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2007.11.03(Sat)

商人の歴史(2)~日本と中国ではどうか 

  更新が滞っていて済みません。今日は時間の関係もあって、短めにすませます。

  さて、●前回は、商人は御用商人として生まれてきたのではないか、という話をいたしました。今回は、それを具体的に、日本や中国で見てみましょう。

  まず我が国からですが、我が国は商業というものが出てくるのは相当遅れています。
  その理由はわかりませんが、理由に近いものだったら言えます。日本では「都市」というものが形成されるのが非常に遅かったということです。
  都市というのは、商人の住処です。ちょっとそれは乱暴すぎる定義じゃないかと思われるでしょうが、そういってしまった方がわかりやすいと思いますし、それほど本質から外れてはいないと思います。
  前回の記事で紹介した「フェニキア人」というのが典型的ですが、海外では都市住民というのは、一次産品を生産していないんですね。その代わり何をしているのかというと、都市の真ん中に住んでいる権力者の周りにいて、そのおこぼれをもらっている(笑)。たとえば、権力者の仕事の一部を代行したり、身の回りの世話をしたり、お城や屋敷の周りを警備したりしています。つまり、ごくごく原始的な形の都市の住民というのは「公務員」なんですね。もちろん、権力者が彼らを養えるのは、それだけ余剰生産物があるからです。
  そうすると、そこから需要が生まれてきます。権力者の周りにいる人たちのために、サービスや物を提供する人たちも集まってくるわけです。そうやって、都市というのは成長していったのだと考えています。

  日本では、そういう都市が形成されたのが、おそらく飛鳥時代くらいですね。それ以前にも九州北部あたりにあったのかもしれませんが、記録がありません。都市とおぼしき遺跡もありませんから、おそらく農村に権力者が直接居着くという形で来たのでしょう。
  しかし、飛鳥時代になると、中央集権化を目指すという近畿地方の勢力の方針もあって、権力者の周りに公務員が集まってきます。これも推測になってしまうんですが、おそらく渡来人の影響だと思うんですね。農村にバラバラに豪族が住んでいるより、真ん中に集めた方が効率がいいよということを、当時の天皇家、近畿地方の大権力者にアドバイスしたんじゃないでしょうか。あるいは、そういう渡来人系の人間が直接権力者になり、大陸式のやり方で国を作り始めたのが飛鳥時代だったのかもしれません。
  このへんは、その前の古墳時代の史料があまり残っていなかったり、古事記・日本書紀に依拠しているところが大きいので、なかなか正確なことがわかりません。皇室の出自とも結びついている問題なので、触れたがらないのかもしれません。私は、飛鳥地方の王朝というのは、渡来人が大きく関わっている気がしますね。
  で、そのとき人を集めるために使われたお題目が「仏教」だったのだと。当時の仏教は平地に寺があります。日本で山寺が建設されるようになるのは、密教を最澄・空海が持って帰ってきてからです。つまり、当時の仏教はある中心を作ってそこに人を集める名目としては非常に有力だったわけです。
  だから、仏教推進派の蘇我氏は渡来人で、中国にならって中央集権を進めようとしたんじゃないかと睨んでいるのです。まあ、もうこうなってくると妄想に近くなってきますが(笑)。でも、そう考えると何もかもすっきりするんですよね。
  そういうわけで、飛鳥時代に仏教をテコにして都市が形成され始めます。完全にそれが定着するのは、「大津京」です。私は高校で日本史をやっていなかったのでこんな言い方をしてしまいますが、用語としては「近江大津宮」というのが正しいようです。いわゆる計画都市で、中国式の大都市でした。
  これが何で出来たのか、日本書紀にも書いていないんでよくわからないんですが、やはり渡来人の影響だと思います。大津宮遷都の前に、「白村江の戦い」という対外戦争があり、そこで朝鮮半島の日本権益は全て新羅に奪われることになります。新羅に滅亡させられた百済の遺臣たちが、みんなそろって日本に逃げ込んできて、天智天皇を動かしたのかもしれません。
  余談ですが、天智天皇というのは、白村江の戦いにしても、お母さんの斉明天皇が急死したにもかかわらず外国遠征を決行した人です。それプラス大津宮が渡来人の発案だったとすると、ずいぶん外国人の言いように利用されている人だということになりそうです。
  このあとまた都が飛鳥に移ったり、京都府南部に行ったりと、いろいろありますが、そういう飛鳥時代の末期に「富本銭」と「和同開珎」という二つの貨幣が造られているのは非常に注目に値します。つまり、単なる物々交換や権力者からの分配を超えた経済がここで成立し始めたということです。「富本銭」は出土も少なく、厭勝銭、つまり「おまじない」用のお金の可能性があると言われているんですが、和同開珎については間違いなく交換機能を持った貨幣と言えます。
  こういうものはもちろん、都の遺跡で発見されていますが、注目すべきなのは和同開珎が渤海王朝の遺跡でも発見されているということです。当時の技術からすると、銅は相当数が少なく、貴金属みたいなものだったので、外国との取引でも使われていたのでしょう。
  そして、こういう貨幣を用いて物をやりとりしていたのは、おそらく権力者のそばにいる御用商人だったと推測できます。和同開珎なら、和銅(不純物の少ない銅鉱石)の鉱脈が今の秩父市で見つかったのを記念して年号を「和同」にしたという経緯があります。そういう感じですから、発行したのも権力者、すなわち朝廷で、それを使って物を買いつける役割を果たした人たちがいたはずなんですね。
  貨幣がないと、なかなか商業は発達しません。物が持っている価値を抽象的に表すことができるのが貨幣というものの利点です。持ち運びや保存が楽だから、物を右に左にいちいち動かすのが面倒になった(笑)権力者がこういうものを使うようになったのでしょう。
  
  このへんが、日本における商人という職業が生まれてきた経緯じゃないかと思っています。

  さて、上で私は何度となく「渡来人」という言葉を出しましたが、何が言いたいのかというと、商人が生まれるきっかけになった「都市」の形成、そしてその後の「貨幣」の鋳造、この辺は全て、渡来人が中国側でやっていたことをそのまま持ってきた仕組みじゃないかと思っているんです。そういう意味で、中国における商人の誕生とその発展というのは非常に重要なテーマです。
  中国というのは、農民が多い国です。昔は75%くらいが一次産業に従事していました。今は50%くらいにまで落ち込んでいるようですが、それでも日本の10%前後よりは多いです。
  しかし、中国の「都市」の歴史は古いです。舜堯の時代は神話みたいなものですからよくわかりませんが、周王朝や秦の始皇帝の時代にはもう「咸陽」という都が存在しています。春秋戦国時代に書かれた「論語」や、この時代の故事成語にも、都市の存在を伺わせる記述があります。
  同様に、中国の貨幣の歴史も古いです。ごく初期では、貝をお金の代わりに使っていたのではないかと言われています。財産の「財」、貯金の「貯」でも分かるように、お金を示す字には貝が使われているのがその証拠です。でも、これは正直地域でバラバラで、今の貨幣と言うよりは、●直近の記事で書いた「地域通貨」に近いものだったと思われます。
  全国的な貨幣が使われるようになったのは、秦の始皇帝の時代です。始皇帝の業績として、世界史の教科書なんかには必ず「度量衡の統一」が出てきますが、中国全土の統一に伴って、貨幣の統一もやっています。半両銭というお金です。
  きたねぇなあ、と思うのは、実はこの半両銭は統一前の秦で使われていた貨幣なんですね。つまり、自分が好きなだけお金を作って、それで物を買いまくるということができるようになったと(笑)。こうなると、当然御用商人の活動も活発になったでしょう。

  実は、中国の話はこれからかなり長く続きます。なぜそんなに中国のことを扱うんだ、このブログの管理人は中国が嫌いなんじゃないのか(笑)と思われるかもしれませんが、私が思うに、中国の歴史をきちんと追いかけると、今の日本および世界経済がメチャクチャな様相を呈している理由もわかってくると思うからです。
  そういうわけでこのシリーズはまだまだ続きますので、おつきあいよろしくお願いします。

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