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2008.08.15(Fri)

近代を生きる我々にとって「祭り」が持つ意味 

大曲花火大会

  過去の記事に寄せられた●あやこさんのコメントに触発されて、「祭り」というものについて書いてみたいと思います。

  今いろいろ用事を済ませて帰宅したのですが、帰り道で、どこからか「どーん、どーん」と音が聞こえてきたのです。何かと思ったら、花火でした。
  そういえば、今日私が日頃使っている駅に、ゆかたを来た若い女性が何人かいたのを思い出しました。近くの花火大会にでも行くところだったのでしょうか。茶髪で濃い化粧のねえちゃんも、結構頑張って浴衣に下駄だったりします(笑)。当たり前ですが、平板な表情の人はひとりもいません。みんな浮ついた笑顔です。
  こういう花火大会が、1年でなんと200くらいあるそうです。猫も杓子も花火という状態ですね。通常のお祭りの中で花火が打ち上げられるものを数えたら、おそらくもっと多くなるのではないでしょうか。

  しかし、そもそも、花火なんか打ち上げてどうしようというのでしょうか。

  花火が空に上がるのを見たところで、金品をもらえるわけではありません。軍事技術に応用できるような代物でもありません。しかし、花火大会はどこも盛況です。多くの人が花火が上がると喜んでバルコニーに飛び出します。祭りの類が好きでない私でも、「どーん」と音がすると、そっちの方を観察して、次の一発はまだか、立ち止まって眺めます。
  おそらく、それは花火が日常生活で見ることができないものだから、それ以外に何もないのではないでしょうか。
  こういう、非日常をあえて催すのが、「祭り」というものです。日本各地に残されている祭りというのは、だいたいが農村のカレンダーに従っています。稲穂が実って、あとは刈り入れだけという段階になったら、普段の仕事をほっぽらかして
  この祭りは、現代においては様々な形態を取っています。学園祭というのは、学生が勉強をしなくていい格好の口実です。地方の公立の進学校で浪人する高校生というのは、だいたい学園祭に夢中になった口です。「祭りの後」でハッと我に返って勉強しはじめるわけですが、時既に遅し、ということになるわけです(笑)。
  また、サッカーの試合なんかもそうです。スタジアムに行くと、サポーターとかいう人びとが集まって自分の生き死にと関係のないひいきのチームの勝敗に夢中になっています。生き死にと関係ないから夢中になれるのです。これが野球になると、結構毎日やっているので、少し「祭り」の意味合いが薄れてくるのかもしれませんが、たまの休みに野球場に行くというのはやはり「祭り」に当たるといえるでしょう。

  今、私が具体例としてあげた「サッカーの試合」について、少しお話しておきたいことがあります。

  私は若い頃(今も若いと自分では思っていますが)、落合信彦という作家が好きでした。講演会なんかで話す「エクアドルで掘り当てた油田の日産バレル」がエクアドル全体の石油生産量を超えていたとか(笑)、ホラが多い人物でしたが、最近では若者向けの自己実現を煽るような本を書いたり、●「勝ち組クラブ」とかいう身も蓋もないタイトルの有料ホームページを運営したりして生計を立てているようです(本当の勝ち組はこんなの見ないと思うのですが・・・笑)。
  自分でいろいろ勉強するようになり、歴史や地政学をそれなりに理解した今となっては、このオッサンがしょーもない芸人作家だと分かるのですが、それがまだ分からなかった頃、彼の著書で興味深いくだりを見つけました。
  詳細は覚えていないのですが、サッカー・Jリーグのクラブのサポーターになって、競技場で熱心に応援している若者を見て、「いつまでもサポーターでいいのか。君自身がフィールドに立て」などと主張する内容だったと思います。要するに、人を応援なんかしないで、自分が主役になるようなエキサイティングな人生を送れ、ということを言いたかったのだと思います。余計なお世話という感じなんですが、本人は人生の伝道師とか、現代のソクラテスかなんかになったつもりなのかもしれません(笑)。
  以前、なんで落合がそういうことを言うのかなと考えてみたことがありました。そして、さっきあやこさんのコメントを見てピンと来たのです。要するに、落合みたいな人間は、若者に「祭り」に走られてしまうと困るのです。
  私自身の経験から言えるのですが、落合信彦とか、大前研一みたいな作家の本ばかり読んでいる若い人というのは、非常に理想が高く、将来大きな人物になってやろうという願望を持っています。そういうのは大なり小なり誰にでもあるのかもしれませんが、そういう若い人にはよくない特徴があります。生活していく日々の営みや、自分の周りにある現実を、「自己実現」に比べて卑しくて小さいものだと見なしてしまうことです。
  現実社会というのは、思うようにいかないことがほとんどです。それでも何とか生きて行かなくてはいけません。しかし、落合信彦にハマってしまっている若い人は、それでは満足できないわけです。それどころか、洗濯したり、家の手伝いをしたり、生活費を稼いだりするのをくだらないことだとさえ思うようになります。ずいぶんぜいたくな話ですが、そういう人は結構います。私も結構最近までそういうところがありました。
  もちろん、フツーに生きていても、壁にぶつかったり、憂鬱な気分になったりはします。そういう現実を一旦ほっぽらかして、声を出したり身体を動かしたり、他人と共感し合ったりできるのが「祭り」なのです。
  「祭り」の中でもっとも重要なのが、「祭りの後」の虚脱感です。どんな祭りにも必ず終わりが来ます。そこでハッと我に返ることで、また日常へ帰っていくことができます。そういう生活をしていれば、いちいち夢を追いかける(ことで自分を追い詰める)ことをしなくても、それなりに充実した人生を送れます。
  そして、最も重要なことは、この「祭り」は誰にでも参加できるということです。落合が言っているエキサイティングな人生(笑)とかいうものは、参加できる人間が限られています。
  こんなことを言うと、落合や落合の信者は、「そんなことはない、努力すれば誰でも夢を叶えられる」などと言うのかも知れません。この辺は、昨今の「カイカク」における自己責任の話とよく似ているので、立場が違うと永遠に水掛け論に終始するでしょう。しかし、彼らも「祭り」に参加するのに才能や努力は要らないことは認めざるを得ないはずです。

  こういう「祭り」が一切存在しない社会が、カルト宗教です。オウム真理教にしろ、安倍チャン(笑)と仲のいいキリスト教のパクリのあれにしても、共通している点があります。生活の中に「祭り」がないのです。合同結婚式やなんとかイニシエーションなんていうのは、「祭り」ではありません。
  「祭り」の特徴である、不全感や鬱屈した感情を爆発させ、「祭りの後」の虚脱感で我に返り、また日常に帰っていく、そういう過程がカルト宗教には存在しないのです。我に帰られたら、教祖様としては困るわけです。日常生活で地に足つけて生活してもらったら、お布施を出してくれないからです。
  だから、カルトは「信じないと地獄に行くぞ」「おまえの魂は救われないぞ」と信者を脅迫して、フィクションに過ぎない支配と従属の関係を固定しようとするわけです。
  落合信彦がやっていることも、こういうカルトとそれほど変わらないわけです。自我の弱い若者に「夢を実現しない人生に意味はない」「人生の主役になるのは君だ」と言い放つ。まっすぐ自分の方を向かずに、テキトーに生きようとする若者が出てくると「そんなのは人間の生き方じゃない」と罵倒するわけです。
  こういうことを公然とやっているのは別に落合だけではありません。日教組のヘーワ・ジンケン教育なんかも同じです。今さら白黒つけてもしょうがない過去の出来事について、いつまでもいつまでもホントか嘘か分からないマイナス思考の話を繰り返す。そこから生徒が逸脱しようとすると、「あなたは地球市民として生きる資格がない」「血も涙もない人間だ」となじる。教祖様の教えにどれだけ忠実に従ったか、1から5の数字でランク付けまでする(笑)。
  余談なんですが、6月から7月にかけて面白いことがありました。私が今教えている某中学で1番の成績を取っている女の子がいて、その子の社会の先生がどうも日教組の人っぽいのです。授業がある度、「なんか授業でまだ戦争責任の話をしてる」とか「へんな死体の写真とか見せるんだけど、なんかうざい」とか苦笑いしながら私に報告してくるわけです。優等生でも、まともな感覚の子がいるんだなぁと思いました(笑)。
  多分、カルト的空間にハマる人間は、リーダーも信者も人間があまり好きではないのでしょう。だから、自我を捨てさせようとするし、進んで自我を捨てるのです。ネット界隈でカルトカルトと言われて叩かれている某宗教のリーダーが、やたらと著書に「人間」という言葉を入れたがるのは、一種の代償行為なのかも知れません(笑)。

  こういうカルトにハマらないためには、どうすればいいのかなと考えてみるのですが、日常生活と、その中にある「祭り」を大切にすることが重要ではないかと思います。大切にすると言うのは、そんなにオーバーなことではありません。「こんなのは本当の自分じゃない」と思わないことです。
  カルト指導者は、ここを徹底的に突いてくるのです。つまり、自分の教えに従えば、「天国に行ける」(=本当の自分になれる)と教えるのです。
  若者が日常性を嫌う時期というのは、いろいろなものにぶつかりながら、現実との距離を計っている過程なのだと思います。社会に出て、現実を知れば、やがてそういう気持ちは薄れていくでしょう。しかし、そうなる前にカルト的空間に入り込む危険が非常に高いのです。
  特に、あるべき自分を見つけ出そうと、1年中真面目に物事と向き合っているような人が危ないです。そういう人は、「祭り」に背を向けたがるからです。これは勝手な想像なので間違っていたら恐縮ですが、この前あった秋葉原の通り魔殺人の犯人は、思春期に「祭り」で自分を解放する経験をあまりしていないのではないでしょうか。
  私も「お祭りなんて不良の行く場所じゃねえか」みたいな考えに取り憑かれていたことがあったのですが、よく考えると年度末の打ち上げのとき徹夜でカラオケに行ったりしていますし、●この記事みたいにエラソーなことを言って悦に入ったりしているわけです。決して「祭り」に参加していないわけではないのです。
  酔っぱらってるオッサンとか見るとあまりいい気分はしませんが、「祭り」の場でアホやってる自分はたいして変わらないかも知れないと思うと、ある人間をくだらないとか無価値だとか断罪するような姿勢にはならないと思うのです。そういうことをしていると、確かに大人物にはなれないのかもしれませんが、別に我々は夢を実現したり、大人物になるために生まれてきたわけではありません。ましてや、落合信彦や麻原ショーコーの飯の種になるために生まれてきたわけでもありません。

  そういう意味では、花火が打ち上がるのを見てワイワイ言っているのは、けっこう健全なのではないかと思います。日常あっての非日常だということさえ忘れなければ・・・。
  もっとも、落とし物や、暗い帰り道には気をつけるようにしてほしいものです。学園祭の後夜祭で大暴れして、ポケットに入れていた新しいウォークマン(まだテープ式だというのが時代を感じさせる)をなくしてしまった私だから言える忠告です。

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