においては、日本の土着文化があまりに強固だったため、徹底した破壊は進まなかった。
そして、戦後日本でも、冷戦に隠れて経済発展を遂げ、右肩上がりの成長の恩恵にあずかれる人が多かったため、カネのことに汲々とする必要がなかった。 そうやって、ごく最近、おそらくは昭和天皇が崩御する頃まで、カネによって捨象されることの残酷さに気づかずに来たわけである。
今、我々、特に若い世代は、カネの持つ捨象作用に切り刻まれ、あっけなく捨てられる運命にある。これを見て、一部の者は、よく一定の地位を占めている団塊の世代等が若者を締め出しているのだという。
しかし、問題は世代間対立なのではない。上の世代は、カネをよりたくさん得るために、新参者をうまく利用しようとしているだけである。憎くてやっているわけではない(そういう感情を、社会上層部に利用されている節はある)。
先日の取手の刃物男や秋葉原の無差別殺傷事件の被疑者、さらには自殺する小中学生というのは、そういった社会の冷たさを感じ取って、おかしくなってしまったのではないか。
そうだとすると、我々ができることは、今の経済システムから徐々に抜け出し、人間を不幸にしない新しい経済の仕組みをつくっていくことである。
具体的には、自分たちで衣食住をまかない、エネルギーを自給し、余剰生産物は地域単位の減価する通貨で交換する。そうすることで、カネを貯めてヒトに貸すことが不合理になり、金融(カネをきちんと返すかどうかしか興味がない、捨象の最たるもの)が頂点に立つことがなくなる。
今はまだ、いろいろな慣習やしがらみが居座っていて、なかなか「近代」の壁を打ち破るのは難しい。自分たちが取り組んでいる自給的な農業ひとつとっても、そういう障壁を痛いほど感じている。
しかし、そんなものに負けていては世の中を変えられない。今は我慢の時である。やがて来る我々の時代は、我々自身が良い方向へ変えていく。そういう気概がなくては、真の変革は成し遂げられない。
いつか必ず、実現しよう。ヒトが捨象されない社会を。
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「新しい戦前」の始まりか
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=1219&f=business_1219_016.shtml
東京都が、性描写を規制する青少年健全育成条例改正案が可決した。漫画家や出版社など反対派は多く、経済面にも影響を与えそうだ。
東京都議会総務委員会は13日、子どもの登場人物による露骨な性行為が描かれた漫画などの販売・レンタルを規制する青少年健全育成条例改正案を可決。都議会の民主、自民、公明の3会派が賛成した。改正案では「刑罰法規に触れる性交等」などを「不当に賛美・誇張」して描いたものを規制対象とし、書店に対して18歳未満への販売を禁止し、店頭での区分陳列を義務づける。
これまで賛成派、反対派ともに活発な動きを見せていた。賛成派の都小学校PTA協議会ら5団体は12月3日、石原慎太郎都知事に要望書を提出。都小学校PTA協議会の新谷珠恵会長は「子どもたちが健やかに育てるように、社会作りにお力添えをいただきたい」と述べ、児童が性的対象になることが、野放しの状態となっている現状に、早急な改善を訴えた。
一方、反対派としては、11月29日には漫画家のちばてつや氏、秋本治氏や出版社の幹部などが条例に反対する声明を発表。ちば氏は「この条例によりアニメや漫画を志す若者たちが萎縮するのではないか」「漫画やアニメーションの文化がしぼんでしまうことをすごく心配している」と語っていた。秋本氏は「自由度があるのが漫画の世界。それを規制すれば、『こち亀』の両さんは単なる普通の生活を送らざるを得ない」との意見を述べていた。
12月3日には、改正案に反対する弁護士や日本ペンクラブ、大学教授らが、規制範囲が拡大しているとして会見を行った。規制の対象となる行為をキャラクターの年齢制限ではなく、「刑罰法規に触れる性行為」に変更したことで規制範囲が広がり明らかに表現規制だと主張している。
12月10日には、角川書店のほか講談社、集英社、小学館など主要な漫画雑誌や単行本を発行する出版社でつくる「コミック10社会」も同改正案に抗議の意思を示すため、「東京国際アニメフェア」への出展辞退を表明した。このイベントは石原都知事が実行委員長を務め、2011年3月下旬に開催予定とされていたが、現時点では開催を危ぶむ声も上がっているという。
インターネット上でもさまざまな声が上がっており、「漫画やアニメが害悪で、小説なら害悪じゃないと言いたいのか?」といった指摘や「もうこれはオタク文化だとかそういうレベルじゃない。この法案を通したら、他のものまで一気に失う」といった反対派の意見が多く見られた。
賛成する声としては「理性が未熟な子どもが、過激な物に触れてはいけないとも思う。ゾーニングの徹底なら賛成」「漫画は好きだが、今の惨状を認めたら、せめてブース分けぐらいの努力は必要。海外で変態が日本文化として紹介されているのは異常」といった意見もある。
一方で「日本の漫画やアニメ文化は、10兆円規模ともいわれており、今や日本経済を支える産業の一つとなっている。それを自ら縮小させようとするのだから滑稽だ」という経済への影響を懸念する声も見られる。
東京都には、出版社や印刷会社が集中しており、漫画やアニメなどサブカルチャーの聖地ともいえる秋葉原もある。またビッグサイトでは、同人誌の即売会も開催されている。今回の規制は、市場の縮小傾向が続いている出版業界にとって、経済的な打撃も大きそうだ。
ところで、問題の条例を立案した東京都青少年・治安対策本部長の倉田潤さんというお方は、とんでもないお方らしい。
なんてったって、冤罪事件で下がった株を、この条例で上げようっていうのだから。
以下のリンクに、その辺の事情が書いてある。
http://www.asyura2.com/10/senkyo82/msg/503.html
リンク先で言及されている志布志事件というのは、こういう事件である。
志布志事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%97%E5%B8%83%E5%BF%97%E4%BA%8B%E4%BB%B6
要するに、冤罪事件で「左遷」になった警察官僚が、出世街道に復帰するために冒頭記事の条例で点数を稼ごうと思ったようだ。
エロ漫画やエロアニメが取り締まれるようになれば、警察の検挙件数が増えて予算が獲得しやすくなる。そして、アングラが表立って発表できなくなれば、当然地下に潜る(規制=人間の欲望が減るわけではない)ことになり、そこでは警察と昵懇のヤクザが法外な値段でシノギを得ることになる。そんな感じだろう。
しかし、私利私欲を、「公共のため」という嘘で塗り固める。エリートにはそれが許されると思っている節がある所など、この倉田という人物は、まさに我が国のエリート官僚という感じがする。
戦前にも、そうやって国家を私し、国民を不幸のどん底に叩き込んだ「エリート」がいた。革新官僚である。
革新官僚とは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%A9%E6%96%B0%E5%AE%98%E5%83%9A
革新官僚については、●前のgooブログでも記事を書いた。昔の記事はネット右翼そのものという感じのものが多く、はずかしい限りだが、これについては訂正の余地を感じない。
そして、問題はこういう条例を支持している側の人間にもある。
この手の「健全育成」条例と、そのような決まりを用いて統制国家を作ろうとする官僚を支援する連中がいる。PTA協議会などがそうだが、そういうところに集まる人間は、奇妙な純潔主義に染まっているところがある。
たとえば、政治家はカネに汚いとか、ネットは犯罪の温床だいうことをそういう人たちはよく言い、一番大事なのは清廉で健全であることだと唱える。
しかし、面白いもので、そういう連中は、政治を実際に動かしている官僚がいるとか、ネットを使って企業がサービスや宣伝を行っている事実については全く目を向けない。
そして、こういう連中こそが、戦前に「政治家は腐ってる、軍人さんは陛下の息子だから高潔なひとたちだ」とか思って、中国侵略や対米英戦争を熱狂的に支持した連中なのである。
たとえば、以下のリンクにあるような婦人団体など良い例である。
国防婦人会
http://myp2004.blog66.fc2.com/blog-entry-22.html
恐ろしいことは、国防婦人会に参加していた人たちの多くが、善意で若者を戦場に送り出していたことだ。これは、エロ本狩りに血道を上げる現代のPTAにも言えることである。
そして、そういう活動をしていた人間は、戦争が終わったら、手のひらを返すように平和が一番とか、国家が悪い天皇が悪いとか言い始めたタイプである。●戦時中、時局婦人会に加わり、戦争遂行に協力した市川房枝など、まさしくそういう生き方をしてきた人間だ。
「他人が不快に思う娯楽など要らない。そんなのを楽しみたい人間はクズだ」
「性欲を解消したいならパートナーを見つければいい。できないのは努力が足りないから」
「サブカルチャーなんて不健全なものはこの世から消えてなくなれ」
「私たちが望んでいるのは、心が清らかで理性的な人たちだけが集うきれいな社会。くだらないゴミどもは消えろ」
最後のなんて、まるで『デスノート』の主人公みたいな考えだが、PTAにいる目のつり上がった連中の考え方からはそう離れていないだろう。
そして、その純潔主義は、ソ連に範を求め、完璧な国家統制経済を夢見た革新官僚に相通ずるものがある(そして、戦中から戦後にかけて、その一部が実現した)。
なにより、この件で一番問題があるのは、表現の自由を一番守るべき立場にあるマスコミである。
マスコミ各社は、この件に関してはやけに「客観的」だ。小沢一郎に対する「説明責任を果たせ」「国会で弁明しろ」の継続的かつ熱烈な大合唱と比べてみるといい。「表現の自由を守れ」という社説を掲げる新聞もなければ、反対キャンペーンをやるテレビもない。
石原がナンキンだとかヤスクニだとか、はっきり言って庶民にとってどうでもいいことに言及すると、ムキになってそれを叩くのとえらい違いだ。
おまえら、アツくなるのは、小沢の政治とカネの問題じゃなくてこっちだろう、と言いたくもなるものだ。
以上のように、白か黒かしか見えない純潔主義と、それに乗じて統制国家を作ろうとする革新官僚。そして、それらを抑止するどころか、火に油を注ぐマスコミ。 これを見て、みなさんは何を思うだろう。
これこそ、まさに「新しい戦前」ではないのか。
貧しくなっていく国民(ついに●一人あたりGDPで台湾に抜かれた!)、尖閣問題に見られる国家主義的な意見の台頭を見ても、そういう懸念を感じざるを得ない。
このブログの読者のみなさんには、最後の最後まで、理性を失わず、国家やマスコミの姿勢を批判する視点を忘れないでいただきたいものである。
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自殺はなぜなくならないのか
某所で日記として書いていたものですが、こちらでお見せするべきかなと思ったので投稿しておきます。
なお、今後も定期的な更新があるかどうかは未定ですので、RSSリーダでもお使いになって気長にお待ち下さい。
自殺者、今年も3万人超確実に 警察庁まとめ、11月末で2万9105人
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/101206/crm1012061709017-n1.htm
--------以下引用--------
警察庁は6日、11月の自殺者数(速報値)を公表した。前年同月比9・6%増の2765人で、1~11月の合計は2万9105人に上った。1カ月間の自殺者は2400~2900人台で推移しており、平成10年以降13年連続で年3万人超がほぼ確実になった。
政府は昨年、自殺対策緊急戦略チームを発足。今年2月には相談態勢の充実などを盛り込んだ「いのちを守る自殺対策緊急プラン」を策定するなど、自殺防止策を強化し、今年上半期は前年同期比7・4%減の1万5906人と、下半期次第で3万人を下回る可能性も出ていた。
しかし、7、8月は一転して前年同月を上回り、11月は今年最高の上昇率を記録。前年1~11月の3万357人を下回っているものの、3万人突破は避けられない情勢になっている。
都道府県別では東京が2693人で最多。次いで大阪が1898人、神奈川が1682人となっている。
--------引用以上--------
>自殺防止策を強化
私は、優しくないので、「何もやらないよりはマシ」という評価すらしない。
こんなことはいくらやっても無駄である。それどころか、根本的な解決を先延ばしにしているだけと断ずる。
なぜなら、自殺は結果であり、それ自体をなくしたり是正したりできるものではないからである。
2009年の自殺者の原因(特定者のみ)のトップは、「経済的理由」である。そして、自殺者のうち約57%の職業は「無職」である。
おそらく、その他の要因も、経済的な理由で生活が行き詰まり、その結果として引き起こされたものが大半であると推測できる。
よく若年者が世をはかなんで自殺するというケースが大々的に報じられるが、そんなものはごくごく一部でしかない。
むしろ、ああいった報道はメディアが「自殺というのは、心に傷を負った人が一大決心をしてやるもの」という情報を拡散するために流しているもの、要するにプロパガンダなのではないかと思っている。
そして、ジャーナリストやら作家やらが「生きづらさ」などという言葉でお茶を濁し、なにやら文学的なストーリーを語り出してしまう。
くだらんお遊びは大概にしておけ、と言いたい。
阪神大震災ですら、6000人が亡くなったに過ぎない。それをはるかに上回る人間が死んでいる。労働力も税収も減っているし、何より残された家族に対する社会的影響(もちろんマイナス)も大きい。
自殺を、情緒的な問題に終わらせてはいけない。
では、一体どうすれば自殺が防げるか。
自殺の原因が経済的な理由だということは、煎じ詰めれば必要なカネが手に入らないからそうなってしまうのである。
だから、まず第一の対策は、必要なところにカネが行くようにすること、カネに困っている連中から収奪しないことである。
亀井静香(国民新党代表)が金融担当大臣だったとき、中小企業向け返済猶予(モラトリアム)を実行したことがあった。日経新聞などのメディアが大反対キャンペーンをやったが、それでもやりぬいた。去年の終わりの頃だった。
そうしたら、今年の自殺者は前年比で1300人近く減った。資金繰りに困って首をくくる中小企業の経営者がいなくなったのは間違いない。
自殺者の数が急増したのは、今年の下半期である。あの時期にあったのは参院選だ。菅直人が消費税増税を打ち出し、選挙に大敗して、国民に「民主党政権はだめだ」という絶望感を蔓延させた時期と重なっている。
言い換えれば、適切なマクロ経済政策(財政出動など、国単位で大きく考えた経済政策)を採れば、自殺者は減少する可能性は高い。
しかし、今の日本ではそういう方向を目指すと政権が持たない。鳩山政権が外部どころか、民主党という内部からも攻撃されて撃沈したことからも明らかだ。
代わりに成立した菅政権は、自民党も真っ青の緊縮財政を指向している。
詳しくは述べないが、政治を支配している人びと(財界や某外国など)は、日本にいつまでも不況でいてほしいのである。だから、適切なマクロ経済政策が採られる見込みは、今後ほとんどない。
唯一可能性があるのは、亀井静香ら国民経済重視派を政権に据えるだけの見識があるリーダー、すなわち小沢一郎の復権である。しかし、大多数の国民は、小沢の名前を見ただけで反射的に嫌悪感を持つように「教育」されてしまっている。まるで、パブロフの犬のように。
だから、もうそういう方面にはあまり期待できないし、すべきではない。
では、一体どうすれば自殺者を減らせるのか。
というか、我々自身が自殺せずに済むのか。
それは、今ある経済の仕組みを個々人が越えていくことより他ない。
下品な言い方だが、今の世の中は、人間の値段がどんどん安くなっている。たとえば、昔に比べて高度な労働力を安い値段で買えるようになっている。派遣労働者の中には、高度成長の頃の正社員よりずっと能力が高い人が多数存在するが、それらを企業は低いコストで雇うことができるわけだ。
努力をすれば豊かになれるというが、その努力のレベルも並大抵のものではなくなっている。というより、たまたまそういう場所にいるかどうかで給料や待遇が大きく変わってくるという不公平な状況が生まれてくる。
だから、自分の商品価値を高めて幸せになろう、という方向に、あまり力を割かない方がよい。というか、そんなことを考えているから自殺してしまうのである。
これからは、お金のかからない生活に徐々にシフトしていくのが正しい。
地方に住んでいる人は是非とも始めてほしいのだが、自分の家の庭で野菜作りをやってみるのはどうだろう。農家の知り合いや親戚がいたら、畑や田んぼを丸ごと借りてみるのもいい。それで、とりあえず飢え死には防げる。
エネルギーもなんとかなる。私の友人である大学の先生が「石油の要らない車」の開発に成功しつつある。
えひめECO FESTIVAL参加!!
http://www.hitoeco.com/contents/%e9%80%b2%e8%a1%8c%e7%8a%b6%e6%b3%81/475.html
事前の面倒なプロセス抜きに植物廃油で走る車である。こういうものがどんどん広まれば、石油資本や東京電力にカネをむしり取られることはほとんどなくなる。
とっておきの秘策が「地域通貨」なのだが、その方面で最近痛い目に遭ったので声を大にしては言わない(笑)。
こういう生活のためには、今当たり前だと思っているものをいくつか捨てなければならなくなるかもしれない。あるいは、もう手に入れるのを諦めなければならないかもしれない。
しかし、そのうち本当に必要なモノがどれだけあるか考えてみたことはあるだろうか?
たとえば、塾に行かなければ高校入試や大学入試に合格しないわけではない。大学入試は楽になってきているし、合格するための方法などただでいくらでも手に入る。
その結果として塾が成り立たなくなっても、そんなのはもうすぐやめる私にとってはどうでもいい(笑)。
また、持ち家に住まなければ死ぬわけでもない。需要が減っているから、ちゃんと家賃(これくらいは稼ごう)を払ってまともに暮らしている人を、大家も邪険にはしない。
服も、アクセサリも、高級な食べものも、回数を減らせばいいし、なければないでなんとかなる。
大事なのは、そういう生活をしている自分を惨めに思わないことである。
そうは言っても、ほとんどの人は、上記のような生活をすることを「貧乏」だとか「つまらない」ものだと思ってしまうに違いない。
だからこそ、先駆者が必要だと思っている。
これから我々が神奈川の片隅で進めているプロジェクトは、大企業や政府にひざまづかず(無視したいが今は難しい)、カネを単なる手段としてテキトーに扱い(敵視はしない)、それでも面白おかしく生活できるコミュニティ作りである。
今は体制作りの苦労が続いているが、そのうち団体としてまともな活動ができるようになるだろう。ゆくゆくは、東京のカネが回っているところに負けない知的能力、戦闘能力、生存能力のある集団を作り上げるつもりである。
「自殺するくらいなら、ここに来て一緒にやってみよう」と、呼びかけられるような場所をつくる。それが、私の答えである。
みんなにはどうか、その日までなんとしてでも絶望しないで生き抜いてほしい。
こんな下らん世の中のために自分が死ぬ必要はない。
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