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2008.01.02(Wed)

【情報操作】メディアリテラシーというものを教育できるのか 

  いきなりニュースを引用します。タイトルを見て、びっくりしないでくださいね。

遠距離克服!中田&加藤あい結婚へ
http://news.livedoor.com/article/detail/3449870/
--------以下引用--------
 人気女優の加藤あい(25)と06年サッカーW杯日本代表の中田浩二(28)が結婚することが31日、分かった。2人はこの日までに結婚の意思を固め、双方の親族にも報告済み。加藤の関係者は「具体的なことはこれからだが、2人の間では結婚の方向で進んでいる」と明言。早ければ年内にゴールインする。

 日本とスイス。往復3万キロの“超遠距離”を乗り越え、人気女優とサッカー界を代表するイケメンが幸せの“ゴール”に飛び込む。
--------引用以上--------

  はぁ?芸能記事?とお思いになりましたか?(笑)

  実は今年は芸能やスポーツなども取り入れた総合的なオピニオンブログにする予定・・・というわけではありません

  私は自己紹介欄でもわかるように、サッカーが好きなのですが、別にこの記事自体には興味はありません。まあ、覚えておいて、飲み会の席などで1分くらい時間稼ぎに使えるネタかなという程度にしか思っていません。
  実は、今日この芸能記事について、面白い出来事があったのです。

  私のような塾講師は、授業の前に教材の予習をやっておかなくてはいけません。新年早々の4日から、早速朝から晩までの授業が始まります。そこで、喫茶店に行って、さっきまで予習をやっていました。
  その時、私の隣に初老のご夫婦が座っていました。初詣帰りなのでしょうか。旦那さんの方がスポーツ新聞を広げています。
  不意に、奥さんの方が、「加藤あいって誰?」と言い出しました。
  旦那さんが少しの間答えずにいると、奥さんは「知らないわぁ」と、面倒くさそうな口調で続けました。どうやら、スポーツ新聞(スポーツニッポンだったと思う)の裏面いっぱいを使って、中田選手と加藤あいさんが結婚する話題が記事になっていて、それが目にとまったようなのです。
  すると、旦那さんはおろむろにその記事を読み始め、「○○の宣伝に出ているんだよ」と言い始めました。時間にして1、2分といったところでしょうか。じっくり聞いていたわけではないのですが、どうやら二人は中田選手のことも加藤さんのこともあまりよく知らないようです。
  私は、ふと思ってしまいました。

  「なぜ、自分たちが知らない、生活にも関わらない芸能記事について、この人たちは会話をしようとするのだろう?何も、興味がないなら無理をしなくてもいいのではないか?」

  そのご夫婦がいなくなった後も、しばらくそのことについて考えていたのですが、どうも、それは「新聞が一面で取り上げていたからではないのか」という結論に至りました。
  私が思うに、実はこれはあまり好ましくない現象です。なぜなら、メディアが設定した枠組みの中で、受け手の世界観や情報の系統が固定化されてしまっているからです。
  そして、そういう受動的な姿勢を助長しているのが、近代的な教育なのではないかと思うのです。私があえて「現代日本の」という風に定義しなかったのは、私たちが現在進行形で影響を受けている教育のあり方は、実はヨーロッパで近代化が始まった時点から変わっていないと思うからです。その教育のあり方というのは、「教師」という存在が、「教室」や「学校」という空間の中で、情報の発信センターになっており、「生徒」や「学生」といった存在はそれを受信するという役割に固定化されているというものです。
  元来、教育というものはかなりの贅沢品でした。家庭教育のことを言っているのではありません。教科書があり、専門的な知識を備えた教え手がそれに従って整理された知識体系を伝授するという方法のことです。こういう「教育」を受けていたのは、ヨーロッパで言えば神学校(キリスト教の神父を育てる学校)の学生、中国で言えば●以前の記事で扱った科挙受験生くらいしかいませんでした。これを政府が税金を使ってやるようになったのが近代の教育です。ヨーロッパの近代教育が神学校をベースにしているのは、神学校を指していたscholar(「スコラ哲学」のスコラ)が、今でも「学者」という言葉や、scholarship(奨学金)という語に残っていることからもよく分かります。
  そういう近代の教育というのは、人間を自由にするためとか、個人の人格を育成するとか、きれいな建前を建てようと思えばいくらでもできます。しかし、そういうものを一切取り払って、このようなシステムの中で望ましいとされる学び手というものを考えると、結局は発信された情報を大量に、正確に受け取って、それを発信者が望むような形で応用できる人間なのではないかと思います。
  もちろん、ゼミ形式だとか、ディベートの訓練だとかすれば、多少は「応用力」というものは付くのでしょう。しかし、習ったことを正確に覚えて、既存のフォーマットに沿って表現するという根本的な部分は同じです。大学だとか、学会だとか、その道の権威だとか、公的機関が発信した情報が、ゼミやディベートといったものの基礎になっているからです。
  そういった営みの全てを否定するつもりはありません。やはり、ある物事を考えたり、他人と意見を交わしたりするためには、一定の知識や概念といったものが必要になってくるからです。そういう営みを放棄するということは、言語活動(本を読んだり、思ったことを声にして人に伝えたりすること)を否定することに他ならないからです。また、実際ある種の知識の獲得によって、生活が便利になったり、ある技術が習得しやすくなったりすることは事実です。

  しかし、忘れてはならないのは、近代的な教育というのは、メディアに依存したコミュニケーションを助長するという側面があるということです。
  学校で言えば、教員教科書というメディアがあって、それらが発信する情報を大量に、正確に受け取ることが出来て、しかも「試験」という形で応用できれば、高い成績を得ることが出来ます。ずっとそういうことを習性にしていると、社会に出てから急にそれを変えるのはかなり難しいでしょう。そうなろと、メディアが合理性を欠いた情報を送ってきたり、優先順位が本来であれば低いはずの争点を掲げてくると、疑うことをせずに、それに乗っかってしまうという危険が出てくるのです。
  そういう点から言えば、近代教育で「被害」を受けやすいのは、疑うことを知らない優等生だといえるでしょう。これは、別に学校だけのことを言っているのではありません。この世の中は狂っているどうしようもない世界だとか、あるがままに生きろとか叫んでいる「文学」「音楽」のメッセージを真に受けるというのも、立派な優等生です。
  本当に基本的な知識や考え方については、それほど危険はありません。四則計算が速いとか漢字や綴りが正確だとかいっても、変な考えに洗脳される危険はないでしょう。
  しかし、これがもし高度な知識になったらどうでしょうか。教室の授業でも、メディアの記事でもそうなのですが、時間や紙面に制約があるため、そこで与えられる情報には数多くの前提知識があるのが普通です。私も授業をやる立場の人間ですから、もうこれは知っているはずだという知識や概念については、話を端折らざるを得ないということは良く理解できます。
  ここが危険なのです。そのような前提知識の一つ一つを、いちいち噛みしめているゆとりというのは、社会生活上ほとんどありません。そうなると、情報を送り出すメディアの方が「こんなのは当然知っているはずですよね」という前提知識、特に、存在意義や成り立ちというものをよく考えずに鵜呑みにしてしまうケースが多くなってしまいます。
  そういう「前提」部分に、なんらかの意図を持った情報操作が入り込んだ時が、一番危ないのです。たとえば、経済のことを論じた記事に、「近年加速する流通市場のグローバル化に対応して」というフレーズがさりげなく入っていたとします。一回だけならいいのですが、毎日毎日これが繰り返されると、「グローバル化」という言葉の意味を考えようとしなくなります。たとえば日本経済新聞を毎朝読んでいたりすると、「何でグローバル化しているんだ」という、根本的なところに考えが行かなくなってしまい、消費税の導入は避けられないとか、外国人労働者を入れるのはしょうがないという発想に行き着いてしまうのです。
  それでは、なぜ人がそういう情報操作に乗っかってしまうのかというと、その方が絶対的に楽だからです。頭を使わなくて済むから、いちいち悩まなくて済むからです。
  たとえば、メディアの言っていることは信用ならんと言っているネット右翼や自称保守の方々のブログを拝見すると、そういう人たちに限って全然自分の頭で物事を考えていなかったりします。中西輝政氏のような学者や、櫻井よしこさんのようなジャーナリスト、さらにはアメリカ政府のような彼ら自身が好意的にとらえている外国政府の見解などを、文言通りそっくりそのまま受け取っています。また、彼らが「特定アジア」や「左翼」といった敵を叩く時の論証も、見事なまでにパターン化されています。そして、そういう「敵」についてのメディア発表については、嘘かも知れないなどと疑ったりすることはありません。
  そういう意味で彼らは現代社会の「優等生」です。敵はこいつだという前提知識を与えておけば、勝手に崖の向こうの空の果てまで突っ走ってくれるタイプです。メディアにいいように操られないように、自分を疑ってみる必要があるでしょう。

  しかし、こんな教育が徹底されていたら、今頃とっくに世界中が全体主義の大帝国になっていてもおかしくはないのに(ある意味似たような状況が生まれはしたものの)、今の今まで人間社会がやってこられたのはなぜなんでしょうか?上に挙げたような「自分で考えているつもりのバカ」が、今でも世の中の多数派にならないのはどうしてなのでしょう?
  それは、メディアが与える体系的な知識以外の何かが、社会全体が一定の価値観に洗脳されることを防いできたからだと思うのです。それを一言で言い表すのは難しいのですが、多分「生活感覚」とでも呼ぶべきセンスなのだと思っています。
  たとえば、●こちらの「木走日記」さんの記事にあるように、2006年に企業の経常利益が過去最高を更新したのに、労働者の平均給与が9年連続で減少しているという話を聞いたら、「なんかおかしいんじゃないか」と思う人がほとんどのはずです。そこで考えるのをやめずに、「ひょっとして、株主とか役員とかいう連中が利益をガメているのではないか」と思う人も出てくるでしょう。そこまで行かなくても「もう少し給料を上げようと思えば上げられるよなぁ」という結論は普通に出てくるはずです。
  これが、「優等生」になると、メディアが記事の後ろにくっつける解釈(たとえば、技術研究に投資して国際競争力をつけなければいけないとか、会社の所有者である株主の利益を図るのがよい企業だとか)まで覚えてしまい、現実に出てきた矛盾や不整合に注目することが出来ないのです。ここまで来ると、もう重傷です。自分の生活がおかしくなってきたら、真っ先に新興宗教に入信したり、頭がおかしくなって犯罪を犯す危険があります。
  そうならずに、生活の中の手の届く範囲で判断することや、知り合いや周囲の人間の様子から得た経験則によって、社会や集団の利益が守られているという側面は絶対にあります。逆に言えば、庶民に出来ることは、そういう感覚をきちんと磨いておいて、為政者の嘘に強くなることだけであって、小難しい問題についての知識はあまり必要ないのです。
  そういう点では、「学校は全てではない」というのは当たっています。

  こういうことを言うと、「国民は身の回りの矮小な問題ばかり考えていればいいということか。外交や国防のような国家主権に関わる問題を軽んじるとは何事だ」とかいうことを言い出す人がいます。
  もうこの際はっきり言っておきますが、そういう人は根本的に認識が狂っています。国防とか外交とかいった話題が普通の人の生活の中に入り込みすぎるのは危険なのです。なぜなら、必要とされる前提知識が膨大なため、どうしても世論や国民の感覚が安易な結論に傾きがちだからです。たとえば、北朝鮮を悪役にしておけば、「水戸黄門」みたいな感覚で楽ができたりします。キムジョンイルは頭のおかしい独裁者で、あんなやつは正義の味方であるアメリカ様や小泉さんに叩きつぶしてもらおう(笑)という感じでしょうか。
  そういうときに、メディアの真価が発揮されるのです。北朝鮮を悪の帝国だと見なすような報道が連日繰り返されれば、それがいつしか前提知識になってしまって、疑うことが許されなくなります。「拉致被害者の心情を考えろ」などという補強材料までつければ完璧でしょう。北朝鮮と交渉しようという考えを口にしたら、その時点で社会的に抹殺されてしまいかねません。
  そういう単眼的なものの見方をしてしまったら、微調整の繰り返しである外交や国防という場ではかえって危険でしょう。たとえばそれが政治家であったとしたら、自分が人気を獲得した時のイメージを崩すことができません。対外強硬派の政治家(たとえば安倍晋三や中川昭一)というのは、その程度の存在なのです。
  だいいち、国防だの外交だのエラソーにぬかしているブログやサイトに限って、メディアが投げてよこした餌に飛びついて騒いでいるだけだったりします。外交や国際関係について論じたいなら、それこそきちんと歴史や地政学(の意義)について勉強すべきです。政治だったら何となくエラソーなことが言えるからいいかな、とか思ってテキトーな意見を垂れ流している人間は、自分が愚民扱いしている一般大衆にすら相手にされないでしょう。
  まあこれは、憲法のとある条文を呪文のように唱えているアホな連中についても言えることですが・・・。

  このような、メディアに依存した現実認識の罠に陥らないようにするには、一にも二にも「本当にそれでいいのかどうか疑う」しかありません。
  特に、メディア情報の前提とされていて、意味内容について曖昧にされたまま使われている言葉や概念こそ要注意です。先に上げた「グローバル化」や、「効率」「コスト」「便利」「国際世論」「競争力強化」といったキーワードなどがそうです。
  さらには「~となることは必至」「~なのは時代の流れ」「~という世界的な傾向」というようなフレーズにも注意が必要です。それが客観的に見て正しいかどうかは証明しようがなく、情報の発信側の解釈が入っている可能性が非常に高いからです。最近は学者ですらそういうフレーズを多用しているので、新聞やテレビでなくても警戒しなくてはいけません。
  こういうことを覚えておくだけで、だいぶ騙されることは少なくなると思います。

  困ったことに、こういう概念を学校で教えることはできません。情報を大量に発信し、受け手に無批判な理解を要求するという学校も一つのメディアなのであり、「価値判断を伴う言葉は全て疑え」ということは自己否定になるからです。

  そうだとすれば、こういう「教育」を実践するのは、「家族」「友人」「目的を共有する仲間」という関係しかありません。

  人間社会をハーメルンの笛吹男のような破滅から救っているのは、そのような生身の人間のつながりなのです。そう考えると、グローバリスト、中でもその権化と言える「ユダヤ系金融資本」が、各国の保守的な文化伝統を躍起になって叩きつぶしてきた訳がよく分かるというものです。彼らは、庶民に連帯されるのが怖いのです。
  ここまでお読みになった方であれば、この「連帯」というのが、共産党が唱えるみたいな「たたかう民衆の連帯」というような概念とは全く違うということはおわかりいただけると思います。そういう連中が言う「革命」こそ、メディアに依存した行動の最たるものだということです。

  人の世が狂い始めたのは、目に見える人間の体温や息づかいよりも、文字で書かれたメディア情報を上位に置いてしまったからだと言っても過言ではないのです。こうしてインターネットでささやかながらも情報を流通させられるようになったのですから、少しずつでも、血の通った、手の届く関係や生活経験を大事にすることから始めるべきです。
  自分は多分、情報受信を強いられる奴隷になっているのだと自覚すること、それが日本の一般庶民にとって一番大切なのであって、あえて「メディアリテラシー」という言葉を覚える必要はないのだというのが私の今の考えです。

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