2008年08月 / 07月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫09月
--.--.--(--)

スポンサーサイト 

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
EDIT  |  --:-- |  スポンサー広告  | Top↑
2008.08.05(Tue)

宝くじ、資格試験、自分の人生 

  やっと右手が使えるようになりました。まだキーボード操作は辛いですが、どうしても書いておきたい話題があったので、無理のない範囲で書いてみます。

  来週、サマージャンボ宝くじという大型の宝くじが抽選日を迎えます。この宝くじの最高賞金は1等と前後賞を合わせて3億円で、1000億円ほどの売り上げを上げているそうです。
  かくいう私も1等1000万円程度の宝くじを結構買っていた人間なのですが、最近ある方に「その習慣は絶対にやめた方がいい」と忠告されました。なんでも、宝くじ売り場には貧乏神がいるのだと。

  そう言われて、以前にヘラルド・トリビューンという英字新聞で、読んだある記事を思い出しました。ネタ元は、ロイター通信だったようです。

貧しいと感じている人ほど宝くじを買う傾向=米調査
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-32934720080728
--------以下引用--------
 米国の研究チームは、自分が貧しいと感じている人ほど宝くじを買う傾向が強いとの調査結果を発表した。専門誌「Journal of Behavioral Decision」に掲載された同調査では、自分自身の所得が一定水準を下回っていると感じると、人はリスクを取りがちになり、貧困のわなにも陥り易いとしている。

 研究チームは、年収10万ドル(約1100万円)未満の被験者グループに対し「低所得者」であるとほのめかして宝くじ購入枚数を比較したところ、年収10万ドル以上のグループが0.67枚だったのに対し、年収10万ドル未満のグループでは1.27枚だったという。

 調査に協力したカーネギー・メロン大のジョージ・レーベンシュタイン教授は「主観的に貧しいと感じていると、人は道理に反するぐらい多くの宝くじを買うことになる」とコメント。貧しさを感じる人ほど「お金を捨てる」傾向が強いのはとても逆説的だとしている。
--------引用以上--------

>貧しさを感じる人ほど「お金を捨てる」傾向が強いのはとても逆説的だ

  アメリカの名門カーネギー・メロン大学の教授(名前から察するにユダヤ系だろう)であるレーベンシュタイン氏にとってはアベコベの話に思えるのかも知れませんが、私にはむしろ当然に思えます。
  別に私は、宝くじを買うのは貧困層だと言いたいのではありません。上の調査でも触れているように、低所得者ではないという自己認識を持っている人も、それなりに宝くじを買っています。だから、宝くじを買うこと自体は、よほどの大金持ちでない限り、どのような所得層もやっていることだと言えます。

  問題は、なぜ主観的に貧しいと感じる人間の方が、たくさんの宝くじを買う傾向があるかということです。

  冷静に考えれば、宝くじを買うという行為は、事実上カネをドブに捨てることと同価値です。私が先日買ってしまった東京都くじは、1ユニット200万本の中に1等1000万円はたった1本しかありません。前後賞、2等まで合わせてもたったの7本です。2等までに当選する確率は1000万分の35です。100年間毎日8枚買い続けてやっと1回当たる計算になるわけで、こんなものに本気になるというのは正気の沙汰ではありません。
  それにも関わらず、宝くじを買ってしまうのは、単純に言えば、低所得層には「希望」がないからに他なりません。
  良きにつけ悪しきにつけ、先進国は相当成熟した社会であり、様々な成功モデルや人材配置システムが整備されています。分かりやすいたとえでいうと、道路に車があふれかえっていて、大胆な追い越しや運転テクニックによって目的地に早くたどり着くことが困難な様子を思い浮かべてみるといいでしょう。こういう道路状況では、きちんとした交通整理に従うしか前に進む方法はありません。
  そのとき、誰がどのような社会的地位に配置されるのか、決めているのは「生まれ」です。端的に言えば、親が誰かということで全てが決まるのです。親が高学歴で、収入や財産を持っているならば、その子供はより重要で、高収入を安定して得られる職業に就くことができます。逆に、親の収入が低いと、高等教育も受けさせられないでしょうし、学歴を問わない労働集約産業も、企業によって効率的な仕事のやり方が整備されてしまっている状況で、後発組が馬力でシェアを奪うのはかなり難しくなってしまっています。建設業や運送業なども、親から経営基盤を受け継いだ人間の方が有利に決まっています。
  これを乗り越えるには、何か特殊な才能(他人の数十倍も努力したり、理不尽な仕打ちに対して屈しなかったりするのも、強烈な意欲という立派な才能)がなければいけません。その才能というのも、子供が自分でコントロールできる要素はほとんどないのが実情です。
  そうなると、残された道は何かというと、「一発逆転」しかないわけです。宝くじで一等賞を当てるというのはその典型です。一回当てれば、今までの出遅れが全部チャラになるのですから、こんなにいいことはありません。乏しい財布の中身を割く気になるのは、一発逆転しかないとどこかで分かっているからです。
  なぜ一発逆転しかないと思うのかというと、そうでなければ救われないからです。貧乏人というのは、近代の社会では「チャンスがあるのに努力しない馬鹿者」だと見なされているわけです。
  近代国家はみんなが努力して初めて成り立つという前提で作られていて(みんなが政治に興味を持てば民主主義はきちんと機能する、などという発想が典型)、国民もそのように教育されます。「夢や希望を叶えるために努力をするのは尊いことだ」「自分を信じて努力すれば、どんな夢も叶うはずだ」という感じです。
  努力したかしないかなんていうのは、そもそも他人が評価する筋合いのものではないはずですが、あえてそれをやろうとすれば、社会的地位や経済力で計るしかないわけです。金持ちが金持ちなのは正当な努力の結果であり、貧乏人はそれを怠ったから貧乏人なのだ、ということです。金持ちは「今の地位を築いたのは自分が人一倍努力をしたからだ」と言うでしょうし、貧乏人は貧乏人で、「格差を理由にする奴は怠け者だ」と、自分の仲間(笑)を叩いて憂さ晴らしをするでしょう。後者は、よくブログや掲示板などでも見かける言論です。
  そういう差を詰めるには、要するにカネ、何でもいいから大金を得るというのが唯一の方法です。「見えないところで社会を支えるような生き方があってもいいはずだ」などと言う人もいるでしょうが、それは近代国家や近代経済システムの中で評価される要素にはなりません。中にはそういう近代的な社会的地位に対して鈍感な人もいると思います。皮肉抜きで幸福な人だと思いますが、なかなかそういう人は多くありません。
  宝くじにただでさえ少ないカネを突っ込んで、馬鹿じゃないのか、というメロン大学の教授さんの意見もごもっともなのですが、そうでもしなければ絶望してしまう貧乏人もいるということは間違いありません。

  そんな貧乏人の一人である私ですが、実は生き方もかなり「宝くじ的」でした。司法試験という資格試験を受け続けていた経験があるからです。
  ご存じのように、司法試験というのは裁判官や弁護士になるための試験ですが、特に2010年で打ち切られる旧司法試験は、難しい試験ということで有名でした。合格率は2%弱で、細かい知識や論理的なパズルを解く能力が要求される択一試験と、2時間で最高4ページの答案2枚を書かなければならない(しかもそれを1日3科目やる)論文試験、学者や裁判官と法律的なやりとりをしなければならない口述試験の三段階に分かれています。択一は受かっても、論文で落ちればまた翌年は択一から受け直しです。
  私は5回で見切りをつけてしまったのですが、中には10回も15回も試験を受け続けている人がいました。一人とか二人とかいうレベルではなく、結構いるのです。そんなにやって受からないからアホなのかというとそうでもなく、法律的な知識はあるし、論理的な文章を書ける人もいるのです(予備校の模試で受験生の書いた模範答案が出るからだいたい分かる)。
  それなら、司法書士とか宅建とか、他の試験を受けて法律を使った仕事をすればいいのではないか、と普通の人なら思うでしょうが、浪人生の心理はそうではありません。私もそうでしたが、ここまで来てしまったのだから司法試験のような難しい試験に受からないと、ロスが取り返せないと思ってしまうのです。
  実もふたもないことを言いますが、弁護士や検事にならない以上、憲法や刑法や刑事訴訟法をいくらやってもムダです。他の科目は他試験に応用できますが、細かい学説だとか、(実務を全く経験していない状態で作り上げなければならない!!)法律的な文章の作成術まで勉強するというのは、明らかにムダです。
  そういうことから考えると、司法試験に突っ込んだ時間の大半は、受からなければリターンが全くなくなってしまうわけです。これをチャラにするには、合格するまで受け続けるしかないということになります。受からなければ「努力が足りない」ことになってしまうからです。

  何か、宝くじを買い続ける貧乏人と、メンタリティがよく似ていないでしょうか。

  皮肉なことだと思いますが、努力というものが持っている価値を無批判に礼賛すればするほど、そういう不幸な人間は増えることになります。
  大事なのは努力そのものではなくて、どう生きているかなのではないでしょうか。苦痛やストレスより楽しさや喜びを感じて生きる方がいいはずですし、それを他人に分けてやれるのであれば自分にも返ってくるものがあるはずです。時にはうまく行かないこともあるでしょうが、そのときの感情や経験も他人と分かち合うことで、我々は一人ではないのだと実感することができるでしょう。
  そんな日々を生きることができれば、別に宝くじなど買う必要もないし、司法試験に無駄な時間をつぎ込まなくてもいいということになります。
  もっとも、それを近代国家や近代的経済システムの中でやろうとしても、結局はありえない理想論になってしまいます。競争や数字的評価がなくてもみんながちゃんと生きていた時代、近代より前の時代について考える価値は、そのへんにあるのだと思います。

  私も、宝くじを買うのはやめて(笑)、現実を少しずつ改善することに力を注ぎたいと思います。司法試験も、もうこりごりですね・・・。

★人気blogランキングへ←クリックして応援よろしくお願いします。
スポンサーサイト
EDIT  |  23:45 |  日々の雑感  | TB(0)  | CM(22) | Top↑
 | BLOGTOP | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。