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2009.10.29(Thu)

貿易の守護者に与えられる魔法の杖・・・その名は「基軸通貨」(3) 

  ●3回前の記事の続きです。

  いきなり話に入るとなんなので、一部の読者のみなさんにとって強烈に腹が立つかもしれない記事をまず引用しておきます。

<在日中国人のブログ>日本が狙う中国人中産階級の財布
http://www.excite.co.jp/News/china/20091028/Recordchina_20091028016.html

2009年10月27日、日本の華字紙・日本新華僑報の蒋豊(ジアン・フォン)編集長は自身のブログに「日本が狙う中国中産階級の財布」という題名の文章を掲載した。以下はその要約。

共産主義の中国に真の「中産階級」があるかどうかの議論はさておき、現在の中国人にとって「中産階級」とは一種の流行であり、憧れでもあり、大きな目標でもある。日本では「中産階級」という言葉はあまり使われず、「中間所得層」という言葉が一般的に使用される。

今年6月29日付の読売新聞は「世界不況で打撃を受けた日本企業は中国やインドなどのアジアの中間層を狙うべき」と主張する社説を掲載した。記事によると、アジア各国(日本を除く)における世帯年収50~350万円の中間所得層は、90年には1億4000万人だったが、08年には約6倍の8億8000万人にまで増加。新たに増加した層は主に中国人・インド人であると指摘している。また、今年の日本政府の通商白書でも、従来の対欧米輸出に依存する構造を見直すよう示唆すると同時に、アジア新興国の中間所得層向けのビジネスに注目している。これらを受け、「内需の減速は彼らの購買力で補えるだろう」と記事は記している。

日本政府は今年7月1日に中国人富裕層のみを対象に日本への個人観光ビザを解禁した。国際観光振興機構(JNTO)の統計によると、2008年までに日本を訪れた中国人観光客は100万人を突破。彼ら1人当たりの日本での平均消費額は30万8000円にものぼる。こうしたことから前原国交相は今月、中国人富裕層誘致のため、「個人ビザのさらなる緩和策を考えたい」と発言。「1億総中流」と称した日本はすでになく、低所得者と高所得者の両極化が進む現在の日本がターゲットに狙うのは、購買意欲あふれる中国の「中産階級」の財布なのだ。


  個人的には、この部分が気になりました。

>前原国交相は今月、中国人富裕層誘致のため、「個人ビザのさらなる緩和策を考えたい」と発言。

  ●こちらにくわしい記事が出ていますが、さすが大企業(というかパナソニック)の利益を第一に考える松下政経塾出身のリベラル政治家の面目躍如、と言いたくなる政策です。
  もちろん、これはこのバカひとりの発想ではなく、日本という国の利害関係人(今回は経団連や旅行業界といったグローバリスト企業だろう)がそういう政策を望んでいるということですが、その背景にあるのが、赤字で強調した

>「1億総中流」と称した日本はすでになく、低所得者と高所得者の両極化が進む現在の日本

  という現状です。
  
  一億層中流と言われ、ほとんどの家計がマイカーやマイホームを獲得することができたという時代が、かつての日本にはありました。チュウゴク人の財布をあてにしないと一部の産業が成り立たない(とマスコミがPRしても嘘っぽく感じなくなった)今からは想像もできない時代です。
  上のブログを書いたという中国人も、多くの日本人も気づいていないことですが、この「両極化」や、その裏返しにある中国における中産階級の台頭というのは、全て1980年代半ばに仕込まれた政策がもとになっています。
  一つ前の記事で扱った1970年代までの日本の経済というのは、簡単に言えばこういう感じです。

1.アメリカ相手に貿易黒字を稼ぐ
2.貿易で得た黒字を国内に還元する
3.外資の参入を規制して、利益を国民経済の外部に出さない


  1.については、いまだに小中学生向けの教科書で現在進行形のように教えられている「貿易摩擦」の原因にもなったほどなので、ほとんどの方がご存じのことでしょう。
  ●こちらの記事でも扱いましたが、この裏にあるのはアメリカの製造業が崩壊していったことと軌を一にしています。アメリカの製造業は、国際競争力の確保を名目に海外への生産拠点の移転を続けました。以下のグラフでも、アメリカの海外子会社が80年代に入って特に活発に活動している様子が分かります。

     アメリカ企業の海外での活動状況

  その裏返しとして、日本の対米輸出は増え続けたわけです。上の統計の時期とちょうど軌を一にして、日本の対米貿易黒字が大きくなっていることが分かるのが以下の図です。

     80年代の対米貿易収支

  80年代前半に特に黒字が大きくなっていることがお分かりでしょう。
  別に、日本という国が「アメリカを経済で侵略する」だとかいうような一定の意図を持って輸出攻勢を強めたわけではありません。日本の輸出拡大、裏を返せばアメリカが輸入を拡大するようになったのは、ある条件があったからです。
  それが、「強いドル」です。
  1971年の変動相場制への移行により、多少は改善されたものの、80年代は依然として1ドルは200円台前半でした。
  これはある面、この時期のアメリカの支配層にとって必要な「措置」でした。当時のレーガン政権下では、製造業から金融への産業シフトが進められていました。確定拠出型年金制度(401k)の導入や、証券取引に関わる税の減税などがその現れです。金融シフトを加速させるためには、海外からの投資が活発になった方がよいので、ドルの地位が高いことが好ましいのです。
  しかし、そのことが裏返しとして円安を招き、対米輸出の旨味が拡大したわけです。日本の産業は西欧諸国のように、オイルショックで壊滅もせず、また、企業活動に歯止めをかけるような過激な消費者運動も起こってきませんでした。どうも、戦前からこの頃までの日本には、世界をコントロールする側の想定を越えて成長をする力というのがあったようです。
  そこで、石油ショックに続いて発動したオプションがありました。それが、

  「プラザ合意」

  です。
  1985年に、経済先進国の大蔵大臣がニューヨークのプラザホテルに集まってなされた合意で、「これからはドル安で行きましょう」というのがその内容です。
  表向きの名目は、アメリカがレーガン政権下で貿易赤字を積み重ねてしまったので、これ以上おかしくならないように背中をさすってあげましょう、という感じでした。しかし、本当の狙いは、強いドルを奇貨として金を稼ぎまくっている国(日本)を締め上げることです。
  当時の日本では、もちろんそういう受け止められ方はしませんでした。表向きの目的だけがマスコミで喧伝されていたのです。それでなくても、普段から国民は「貿易摩擦」という言葉で、何か日本がアメリカに悪いことをしているような宣伝を受けていましたから、ドル安、すなわち円高も悪い受け止められ方はされませんでした。

  しかし、このドル安=円高の容認というのは、予想以上に重大な影響を日本に与えました。

  従来の日本型発展モデルというのは、外国(主にアメリカ)からむしり取ってきた富を法人税という形で吸い上げ、それを社会保障や公共事業を通じて国民の各層に分配するという形で行われてきました。それが可能だったのも、外国相手に稼いだドルの価値が高く、日本円に交換する意味が大きかったからです。
  プラザ合意によって急激に円高が進むことで、このやり方が通用しなくなるのは誰が見ても明らかです。そこで当時の中曽根政権は何をやったのかというと、

1.金利の引き上げを抑制する
2.内需拡大のために公共事業を加速させる


  ことでした。
  なんだ、このブログは内需こそ日本の経済の強さだと言っていたのに、なんで内需拡大に文句をつけるんだ、金利だって国内での資金調達がやりやすくなるからいいことだろう・・・と思った人もいるでしょうが、それはちょっと違います。
  日本は、その頃既に貿易依存率が10%前後で推移しており、すでに強固な内需は形成されていたのです。そりゃあ、あれだけアメリカ相手に黒字をあげて、法人税率が最高で70%あったのですから、当然でしょう。
  そこに、さらに内需拡大のためのカンフル剤を打ったらどうなるでしょうか?経済構造に歪みが生じるのは目に見えています。
  よく、田中角栄を「地方へのバラマキ政治」の大明神のように見る人もいますが、都市再開発事業などを通じて「バラマキ」を加速させたのは、何を隠そう中曽根政権のボス、中曽根康弘です。
  この人が何をやりたかったのかということを簡単にまとめれば、「日本の経済をアメリカ化する」ということです。少しだけ詳しくすると、金持ちや大企業に富を集中させて、投資効率を最大化するということです。
  それは、円高対策として採ったその他の政策を見れば明らかです。

3.法人税率の引き下げ
4.大型間接税(現在の消費税)導入の決定
5.証券減税の実施
6.労働者派遣制度の創設
7.「民間活力の活用」と称した公営企業体の民営化


  しかし、メディアに取り上げられた中曽根の姿というのは、そういうところではありませんでした。うわっぺりの愛国タカ派ぶり(列島浮沈空母論)や、米国政権との蜜月の演出(ロン・ヤス関係)、靖国神社を使った世論工作(中国の要人に配慮して参拝中止)・・・あれ、これって全部どこかで見たことがありませんか?そうですね。小泉政権がやったことと全く同じ、というか、小泉の方が中曽根のやったことをなぞっただけです。
  中曽根政権が上に挙げたような政策を行ったのは、「円高不況を防ぐため」でした。意味不明の危機感を煽り、金持ちに都合の良い政策を通す一方で、アイコクシンやキョーイクカイカクを唱えるというやり方は、「親米保守」のエセ愛国政治家の伝統のようです。この点では、統一協会やアメリカ政府とズブズブの関係になりながらも、とにかく日本の経済を強くしようとした岸信介の方がまだマシだと言えるでしょう。
  まあ、それはともかくとして、これらの政策と円高が重なって起こったのが、

  「バブル経済」

  でした。そりゃそうでしょう。通貨が強くなれば外国からの投資は多くなるのは、アメリカの例を見れば明らかです。そのうえ国内企業は減税で余剰資金が大量にあり、金利は低く、しかも証券減税までやってくれていて、都市再開発などの公共事業のおかげで地価の上昇も見込めるとなれば、誰だって投資で儲けたいと思います。馬鹿馬鹿しくて製造業なんてやっていられないと思った企業が増えたのは、企業が営利活動を本旨とする以上は当然です。
  もちろん、マスコミはそういうものを増幅して国民を崖っぷちに誘導する役割なので、中曽根政権の意向に沿った報道をし続けました。それが「財テク」の宣伝です。私はまだこの頃子供でしたが、連日「株は儲かる」「これからは個人で資産形成をすべき」などというメッセージが連日流れていたのを覚えています。NTTの株式上場などすごいもので、フツーの主婦が初値160万円の株をへそくりで買ったりしていました(その後暴落し、ただいま1株3800円前後)。
  しかし、こういう一連の流れも、冒頭の引用記事にあった「中産階級」にカネを吐き出させて、金持ちや大企業に集中させるための政策だったと思えば納得が行くというものです。日本人の購買力を吸い取り、中産階級を絶滅させる動きは、中曽根政権の時にすでに着手されていたのです。
  もちろん、当時そんなことを指摘したマスコミも識者もいませんでした。それだけ、バブル経済が強烈だったということでしょう。国鉄解体で煮え湯を飲まされた左翼系労組が労働者派遣制度の創設に対して異論を唱えても、それを真面目に受け止める人はほとんどいませんでした。それどころか、そういう人たちが国鉄の累積債務を積み上げた日本のガンだとレッテルを貼られました。小泉政権下で、政権の意向に逆らう人びとがことごとく「反日」「売国奴」と、ネット掲示板で罵られていたのとよく似ています。
  バブル経済が終わった後の日本がどうなったのかは、もはや説明の余地はないでしょう。90年代のバブル崩壊、金融ビッグバン、小泉構造カイカクといった一連の「攻撃」により、経済の分野でアメリカに勝てる可能性のある敵性国家は、とりあえず世界から消えました。
  あれ?中国がいるんじゃないか?という人は、その点については次回詳しく触れますのでご安心を。

  重要なのは、アメリカの没落も、日本のバブル経済も、アメリカドルの騰落という物的条件がなければ到底実現されなかった現象だということです。
  それは、とりもなおさず、アメリカドルが基軸通貨だったことに尽きます。貿易、特に石油の決済をアメリカドルでできるからこそ、みんながアメリカドルを欲しがり、それを操作することに意味が出てくるわけです。
  そして、その基軸通貨体制を脅かすものは、必ず葬り去られる運命にあるのです。ポンドに戦いを挑んだ帝政ロシアやドイツ、そしてアメリカドルの脅威になった日本・・・常に基軸通貨を持っている側がカジノの胴元なのですから、博打打ちが身ぐるみをはがれるのは長い目で見れば当然なのです。

  さて、いつまでも過去のことをおさらいばかりしていても仕方がありません。問題は、このドルが基軸通貨であるという神話が、これからも続いていくのかという点です。近時の動向を総括するかたちで、予測してみたいと思います。

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2009.10.15(Thu)

人間はなぜ違いを乗り越えて生きていこうとするのか 

  更新が滞っている上に、ハードな記事が少なくて済みません。このブログを北朝鮮とか中国をコケにするネタ探しのためにのぞいている方には結構苦痛(笑)な内容が今回も続きます。●一つ前の記事に、先ほど、「じろ吉」さんが以下のようなコメントをされました。
 

私の生息している田舎でも ‘人との繋がり’への軽視が至る所で見受けられます。
 
 私の個人的な考えですが ‘繋がり’や‘付き合い’というものは お互いに少しずつ無理をしあいながら 続けていくものと思っています。

 今は一見無駄に見えても いざというときに協力しあえる関係の維持といいますか “共同体”というものの本来の意味ではないかと思います。都会でしたらいざ知らず 田舎に生きている意味が無いのではと感じます。

 昨今のマスコミの世論操作は悔しいかな大成功です。今では一般国民も口を開けば「無駄は… 無駄は…」のオンパレードです。自分達がその“無駄”により生かされている立場というのに…。一般国民が本当に気付かないと 現状は変わらないと思いますが 一度ハードクラッシュしなくては正直無理だと気ずきました。まぁ近い将来嫌でも経験 させられる筈ですが…。


  なるほど、私のような都会暮らしで、田舎といえば美化してしまいがちな人間には真似の出来ない、鋭い洞察だと思います。中でも、この部分は本質を突いています。

>‘繋がり’や‘付き合い’というものは お互いに少しずつ無理をしあいながら 続けていくもの

  人間というのは、一人として同じ人がいないわけですから、どこかしら違いがあって当然です。それにも関わらず、その「違い」を乗り越えていこうとするのはなぜだろうかと考えてみました。
  たとえば、ヘーゲルという哲学者は、「弁証法」という考えを持ち出しています。これは、対立するもの同士がぶつかり合うと、やがて昇華してより高度なものになるという考え方です。卑近な例ですが、計算ミスばかりしていて「ケアレスミスだよ」ですませている塾の生徒に、数学の先生が「それも実力のうちだ」と、彼の考えと反対のことをぶつけることで、この生徒は自分の考えを改め、数学の点数をアップさせるという感じです。ヘーゲルは結婚も違う人同士でするほうがいいよと言っていますから、人間関係にもそのことを応用しているのでしょう(ちなみに、ヘーゲル自身は隠し子が数人いたそうです)。
  また、社会主義の教祖(笑)であるマルクスは、人間には個人の活動を他者との協調、すなわち社会共通の利益につなげたいという欲求があると言っています。「類的本質」とかいうらしいですが、資本主義というのは労働を商品にしていることで類的本質を妨げている狂った仕組みだということのようです。
  これらの考えは、おそらく近代のヨーロッパにおいて、人びとがつながりを失ってバラバラになっていく様子を見て、これはいかん、なんとかせねば、ということで生み出されてきた考えなのでしょう。
  
  しかし、これらの考えを聞いて、何か首を傾げることはありませんか。

  そうです。その「弁証法」が成り立たず、「類的本質」が発揮されていないからこそ、今の社会でみんなが勝手なことをし始めているのではないか、と、難しそうな言葉を丸暗記したがる知的(痴的)バカではないフツーの人びとは思うはずです。
  そもそも、ヘーゲルだろうとマルクスだろうと、初めから終わりまで一人の人間が物語を作っているのですから、うまく文章を書けさえすれば、世の中のあり方に整合性のある説明ができるのは当たり前です。
  しかし、それを現実の世界に当てはめると、そこらじゅうに矛盾点が出てきてしまい、それを説明するためにまた訳の分からない小難しいことを言い始めるという最悪のサイクルに陥ってしまうわけです。
  それでもダメなら、しまいには「ヘーゲルを信じないと地獄に堕ちるぞ」とか「マルクス先生を疑う奴は資本家の手先だ」などという風に、考えを素直に信じない人間を排撃するようになります。まるでカルト宗教です。マルクスを熱心に信奉していた連合赤軍などの左翼が内ゲバを起こしていたのも、そういうことと無縁ではないでしょう。
  人間が協力し合って生きる美しい姿を、論理的に説明しようとしたのに、逆に殺し合いを始めるもとになってしまうのは皮肉なものです。

  さて、それでも人間同士がバラバラなのは好ましくないはずですから、なんとかしたいものです。
  そこで、二つのアプローチが考えられます。

  一つは、「論理とかそういうものはどうでもいいから、とにかく教育でガキの頃から叩き込めばいいんだ」という考えです。
  つまりは、他人に害を与えてはいけないこと、人と仲良くすること、苦しい時はお互い助け合うこと、多少の違いがあっても乗り越えてやっていくこと、悪いことではなく良いことをすること、良いことというのは利他的なことですよ・・・というような感じで、もうとにかく刷り込みに刷り込みまくって、常識にしてしまうのです。ヘーゲルやマルクスみたいなすごい頭のいい人でも説明できないのですから、なぜそうなるのか、というのを説明するのは無駄だということでしょうか。
  確かに、戦前の日本では、●「教育勅語」のようなもので、忠告愛君を筆頭に、利他精神の涵養や共同意識の醸成に成功していた、という見方もできそうです。

  では、もし生徒の一人がこういうことを言ったらどうしますか?

 「先生、確かにそういう方が人間の社会はうまく行くというのは頭では分かるよ。実際ぼくのうちでもみんな仲良くやっているし、その方がなんだかよく分からないけど一人でいるよりいいというのも確かだと思う。だけど、そんなことをしなくても生きていける人なんて、この世の中にはたくさんいるよね?

  別の、もっと鋭い生徒はこう付け加えるかもしれません。

 「○○くんの言うとおりだと思います。今の世の中は、働いてお金を稼げば何でもできると思います。お金があれば、人と助け合って生きていく必要もないし、その方が自由でいられます。先生は、お金をもらわずに教師をやろうと思いますか?」

  とにかくヒヨコに行動を刷り込むことしかやってこなかった先生は、この二人の生徒に対して有効な反論ができるでしょうか?私は無理だと思います。
  また、頑張って否定を使用とすれば、結局「自分勝手な人は地獄に堕ちる」的な脅迫しかできなくなって、カルト宗教みたいなノリになるのが関の山です。
  
  もちろん、上の二人、特に後者のような悟りきった(笑)子供は、おそらくこの世の中にあまり多くは存在していないでしょう。
  しかし、ほとんどの子供は、大人になって行くにつれ、必ず目にするはずです。

  不正をやっているのに、カネや地位(これも結局カネを生み出す場所にいるということ)があるゆえに咎められない大人がたくさんいること。

  面倒くさいことや都合の悪いことを、金を払うことで片付けてしまう人間がたくさんいること。

  人身売買や買春という形で、自分たちをカネで買おうとする大人さえいるということ。
 
  そして、今の社会ではカネを出せば他人と助け合わなくても生きていけるということ。


  こんなものを見ていて、それでも「人間は違いを乗り越えて助けあわなくてはいけないんだ」と言い続ける方がかえって難しいのではないかと思います。
  
  ひどい話をするなぁ、と思った人もいるかもしれませんが、これはあくまで「子供の頃から教育して利他精神や共同意識を持った人間を育てれば、この社会にある様々な問題は解決するはずだ」というアプローチを取った場合、どうなるかということを推論しただけです。
  ここまで考えてブログに書いているわけですから、もちろん私はそのような立場を取っていません。以前は、教育勅語にはいいところもあるとか、利他精神を教えればいいんだとか、そういうことをムキになってブログにも書いていました。しかし、それではうまく行かないことが多すぎるのです。
  そのうち、安倍内閣が残業代ゼロ法案を検討し始めたあたりで完全にネット右翼から足を洗った頃、ある考えに至ったのです。  

  「ほとんどの人は今の社会は何かおかしいということに何となく気づいているはずだし、このままでは行けないと思ってもいる。それにも関わらず、世の中が良い方向に変わっていかないのはなぜだろう?」

  そして、自然的経済という非常にユニークな政策を掲げる●平和党に関わるようになってから、確信したことがあります。

  「ひょっとして、今まで自分は何か重大な思い違いをしていたんじゃないか。個々の人間がどういうことを思い、どういうことを願うかという精神的、心理的な面をなんとかすれば世の中の問題はなくなっていくはずだと思っていたが、本当は人の心や気持ちではない別のものが原因なんじゃないか?」

  今の私であれば、これに対して自信を持って解答をすることができます。

  「人間の行動や思想を決めているのは、その人や集団が置かれている物的条件である」

  「物的条件」というのは、人間の生存を規定しているあらゆる外部的条件のことです。自然環境や地理的条件、利用できる財やサービス、人間関係、法制度その他もろもろです(ただし、ここには道徳や倫理といった精神的なものは含まれない)。
  要するに、社会のあり方を決めているのは、人間の精神の善悪ではなく、その人が置かれている状況だということです。

  たとえば、こういう話を聞いたことがあります。

  阪神大震災があった時のことです。震災の翌日以降、行き場が無くなった被災者の方々が、続々と避難所に集まってきました。しかし、備蓄してある物資は乏しく、みんなに十分行き渡る量のものはありません。それでも、その乏しいものをみんなで分け合い、譲り合いをしながらつらい日々をしのいでたそうです。
  ところが、日本各地から続々と被災地に救援物資が届き始めた時から、異変が起こったのです。
  昨日まであれほどみんな助け合いの精神でやっていたのに、物資が手に入る状況が用意されると、途端にその奪い合いが始まったそうです。今まではなかったような罵り合いや喧嘩が起きるようにもなったと聞いています。

  この話は非常に示唆に富んでいます。普通であれば、ものが乏しいから生き残るために奪い合いになると思いがちです。しかし、そうではなくて、そういう状況では、かえってみんなでつらさを共有してやっていけるのです。
  しかし、他人に譲ったり、次のことを考えて我慢したりしなくなってもいい物的条件ができあがった途端、みんなのエゴが噴出したわけです。
  今の日本は、「救援物資をそこら中から集めてくることができる巨大な避難所」みたいなものです。ものがあるから、それをカネで買えるから、我慢をする必要も、面倒くさい思いをして他人と協調する必要もありません。
  戦前の日本で、教育勅語に代表される「洗脳教育」がうまく行ったのは、お題目が素晴らしかったわけでも、日本人が優秀だったわけでもありません。近代経済システム、つまり「なければ他から奪ってきてカネを使って手に入れる」という仕組みが、全国すみずみまで行き渡っておらず、本当に我慢や協調性が必要な物的条件だったからです。
  逆に、そういう物的条件がなくなり、カネでなんでも手に入る便利な世の中になれば、そうでなかった時代を知っている人たちはいざ知らず、それが当たり前になった世代から順々におかしくなっていくのは当然のことです。
  それでもまだ「人間はカネではない」と言える人間がいるのは、一つはもちろんただ単にそういう習性が世代を超えて受け継がれているというのもあるのでしょうが、カネではなく人間同士の結びつきに頼って生きていく方が都合がいいことをヒトという生き物が本能的に知っているからなのかもしれません。
  もちろん、そういう習性ですら、もっと世代を経れば完全になくなってしまうかもしれません。家畜の豚が猪だった頃の記憶をほとんどなくしてしまっているように、ヒトという生き物も、やがて何物かの管理がなければ生きていくことすらままならないようになってしまうかもしれません。

  では、なんとか近代経済システムの「毒」に染まりきっていない人たちは、一体どうすればいいのでしょうか?

  他人に説教をぶって考えを変えさせたり、強制的に洗脳を施して社会性を植え付けたりするのは、すでに見たように無駄でしょう。いくら洗脳をしまくって道徳を植え付けたとしても、その道徳が必要ない物的条件が整っている以上、徒労に終わる率は非常に高いものになります。
  また、いくら物的条件が問題だからと言って、それを政府の力で無理矢理取り上げたり、地震や戦争が起きればいいと思うのも筋違いでしょう。そんなことをしたら、願っている当の本人ですら死んでしまう可能性が高まります。

  そうなれば、もう答えは限られています。

  「カネや便利さが全てではない世界を作り、それを見せること」

  そして、

  「そういう生活がしたいと思っている人びとに、そのやり方を教えられるようにすること」

  です。

  社会全体の物的条件が嫌なものだからといって、それに乗り続けることはありません。自分たちで違う物的条件に支えられた社会を作っていけばいいのです。私が「地域通貨」だとか、「入会地」だとか「半農半X」だとか、何度もこのブログで書いているのはそういう目的です。
  国会に議席を持っている政党がどこも(国民新党さえも!)ダメなのは、現在ある物的条件をそのままに、理想の社会だの活力ある日本だのといった夢物語を唱えていることです。そんなところで勝負をしたら、結局利子を付けてカネを貸す奴らにカネが集まっていき、我々はどんどん酷使させられるだけです。
  幸い、最近私も、そう遠くない将来塾講師をやめても食っていけるような条件が整ってきました。まずは畑や田んぼでなんとか食べられるものを作る環境を整えてから、こちらのブログでも取り上げた柿渋を使い、大麻はさすがに無理でも●亜麻(あま)や苧麻(ちょま)といった作物から繊維を作り、なるべくカネがかからず石油に頼らないような生活をやってみたいと思っています。
  断っておきますが、私はそういうのを義務感でやっているのではありません。他人に要らないものを売りつけたり、隣の席に座っている同僚と足を引っ張り合ったり、忙しすぎて仕事のことしか考えられない生活をするより、その方が楽だと思っているからです。
  そういう生活をする上での他人との協調なら、必要があってやることですから、別に嫌だとか言っていられません。自分が困る、下手をすると死ぬかもしれないわけですから、選択の余地がありません。それが、物的条件というものなのです。
  最近またちょっと暇がなくなってきて、なんだかんだと先延ばしになっているところはありますが、とりあえず将来の目鼻はついてきたので、このブログももう少し具体的な話をできる場になるのではないかと思っています。  
  
  もしかしたら、近いうちに、こちらのブログをご覧になっていて、そういう話に興味がある方がいれば、何か一緒にやらせていただくのもいいかもしれませんね。

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2009.10.08(Thu)

近代的経済システムにおける「努力」について 

  ここ最近の日本の風潮をよく表している文章を見つけたので、これを題材に表題のようなことを考えてみます。

不況の今も引く手あまたの人材とは
http://www.excite.co.jp/News/column/20091007/Allabout_20091007_1.html

経営者や人事の方に、「どんな人材が欲しいですか?」と質問をするとかえってくる答えは景気が良くても悪くても相場はだいたい決まっています。

 それは「自律的な人材」「成果を出してきた人材」「当たり前のことを当たり前にできる人材」です。年齢が30歳以上になると「マネジメントができる人材」という要素が加わります。

■「企業が絶対欲しい人材」が持つスキル

 会社側が欲しがる人材の方とは具体的にどんなスキルを持っているのでしょうか。例えば下記のようなスキルがあります。

・PDCA(プラン・ドゥ・チェック・アクション)のサイクルが回せるスキル
・リーダーシップ
・人を巻き込む力

 加えて必ず話題になるのが、人間的魅力に溢れている人材が欲しいということ。そのような人材のことを「ヒューマンスキルが高い人材」などと呼ぶことが多いです。とくに管理職になると、技術スキルや業務スキルだけではなく+αの能力で人をまとめる力、周囲を調整する力が重要になってきます。

 新卒の頃から人間が素晴らしくできているという人はほとんどいないわけで、仕事におけるヒューマンスキルとは後天的に身につけたり、伸ばしたりできるものだと感じます。

■ヒューマンスキルを伸ばすためには?

 ヒューマンスキルを持って生まれた天性のものと考えずに、後天的にも習得可能なものだと考えてみることが一番重要です。

 まず自分のヒューマンスキルの構成要素を理解し、次に現実的に自分のビジネスシーンの中でどのように課題となっているかを知り、改善しましょう。

 経営幹部の方に「なぜそのような重要なポジションにつくことができたのか?」と質問しますと、大半の方が「たまたま運が良かったから昇進した」とか「当たり前のことをやってきただけ」という回答をされます。しかし、このような話をそのまま鵜呑みにしてはいけないと思います。じっくり話しを伺っていると経営幹部の方は運を引き寄せるだけの日々の努力や高いレベルにありますし、当たり前の基準が普通の人とは異なっていることが多いようです。

 リンクアンドモチベーション代表の小笹芳央氏の著書「仕事がうまくいく自分の創り方」には、このヒューマンスキルについてビジネスシーンに沿った10の構成要素について記述があります。

報告/主張/依頼/相談/説得/命令/拒否/忠告/謝罪/支持

 の10項目です。

 それぞれの言葉は誰でも知っている言葉ですが、ひとつひとつの言葉の意味を噛み締めますとガイド高野自身もできていないなと反省しきりです。とくに「拒否」については、今話題の勝間和代さんが「断る力」という本を書いています。ご存知の方も多いかと思います。ついつい断れないこと多いものです……。

 例えばこんな経験はありませんか?

●状況
上司から仕事を頼まれた。上司の言われるがままにやるのは簡単だが、このままだとこのプロジェクトは失敗しそうだ。しかし上司は意見をし難い雰囲気を持っている。
●過去体験
一度自分から意見したところ、「だったらお前がやってみろ」と丸投げされ結果として仕事の成果を出すことができなかった。しかも自分の責任となりその期の評価が下がってしまった。結婚もしたし評価が下がるリスクを負いたくない。
●上司の性格
自分が常に一番正しい意見を持っていると信じている。間違いを指摘されることを嫌う。プライドが高い。確かに優秀ではあるが、ときおり独善的になり周囲の「気持ち」を考えずに仕事を進めることがある。

 どのように働きかければ上司の方や関係者に軋轢をうまずにうまく調整できるのでしょうか。何もしないで上司の言われた通りやる人もいれば、はっきり発言し喧嘩をしながら進めるという人もいます。そうではなくデータ分析結果を持って何も意見をせずに上司に考えてもらう人もいれば、飲みにいったり、遊びにいって上司との距離をつめる人もいます。自分の得意な方法を見失わずに、新しい仕事のスタイルや幅も広げていきたいものです。そういったことからもヒューマンスキルは磨かれるのではないでしょうか。


  この記事を書いた人(もしくは、書かせた人)が最も言いたいのはここです。

>ヒューマンスキルを持って生まれた天性のものと考えずに、後天的にも
>習得可能なものだと考えてみることが一番重要です。

  要するに、あとから身につけられるのだから努力しろということです。
  資格試験予備校を初めとして、凡そありとあらゆる教育機関は、この記事にあるような人材になるための努力を惜しむな主張しています。この文章で引用されている●リンクアンドモチベーションという会社も、コンサルティング業務の傍ら、企業向けの研修を売っています。
  今の時代は就職や昇給一つとっても非常に厳しいものがありますから、そうやって自分の商品価値を高めるための努力を怠ってはいけない、というと、ほとんどの人が賛成すると思います。

  では、仮に皆が努力をして、「引く手あまたの人材」になったとしましょう。多少の誤差はあっても構いません。
  そうなると、今度はその素晴らしい人材の間で競争になり、吹きこぼれる者が必ず出てくることになります。
  就職や職場のポストという「需要」に対して、就業希望者、昇進希望者という「供給」が多ければ、必ずあぶれる者が生じます。これは、供給側の資質向上(すなわち競争の強化)で解決することはできません。椅子取りゲームと同じです。
  こういう状況は、雇用側としてはしめたものです。そうやって選抜した比較的優秀な人材に、いろいろな理由(たとえば「人が足りないから」)をつけて過剰な労働をさせれば、適正な雇用の場合に比べて低いコストで利益を得ることができるからです。「不況」や「グローバル化」「国際競争力」、正当化できるマジックワードにはいまや事欠きません。
  教育関係者もこの事態を歓迎しているでしょう。スキルアップと称して講座を取らせることは容易になるし、英語のように本来生活を営んでいく上では無用の領域も、学ぶ意味があるのだと主張できるからです。
  なんのことはない、「国際化社会に対応した教育」とか、「グローバルな人材育成」などという、最近人を集め始めた私立中学がパンフレットに載せそうな文句は、彼ら自身の雇用対策にすぎないのです。

  そう考えると、今後も不況とかグローバル化という傾向がやむことはないでしょう。普通、人は自分の身の回りにある出来事にしか目がいきませんから、今の世の中が全体としてどうなっているかを我々に教えるのは、マスコミの仕事です。彼ら、特に新聞社やテレビ局関係者のの比較的リッチな生活を支えているのは、企業や教育機関からもらう広告費です。そうなれば、マスコミとすれば、「スポンサー」である人びとの意向に沿うように、スキルアップの必要性だのグローバル化だのといったものを発信する動機は十分です。
  マスコミと企業、教育機関はこの点で完全に共闘関係にあると見るべきです。この引用記事も、「努力しない奴が悪い」という自己責任原理を流布するためのプロパガンダの一種です。
  私自身、他人に競争させるような職業に就いており、自分自身もつい最近相当きつい競争をくぐっておいてこんなことを言うのも変ですが、このような自己責任や競争を、供給側である勤労者側が純粋に信じている方がどうかしていると思います。
  
  くどいようですが、人が就業できるかというのは、雇用数によって決まるのであり、雇用される側がスキルアップに努めたところで解決はできません。経済学的な言い方でいうと、ミクロな努力をしても、マクロの問題は解決できないということです。
  重要なのは、上にある記事のように、圧倒的多数である勤労者の側が「努力」をすることではなく、たいして優秀でもない勤労者がいかにましな生活ができるかという点です。平均以下のパフォーマンスをしている勤労者の大半が、彼らなりの努力をしていることは間違いなく、それが報われなければ絶望が蔓延して、社会全体の活力が失われるからです。
  そして、それを実現するには、究極的には政府がマクロ経済政策を適切に行なって需要を創出することしかありません。政府には財政支出や徴税といった、国民経済全体に影響を及ぼす手段があり、政府自体がもっとも大きな消費者という考え方ができます。
  しかし、昨今の「カイカク」「バラマキ」「ムダ削減」「消費税増税」といった言葉が飛び交うマスコミの状況を見るにつけ、もうそのような善政が敷かれる可能性はほとんどないといっていいでしょう。
  この状況は、近代的経済システムが我が国で始まってから、いつかは来る事態でした。近代自体が自己責任原理をその大前提としてます。国家に求められたのは市民(というか資本家)の活動に制約を加えないことでした。福祉を行っているのは、そうでもしないと国民が使いものにならないからであり、できることなら無駄なことはせず、国内市場の統合や海外市場の拡大などで金持ちの利益を極大化していきたい、というのが近代国家なのです。

  私が「半農半X」を皆さんに勧め、農業をやりながら他の仕事をこなしていきたいと思っているのは、今言ったような椅子取りゲームから降りることが、人間を道具としてしか見ていない下劣な連中に対する最大の反撃だと思うからです。
  これから最も重要になるのは、各人がいかに自律した生存方法を持つことが出来るかということです。そのために必要になるのは、

・貨幣に頼らない生活手段
・面倒なことをみんなで協力してこなせる人間関係
・それらを支える価値観の転換


  です。別に、明日から畑を耕せなどとは言いませんから、そういうことを頭にとめておき、機会があったら農業を手伝ったり、都会を離れた場所に知り合いを作っておいたりする方がいいでしょう。
  引用した文章に掲げられているようなスキルアップ、すなわち自己商品化に意味があるのは、総需要が順調に伸び続け、「努力」をすれば正比例して金銭的な利益が得られた時代の話です。グローバリゼーションが進み、日本のような先進国でも国民からの収奪が横行している現代では、「努力」のコストパフォーマンスは明らかに低下しています。
  もちろん、今の三次産業を中心とした企業社会でも、対人関係を円滑にこなすような練習は可能なので、「努力」が全て無駄だとは言いません。
  しかし、大筋で見れば、今の社会ではカネになるかならないかという一点でだけしか人間が評価されないので、身につけられる技能も、結局その場でしか役に立たないものがほとんどです。たとえば、上記引用文で繰り返し強調されている「上司との関係改善」がまさにそれでしょう。もっと原始的な社会における共同作業では、リーダーの言うことは聞くか聞かないかの二択しかなく、任された仕事は我慢するしかありません。山の斜面で丸太を運んでいる時、誰かが手を離せばみんなが生命の危機に陥ります。そういう場面での責任と、自分が今何をやっているかすらよく分からないことが多い企業社会で果たすべき責任とでは、どちらの方が自分の生命や安全に直結するかは説明するまでもないでしょう。
  みんなが自律した生存手段を持っている世の中になれば、努力の持つ意味も全く変わってくると思います。そして、そういう世の中が来るのはそう遠くないと私は思っています。  

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2009.10.06(Tue)

貿易の守護者に与えられる魔法の杖・・・その名は「基軸通貨」(2)  

  ●前回の記事の続きです。

  アメリカドルに特権的地位を与えるブレトン・ウッズ体制は、しばらくの間有効に機能していました。
  その恩恵をもっとも受けたのが我が日本です。戦後の焼け野原から復興してしばらくの間、日本は膨大な対外債務を抱えていましたが、対米輸出を増加させることにより外貨を蓄積し、やがて債権国になるほどの金持ち国家になりました。我々が様々な国から物資を輸入していられるのは、ドルが基軸通貨であり、とにかくアメリカ相手にものを売ればドルを稼ぐことができるという、わかりやすいメカニズムがあったからです。
  この頃の日本は、まだドル取引が自由ではなく、外資の参入も厳しく規制されていました。つまり、貿易で黒字を上げれば、その分総需要が増えることになり、結果として高度経済成長が実現されたということができます。
  そして、日本にとどまらず、いわゆる「西側」の国々は、みな多かれ少なかれ同様のメカニズムで発展を遂げました。

  しかし、この仕組みには公に発表できない大前提があります。それは、

  「アメリカが最後の引き受け手になる」

  ということです。すなわち、西側諸国が経済成長できる前提は、その国が黒字体質でいることですが、それは最終的には対米貿易で黒字を上げることにつながります。
  アメリカは、前回の記事でも言ったとおり、札を刷ることでいくらでもものを買うことができる唯一の国(これを、「通貨発行益がある」などという)ですから、ある意味無尽蔵な需要を生み出すことができます。
  しかし、ドル札というのは、アメリカ政府が刷っているわけではなく、連邦準備制度委員会という中央銀行に類似した民間の機関(アメリカ政府の資本は1ドルたりとも入っていない。●こちらを参照)が発行しています。だから、アメリカ政府が通貨発行益を本当に得るためには、国債を発行するという形しかありません。国内向けに発行すれば、利子はあるものの、徴税と類似した資金の吸い上げに似たものと理解することができますが、対外的に債務を負うとなれば、純然たる負担になるわけです。
  こうして、アメリカは「財政赤字」と「貿易赤字」という双子の赤字に悩まされることになりました。この傾向は60年代のベトナム戦争で国内向けに大量の財政支出を行ったことで拍車がかかります。
  こうした中で、アメリカドルに対する信頼が徐々に揺らいでいきます。ドルの価値は世界で唯一の兌換紙幣、すなわちいざとなればゴールドに交換することが出来るただひとつの通貨だったことに尽きます。フランスをのぞいて、ほとんどの国がドルを自国内に貯め込むか、対外債務の返済に充てていたからよかったものの、ゴールドとの交換をいっせいに求められたら、おそらくアメリカ政府にはそれに応じる余裕はなかったでしょう。
  60年代も後半になると、西側諸国が対米輸出で稼いだカネで対外債務を完済し始め、「これはヤバイ」ということになりました。いまやアメリカには、成長した同盟諸国に対して黒字を計上できるような産業がありません。というか、それだけ西側、特に日本と西ドイツが産業力においてアメリカを凌駕する存在になっていました。どちらも敗戦国だというのが何か皮肉なものですが・・・。
  ここでもし、日本や西ドイツが近隣諸国を糾合して、ドイツマルクや日本円が基軸通貨的な役割を担ってしまえばどうなるでしょうか。アメリカは通貨発行益を得る特権的な地位を失うことになります。
  これは、ドルを集積することで力を維持しているニューヨークに本拠地がある金融資本にとっても都合が悪いことです。これら金融資本は、今までは発展途上の西側諸国にカネを貸し付けてもうけていたのですが、そういう商売が今後も続けられなくなる可能性が出てきます。

  そこでアメリカ側がしかけたのが1971年「ニクソンショック」でした。その内容は、

1.ニクソン大統領の中国訪問の予告
2.金とドルの兌換停止

  
  の二つです。当時のアメリカ・ニクソン政権が突然やったのでこう呼ばれていますが、おそらく上記のようなアメリカ(及びそこに寄生する金融資本)の衰勢を見て、注意深く練られた作戦だったのでしょう。
  この二つの政策は一見すると「冷戦のライバルであるソ連から中国を引きはがす」「ドルの大幅な切り下げ」という異なる目的に奉仕するもののように見えますが、根底ではつながっています。

  まず、中国との関係改善および国交回復が行われれば、当然中国側も米ドルを基軸通貨とするグローバル貿易体制に組み込まれることになります。
  中国は膨大な人口を抱え、国民の購買力も非常に低い(ということは、人件費が安い)国です。これが突然グローバル貿易に参加してくるということは、駅前商店街の隣に巨大ディスカウントストアができるようなもので、初めはなじみの商店街に通っていた人たちも、やがて同じ品物がはるかに低価格で手に入るディスカウントストアの方に通うようになるでしょう。
  要するに、「世界の工場」的な日本の地位を中国が奪うという事態は、もうこの時すでに決まっていたということです。
  今まではそのような「不公正な」事態は、冷戦においてソ連がユーラシアのランドパワー(大陸諸国)を強圧的に支配することで押さえられていたのですが、冷戦の共同正犯であるアメリカが自らその制約を破ってしまったわけです。ニクソンショック当時の日本の首相だった佐藤栄作が「聞いていない」という●ダチョウ倶楽部のようなセリフを吐いて狼狽したと言われていますが、それもそのはずで、彼は自分たち戦前からの生き残りが作り上げた発展モデルを、アメリカがぶち壊しにかかったことを意味するということをよく分かっていたのです。
  もっとも、そこまで深刻にこの出来事を受け止めた人はごくわずかであり、「中国をソ連から引きはがして冷戦で優位に立つ」という、いかにもメディアが好みそうな表面的な説明で納得してしまった人がほとんどだったことでしょう。

  そして、ゴールドとの兌換が廃止されたことは、アメリカドルの発行に課せられていた最後の制約がなくなり、ドルの垂れ流しに歯止めが利かなくなったことを意味します。
  これは当然双子の赤字のさらなる悪化につながるのですが、アメリカはもはやその部分については手当をすることを放棄したということでもあります。よく子供向けの教科書などには、「アメリカの貿易赤字がふくらんだので、日本との貿易摩擦が生じた」などと書かれていますが、大嘘です。貿易赤字をなんとかしようなどということは、とうのアメリカは本気で考えていません。アメリカがコツコツ真面目に赤字の解消に努めたら、アメリカが最後の引き受け手となって機能しているグローバル貿易体制が崩壊してしまうことになります。
  そうなると、こちらの方向転換は、日本を初めとする西側諸国にとって「まあ、仕方ないか」と思わせるものだったのかもしれません。

  いま振り返ってみると、ニクソンショックの他にも、アメリカドルが基軸通貨であるという一点をのぞいて、根本的に戦後の世界の方向を転換するようなイベントが70年代前半に集中して起こっています。
  たとえば、1973年の「第1次石油ショック」です。これによって、対米輸出で総需要を拡大し続けるという、西側諸国の発展モデルが成り立たなくなりました。
  また、アメリカ国内の製造業が壊滅的打撃を受け、製造業から金融・サービスを中心とする産業構造への転換が促進されることになりました。膨大な失業者が出たことで、新興産業への労働力移動が行いやすくなったのです。
  経済理論の上でも、政府が財政支出を行って有効需要の創出に努めるべきだとするケインズ主義が後退し、●フリードマンのような新自由主義が台頭することになります。このような思想が流布されることで、規制で保護されて内需を拡大できたアメリカ以外の西側諸国は、内側から自国経済を掘り崩していくようになっていきます。ちなみに、彼がユダヤ人だというのも、決して偶然ではありません。
  これと似たようなインパクトを持っているのが、1972年の「国連人間環境会議」です。何が大きいのかというと、ここで初めて環境保護という思想が世界中に宣伝されたということです。それまでは環境破壊というと、公害など国内問題にとどまる問題という位置づけだったのが、世界の国々が共同して取り組むべき課題だということにされました。これによって少なくとも先進国では経済発展はあまり良いものではないかもしれないという認識が共有されるとともに、国際機関のイニシアチブによって各国の政策を制約できる可能性が生まれました。
  人間環境会議と似たようなものとして、1975年に初めて開かれた「先進国首脳会議」(サミット)があります。これも、先進国間の協調という建前はともかくとして、日本や西ドイツのような新興勢力がアメリカによる「調整」を受けやすくなるという効果があります。
  こうやって見てみると、今ある世界経済の運営の仕組みは、ほぼここで決まったといっても過言ではないでしょう。
  その目的は全て、新興勢力がアメリカの「貿易の守護者」としての地位を脅かすことを防ぐという点に集約されます。戦前と異なる点は、アメリカが怖れる勢力(日本や西ドイツ)が軍事的な挑戦を試みず、あくまでアメリカが作ったブレトン・ウッズ体制と冷戦というフォーマットの上で最大のパフォーマンスを見せることで自然とアメリカの脅威に成長したことであり、その点を除けばイギリスがやっていた敵対勢力の封じ込めという意図は変わりません。
  そして、対ヨーロッパという面では、この目標は70年代にほぼ達成されたと見てよいでしょう。まるで日露戦争後のロシアよろしく、西ドイツすらアメリカの脅威ではなくなったのです。

  しかし、それでもしぶとく生き残った「敵」がいました。日本です。

  イギリスが帝政ドイツを3B政策と対独包囲網の形成によって叩きつぶしたように、当然アメリカも日本を潰しにかかることになるわけですが、これについては次回に話をゆずります。

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