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2008.08.31(Sun)

カルト的思考とは? 

  このブログではよく特定の集団や個人を指して「○○はカルト宗教と似ている」という類の評価をしますが、この「カルト」とは一体なんなのか、少し考えてみたいと思います。
  たとえば、●こちらのサイトでは、このように定義づけています。

--------以下引用--------
現在の宗教現象を扱う場合、「カルト」と言う言葉は段々もっと特殊な意味で使われるようになってきています。「破壊的カルト」と呼んでもよいような宗教集団(場合によっては宗教以外のグループに用いることもありますが、ここでは宗教グループに限って考えてみます)を「カルト」と呼ぶようになってきたのです。(中略)

「破壊的カルト」(=カルト)というのは、どういう宗教でしょうか。これまでいろいろな定義がなされてきていますが、ここでは、以下のような3つの意味で破壊的な宗教を指すことにしたいと思います。

・信者本人の人格破壊

・信者と信者の家族との間の関係破壊

・信者と社会との関係破壊

--------引用以上--------

  引用先のサイトでは、宗教的な集団に限って考えているようですが、最後に挙げた三つの要素が重要です。
  この三つのポイントを総合すると、カルトというものは、その集団以外の人間との人格的交流を断絶した状態ということができそうです。
  私が思うに、別に宗教団体に加入していなくても、このような状態に陥る可能性があるのです。要するに、カルト教団に属していなくても、一定の要因が働いて、他者との共通理解を放棄し、特定の思想信条からのみ価値判断を行うようになる危険があるということです。
  こういう状態を「カルト的思考」ということにします。具体例を見ながら、カルト的思考の特徴と、対処方法を考えてみます。以下は、●「或る浪人の手記」さんの記事に書いてあったコメントです。

  貧富の格差が広がることは事実だろうけど、実際には、新自由主義が日本に(全体から見れば)もっとも有利な選択であるわけで。

  江戸時代の開国>攘夷と同じように。

  そこで貴方にお伺いしたいのですが、もし、小泉を罰するためにみんなで民主党に票をいれたら、みんなで幸せになれるのでしょうかね?

  2008/08/31(日) | URL | 七誌 #LkZag.iM[ 編集]



>新自由主義が日本に(全体から見れば)もっとも有利な選択である  

  なぜ「有利」なのか、全く論証がありません。議論になったら真っ先に突っ込まれるポイントですが、この論者は日頃からこのような主張に接しているので、違和感なく書き込んでしまうのでしょう。
  ここがカルト的思考の第一の特徴で、「主張に論理的な裏付けがない」ということです。
  人間がものを考えて言葉を発する時、本来であれば、相手の疑問や反論を考慮して、自分の主張を現実世界に適用した場合の不都合はないかとか、他の主張との間の矛盾がないかとか、いろいろ考えるものです。そうでなければ、立場の違う人間から反論を受けた時、すぐにボロが出てしまうからです。
  ところが、カルト的思考の持ち主はそういうことを考えません。情報の発信元、いうなれば「情報センター」(カルト教団の場合は教祖)から受信した情報を、そのまま現実社会に適用しようとします。それ以上は考えることをしません。
  もちろん、そういう荒唐無稽な物言いは、バランス感覚のある人間から批判されるわけですが、そういう反論をカルト的思考の持ち主は「人格攻撃」であると判断して、反論を真剣に吟味しようとしません。彼らが真剣になるのは、批判者のあら探しです。たとえば、若い頃学生運動に関わっていたら「おまえは共産党だ」となり、批判する人間のブログに国防問題を扱う記事があれば「あいつは軍国主義者だ」となり、名前に「金」とか「白」が混ざっていたら、「朝鮮人だ」となってしまうわけです。
  なぜそういうおかしな方向に行ってしまうのかは、あとでまとめて論じます。例のコメントの、他の部分を見てみましょう。
  
>江戸時代の開国>攘夷と同じように。

  一応注釈ですが、引用部分中の「>」というのは、「大なり」という意味で、攘夷より開国の方が正しい選択だったということを言いたいようです。
  これも典型的なカルトの特徴です。ここに出ている特徴は「固定的な世界観」「権威への盲従」です。
  巷ではよく幕末の動乱は日本が新しく生まれ変わるために必要なプロセスだったという風に言われますが、そんなに単純ではありません。開国が良かった、攘夷が良かった、あるいは薩摩長州が正しかったなどということは一概にいうことはできません。
  維新の立役者で、日本を良い方向へ導いた勢力であるとされている「長州藩」は、初めは超過激な攘夷派でした。たとえば、進取精神があったと言われる●長州藩士・高杉晋作がイギリス公使邸宅を焼き討ちしています。その後、有名な●下関戦争が起きますが、この事件を境に英国留学組が長州藩の中で実権を握った(邪推すれば、イギリスの傀儡になった)ということができます。
  開国を決断した幕府側にこそ、現実的に外国勢力の進出に対処していた人びとがいました。その典型が、教科書で全く触れられない●小栗上野介という人物が代表例です。殖産興業の代表例だと言われている「富岡製糸場」や、日本初の近代造船所である「横須賀造船所」などを実現させた人物です。戊辰戦争のどさくさに紛れて、薩摩・長州側に処刑されてしまいましたが、
  この人物より、外国人相手にテロをやっていた高杉晋作が評価されているというのが実におかしな感じがします。単に、長州が勝った側についていたので、そこにいた人たちも無条件で素晴らしいはずだと思っている人が多いのではないでしょうか。

  (ちなみに、明治維新をプロデュースした人びとは、こういうことを書くと、山口県や鹿児島県の出身者が反発し、日本人同士で食い合いをして真の敵を認識できなくなるということまで計算していたのだと思います)

  上のコメントをした人間は、教科書に書いてあるような「開国は閉鎖的な日本が変わるために必要だった」「明治維新は外国の侵略に立ち向かうための革命運動だった」というような言動をそのまま鵜呑みにしているのでしょう。教科書の記述というのはいわば国定の思想です。そこに書いてある考えには、政府の権威があります。自分の正しさを世に訴える時に、そういうものに頼っているわけです。
  だったらどうすればいいのかというと、明治維新になぞらえるのをやめて、自分の言葉で「なぜ新自由主義だと日本が有利なのか」堂々と主張すればいいだけです。それをしないで、維新だの志士だのと言い出すのはなぜかと言えば、そういう権威に頼らなければ自分の主張を他人に受け入れてもらえる自信がないからです。引用先のブログの管理人さんもそうですが、私がこの人は違う、と思う論者というのは、自説を正当化するために「アメリカでは」「北欧では」「明治維新の時は」などということを口にしません。それだけ、物事に対してまっすぐに向き合っているからです。
  もちろん、そうするためには、自分なりに物事を調べたり、ああでもないこうでもないと頭の中で反芻する必要があるわけですが、そういうことも面倒くさいのかもしれません。だから、「明治維新の時みたいに」「アメリカではこうだ」という枕をつけて、さっさと切り抜けようとするのでしょう。
  カルト教団では、この権威が全て教祖の言説になっているわけですが、教団未所属のカルト思考人間の場合は、「教科書」「その道の権威」「メディア発表」「政府の見解」「自分と考えが近い人気ブロガーの主張」という風に、バラエティに富んでいます。しかし、権威を利用しているという点では変わりがないわけです。表面的な違いだけを見ると、カルト的思考をする人間を見誤ります。
  さて、次の部分が一番注目すべき部分です。

>もし、小泉を罰するためにみんなで民主党に票をいれたら、みんなで幸せになれるのでしょうかね?

  カルト的思考をする人間の特徴が凝縮されています。それは、「逆ギレ質問」「二者択一的思考」です。

  ●「自己実現カルト」について扱った記事でも申し上げましたが、カルト的思考をする人間は、非常に単純な世界観(例:貧しいのが嫌なら努力すればいい)を信じており、対立する考えとの調和を目指していろいろ試行錯誤するという作業をほとんどしません。だから、違う意見の持ち主が批判をしてくると、人格を攻撃されたと勘違いし、激高してしまうことがあります。
  そのカルト人間が自分を優位に立たせようと苦し紛れに放つ一手が、「逆ギレ質問」というやつです。これによって、自分が問い詰める側に回ることができるわけです。
  注意しなければいけないのが、彼らは別に物事を深く追究して、よりよい物事のあり方を考えようとこういう質問をしているわけではないということです。相手を受け身にさせて、とにかく攻撃してやろうとこういう発言をしているだけです。まともに相手にする必要はありません。
  そして、もう一つの「二者択一的思考」ですが、これがもっとも厄介であり、本人にとっても害悪が大きい側面でしょう。
  二者択一的思考というのは、常に想定させる場合分けが二つしかないような考え方を言います。典型的なのは、「はい・いいえ」で答える質問ですが、これがカルト宗教の場合になると「このツボを買うか、地獄に堕ちるか」とか「組織の財務に協力しないのか、それなら極楽浄土には行けないぞ」とか、そういう感じで使われます。
  この思考をしたがる人間というのは、「○○しなければヤバイ」ということを勝手に考えて、ひとりで危機感を募らせていて、周りの人間からすると非常に突飛で理解困難な発想をしがちです。たとえば、一時期、どっかの掲示板で、突然、「朝鮮総連や創価学会による日本支配を許したくなければ、安倍晋三さんと一緒に人権擁護法案に反対しよう」とか、そういうメッセージが大量にコピペ(コピー&ペーストの略)されたことがあります。要するに「安倍さんを応援しないと朝鮮人に支配される」ということを言いたいわけですが、ああいうのも嫌がらせと言うより、ああいう集団だけで勝手に危機感を拡大再生産した結果、そういう行為をしているということです。もちろん、裏にそれを煽っている人間がいないとも限りませんが・・・。
  二者択一的思考は、非常に単純なので、理解するのに全く脳みそを使う必要がありません。もちろん、それだと複雑な現実社会の様相を理解する場合、不都合が生じます。
  しかし、カルト的思考の持ち主はそういう事態をどうとらえるのかというと、またしても自分たちに対する人格攻撃だと判断して、社会そのものに対して敵対心を持つに至るのです。具体的に言うと、「一般人は真実を知らない馬鹿ばかりだ」とか「メディアリテラシーのない愚民はテレビに洗脳されている」とか、「左翼や在日朝鮮人の工作だ」とか、「CIAの工作だ」とかいった感じになります。
  上に挙げたコメントの論者も、「自民党か、民主党か」という思考しかできていないのが明らかです。

  では、このようなカルト的思考になぜ人間がはまってしまうのか、ここが重要です。

  簡単なことです。その方が楽だからです。

  私を含め、大多数の人間は弱い存在です。この場合の「弱い」というのは、何が正しいかを自分で簡単に決められないということです。自信がないといってもいいかもしれません。このことは、思想信条だけでなく、職業の選択だとか、人間関係の構築にもあてはまることだといえます。
  それにも関わらず、いろいろな場面で我々は、何が正しいのかを選び取っていかなければなりません。重要な決断であれば、その後の人生が変わってきてしまうこともあるでしょう。後から間違った選択をしたと気づいて、後悔することもよくあることです。
  そうなると、もう他人に「どう生きるべきか」を決めてもらう方が楽だという結論になってしまうのも頷けます。そういう「ニーズ」に答えるのがカルトだということです。このカルトというのは、何も宗教だけでなく、情報センター(カルト的思考をする人間が判断材料にする情報を発信する個人や機関)が存在し、それを無批判で受け取る多数人という関係があれば成立します。もしかしたら、もっとも大きなカルトは、メディアとその視聴者になるのかもしれません。北朝鮮のような国では、実際にそういう事態になっているし、日本もそうならないとは限りません。
  このような傾向を助長しているものは何かといえば、学校教育というシステムです。学校というのは、考えてみれば異常な組織だと思いませんか。情報を発信する人間(=教員)が、それをどれだけ受信できたかをテストし(=中間・期末試験)、うまく受信できている人間を高く評価して(=内申書)、職業選択や学校選択に有利になるようにし向けています。
  さらに、おかしな情報、たとえば「何も考えずに覚えさえすればいいんだ」とか、「あなたたちのお爺さんたちは、アジアの人びとを虐殺した悪人です」といったものの受信を拒否しようとすると、「こんなこともできないで社会に出て通用するわけがない」とか、「あなたは軍国主義者か」などと人格を否定するような評価を下されます(笑)。
  これは、情報センターがしっかりしていれば済むとか、評価がきちんと行われれば済むとか、そういう問題ではありません。大多数の人間は受信を強いられるという点では、カルト教団と学校は大差がないのです。ポイントは、情報センターの発信する情報を無批判で受け入れ、それに沿った行動をすることが人格評価の基礎になっているという点です。
  もちろん、学校の場合は、カルト教団に比べて教義の締め付けが緩いですから、現場の教師が多様な評価(たとえば、「勉強はあまり得意ではないけど、正直でいいやつだ」)をすることはできます。しかし、組織全体の流れからいえば、やはり情報を受信できない人間はダメな奴だと烙印を押されることになります。カルト教団のように、リンチで殺害されることはありませんが、●こういう異常な事態は起こりえます。普通の会社でこういうことはまずないでしょう。

  もうそういうタイプの人間がどういう風にものを考えるかはだいたい読めるので、先回りしてしまいますが、私が上のような意見を書くと、カルト的思考の人間は、「このブログの管理人は公教育を否定している」という風に受け取ってしまうのでしょう。
  彼らの特徴は、そういうところにも現れています。「価値判断を下すスピードが異常に速く、メカニズムが単純」ということです。なぜ速いのかというと、情報センターが発信した「これは○、これは×」というフォーマットを用いており、自分の頭で考えていないからです。
  こういうものを善悪中毒ということもできます。

  では、こういうカルト的思考は、どうすれば防げるのでしょうか。

  まず、自分がカルト的思考をしていないか、常に反省することが必要です。たとえば、こんな感じです。

★自分の考え方は、ちゃんとした裏付けがあるだろうか?
★固定した世界観(先入観)を持ってしまっていないだろうか?
★権威に頼って、楽をしようとしていないだろうか?
★他人の言い分をきちんと理解し、逆ギレ質問をしていないだろうか?
★自分にも他人にも、二者択一を強いていないだろうか?
★評価を決めつけるのが、早過ぎやしないだろうか?
★自分が拠って立つ前提は本当に妥当なものだろうか?


  私もいまだに「中国」ときくと、悪いところがないかあら探しをしている自分に気づくことがあります。「中国は悪だ」という価値判断に従って、楽しようとしているわけです。もちろん、ブログでしている中国に関する記事は、そういうものを超えた領域まで考えた結果として書いていますが、おかしな人間に囲まれてしまったら、私だっていつカルト的思考に陥るか分かりません。
  我々の生活は一方的な情報を発信してくるメディアに囲まれており、その情報を受信してその通りに行動した方が楽だというのは、否定できない事実です。しかし、そうすることによって、失っているものがたくさんあるかもしれません。

  次に、価値判断をするなら、自分の目で見たものや、味わったことがあるもの(生活経験)をもとにして考えるべきだということです。そういうものから帰納した考えというのは、奇をてらったり、無理があったりすることがないのが普通ですから、何かを解釈しなければいけないとしても、おかしな結論になることはそれほど多くありません。
  しかし、ここで注意してほしいのは、自分の周りにあるものを「一般化」しないということです。自分に当てはまることが、他人に妥当するとは限りません。物事をよく見て、一般的なことと個別具体的なことを分けて考えるべきでしょう。

  また、他人の言うことにはまず耳を傾ける姿勢を持つことも重要です。このことは、ネット上の匿名の関係よりも、現実に合って話をする人間関係により大きく妥当します。
  たとえば、「若者はわけのわからない存在だ」という先入観を持っていて、茶髪の若者の言っていることを何も聞かないというのは、カルト人間の素養十分です。どうせその先入観も、自分の経験よりは、メディアという情報センターを通じて作られたものであるという可能性が濃厚だからです。
  もっとも、最初に挙げたコメントの人間のように、明らかにカルト的思考に陥ってしまっている人間は、まともに相手にする必要はありません。
  こういう時は、「自分の発言や主張を、事情を知らない普通の人が見たらどう思うだろうか?」ということを常に心がけることです。普通の人が「引く」ような態度や発言はする必要はありませんし(そもそもそういうことを考えるのがおかしい)、そういう発言をしている人間がいたら、もうこれは相手にしなくていいわけです。

  最後に、これが一番大切ですが、「多くの人びとがカルト的思考にすがらなくても生きていけるような社会はできないか」と考えることです。これは少しレベルの高い注文になりますが、是非考えてもらいたいと思っています。
  カルト的思考をする人間が多くなっているというのは、それだけ今の日本が、シビアな判断や、強い意志の継続を強いるような社会になってしまっている証拠でもあります。なぜなら、そういう社会では、個人が大きな責任を追ったり、重大な選択をしなければならない場面が増えるので、そのプレッシャーに耐えられなくなってしまっているからです。
  当たり前ですが、そういうことは教育だけでなんとか出来るものではありません。行きすぎた愛国心の醸成や、利他精神の教育は、さらなるカルト的思考を生むだけです。
  そうだとすると、やはり日本人の大多数が持っている物的条件を改善する方向性が必要です。簡単に言えば、富や利益をできる限り多くの人間で分け合うということです。雑誌の読者プレゼントにたとえるなら、プレゼントのパイを大きくして、より多くの人に当選する可能性を与えることです。
  今の日本をたとえると、複数のハガキを出してもいいというシステムで、「ベンツやBMWの車を100名様に差し上げます」という広告を打っているようなものです。このシステムだと、ハガキを大量に出せる人間(金持ち)が当選する確率が高まるわけですから、大多数の人間には失望しか生まないことになります。今はまだ、残念賞に「公務員」とか「大企業勤務」とか「正社員」というようなものが残されていますが、これもいつまで持つかどうか・・・。
  そうではなく、より多くの人が絶望しなくて済むような経済の仕組みが、結果として不満や犯罪を減らし、社会全体の安定につながるのは、先ほど挙げた「或る浪人の手記」さんの記事の中にもある通りです。

  カルト的思考という麻薬の常用によって、知らないうちに地獄の淵に立たされているかもしれません。
  権力がある側は、とかくカルト的思考をばらまくことで我々の判断力を奪おうとします。戦前がそうです。「満蒙は日本の生命線」に始まり、「鬼畜米英」が「欲しがりません勝つまでは」になるまで10数年しかかかりませんでした。それが終わった後は、「敗戦したのは小麦を食べなかったせいだ」とか、「日本が一方的に譲歩してでも国際協調しなければいけない」とかいう形になり、最近では「ミンエーカしないと世の中は進歩しない」とか「財政均衡しないと日本は破産する」とかいう感じに推移しています。そうやって、右に左に上に下に揺さぶられ、一体どれだけの傷跡が残ったことか。
  そういうメッセージに惑わされないためには、やはり面倒くさくても自分で考えていくほかはないわけです。

  一言でまとめます。  

  「カルト思考やめますか?それとも人間やめますか?」


  ・・・次回はきっと、旅行記の続きを書きます(笑)。


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