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2011.08.15(Mon)

敗戦で、我々は何を失ったのか 

  3年前の今日書いた記事ですが、有用性があると判断し、一部修正して、再掲することにします。


  今日は、我が国が大東亜戦争(太平洋戦争)においてポツダム宣言を受諾し、アメリカを中心とする連合国軍に降伏した日です。その日らしい記事を書いてみます。


  敗戦といいますが、我々は一体これによって何を失ったのでしょうか?

  直接的には、将兵を含む300万国民の生命と、膨大な財産です。しかし、私が思うに、実はもっと奥深いところで、我々は敗北を喫していて、今に至るまでそのダメージを抱えたままなんじゃないかと思うのです。

  では、一体何を失ったのか。それは「文化」です。

  いくつか引用して、その辺を述べてみたいと思います。  

ヘンプ(麻)について
http://www.asanomi.jp/abouthemp/index.html

麻ははるか遠い昔から、日本各地で生育し、活用されてきました。「縄文土器」の縄文とは麻の紐で作られた模様で、鳥浜遺跡(約 1万年前)からは大麻繊維や種子が発見されています。また、万葉集には麻の歌が55首あります。 「麻」のつく地名が各地に存在することから、麻が日本のいたるところで栽培されてきたことがわかります。

1948年、アメリカ占領軍によって規制されるまでは、日本の主要農産物のひとつとして栽培され、栃木県では米10に対して麻1が作付けされていたこともあります。麻は衣料・食料・灯油・日用品などのさまざまな製品となって、日本人の生活を支えてきたのです。


「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活セミナーの要約
http://blog.livedoor.jp/wellness21jp/archives/19283507.html

私(講演者の鈴木猛夫氏)も誰にも負けないほどの健康マニアですので、戦後の食生活が欧米化した功罪を知っていましたが、巧妙に仕掛けられたアメリカの戦略だとは知りませんでした。

これほど短期間に主食を変えるという食生活を激変させた民族は地球の歴史上ない真因がわかりました。

さらに77年の●アメリカ上院栄養問題特別委員会(通称・マクガバンレポート)の警告を無視し続けている理由もわかりました。

官民あげて栄養改善運動というもっともらしい名称の大プロジェクトを展開したのでした。アメリカから豊富な活動資金を得て、高名な専門家集団を巻き込み、あらゆる手段を使いながら

「米食は馬鹿になる」
「パンを食べないから身体が小さい」
「パンを食べないから戦争に負けた」


などのウソをついてまで国民を洗脳しました。見事に大成功して、パン食(欧米食)はあっという間に定着、今では米作農家の朝食にパンもめずらしくないそうです。

アメリカは、目的のためには手段を選ばない国だということが再確認できました。逆に日本人は洗脳されやすい国民だということですね。

戦後復興のために●アメリカのPL480法(通称・余剰農産物処理法)を受け入れたことはやむを得ない選択かも知れません。しかし、77年のマクガバンレポートで欧米食は健康を損なう欠陥食だということが解明されて日本も警告されたのに無視し続けていることは許せません。


根釧パイロットファーム
http://www.hkd.mlit.go.jp/topics/info/ippan/koho/graph/vol31/31_9.html

昭和30年頃には、既に開墾、入植が始まっていたものの、広大な土地の開拓には人畜力では限界があり、一面未墾の原野が広がっていました。そこで昭和30年度、北海道開発局では、世界銀行の融資を受け、別海町の約7千ha の原野の、機械力による開墾に着手しました。これが根釧機械開墾地区建設事業(根釧パイロットファーム)で、1戸あたり耕地面積を14.4ha、飼育頭数成牛10頭にするという、当時としては画期的な酪農専業経営の実現を目指したものです。


  補足すると、上記の融資を行った世界銀行の総裁はアメリカ政府が推薦したアメリカ人が務めることが通例になっています(●こちらのブログを参照)。

グローバル・スタンダード 1 飼料穀物輸入問題 (創ること。暮らすこと)
http://www.graphlabo.com/blog/konatsu/archives/2005/10/_1.html

高度経済成長期を迎えていた日本は、鶏肉、卵からはじまり、1970年代のマクドナルドの進出から牛肉の輸入。かつ飼料穀物を大量輸入しての国産和牛の増産へと、魚、野菜の生活を転換して、肉食への一途を辿る。かくして、あたかも日本原産かのような高級霜降和牛までが登場するに至った。

驚くべきことに、日本で消費される米の約1.5倍のトウモロコシが飼料穀物として毎年輸入され、アメリカのお得意様となっているわけである。

現在は当時の7倍の肉の消費量を誇るようになった(目下BSE問題で落ち込んでいるが、それでも6倍はキープ)。

冷戦の時代1972年には干ばつの不作で窮地にいたったソビエト(ロシア)への飼料穀物の輸出を開始。アフガニスタン侵攻の際には、輸出制限をかけ、兵糧攻めをして揺さぶりをかけたほどである。


  どうでしょうか。この四つの文章を並べて、何が見えてきませんか?

  そうですね。日本は敗戦によって生命維持の根幹である「食文化」をアメリカによって侵略され、今の今まで彼らの利益追求の道具にされてきたということです。
  日米同盟が何だの、中国よりはましだの、そんなのは関係ありません。事実を並べて、曇りのない目で眺めれば、自然とそういう結論が出てくるはずです。

  それでもまだわかりにくいという人がいるかもしれませんから、流れをまとめておきましょう。

1.日本における麻の栽培禁止

  これによって、貴重な栄養源(大豆とほぼ同等の栄養がある)、広く用途がある麻の実油(ヘンプシードオイル)の原料、そして繊維原料を日本から奪うことに成功しました。
  また、同時期に成立した●大麻取締法により、「大麻=麻薬=悪いもの」というディスインフォメーション(偽の情報を流して敵の意思決定を歪めること)も行いました。

2.日本を食料の輸出市場にする

  小麦、とうもろこし、大豆、綿花、自給率が低い作物は、みなアメリカから輸入しているんですが、これが人為的な現象だったということです。
  上にリンクを挙げた「余剰作物処理法」というルールを受け入れた国は、米ドルではなくその国の通貨で食糧代金の決済ができました。だから、外貨不足(債務の返済に優先的に外貨を回していたたため)だった日本の政府は、渡りに船で飛びついてしまいました。
  ●以前の記事で、エチオピアがこのような侵略の餌食になったことを指摘しましたが、その元祖は我々の日本だったというわけです。
  恥ずかしいことですが、私がこのことに気づいたのは、海城中学という私立中学の社会の入試問題を解いたときでした。学校給食をテーマとして扱っており、さわりだけなんですが、アメリカの援助物資が給食のパンになったという話を紹介していたんです。
  難関と言われる学校に限定されますが、そういう興味深い内容も出題されているということです。

3.肉食の普及と畜産「振興」

  さらに追い打ちを掛けるように、世界銀行を通じて日本に大規模畜産を根付かせます。近代的な畜産は濃厚飼料(大豆やトウモロコシ、肉骨粉などを混ぜた栄養価の高い飼料)を大量に投入して家畜を早く生育させるのが特徴なので、日本で畜産が根付けば、結果としてアメリカ産の農作物がどんどん消費されるわけです。
  そればかりでなく、アメリカ産の畜肉も輸入されるようになりました。マクドナルドの進出は、国民へ肉食の抵抗をなくすことが目的だったのでしょう。1980年代にあった「焼き肉ブーム」も、そういうアメリカの意図があったものと推測が可能です。というより、ぶっちゃけマスコミのキャンペーンはほとんどが外国やその意図をくんだ政府によるPR活動だと思ってしまった方がいいと思います。

  こうして、トウモロコシや小麦の値段が高くなったり、チーズが品薄になったりすると右往左往するような日本ができあがったというわけです。

  分かりますか。侵略って、こういうものなんですよ。弾が飛んで、人が死ぬ戦争なんていうのは、「情報戦」や「経済戦」の最後の仕上げとして行うものなんです。
  そう考えると、アメリカが結ばせようとしているTPP(環太平洋パートナーシップ協定)というものの意味も分かります。このTPPによると、我が国は参加国に対して関税障壁なしに工業製品を売ることができます。しかし、その結果として、域内の安い農産物が日本に入って来放題になります。自給率などという概念は消えてなくなるでしょう。
  そうやって、他国への食糧の依存を高めていけば、ミサイルや空母がなくても、「食べもの売らないよ」ということで、我が国に対して簡単に圧力を掛けられます。別に、これは対アメリカに限った話ではありません。カナダだろうと、オーストラリアだろうと、そういうことはできるようになるということです。;
  そこまで追い込まれなくても、アメリカの基準に合わせて農業に対する規制がなくなれば、資金力に優れる外国のアグリビジネスが日本の農業を全て握ってしまうことになります。旧態依然の農協では勝ち目がありません。
  その結果、表面的な自給率は上がっても、その食べものが中国の富裕層向けの輸出に向けられることになるかも知れません。そして、我々が食べるのは農薬汚染のすさまじいアメリカ産やチュウゴク産、それに、セシウムたっぷりの「国産」だとしたら、話になりません。
  そう考えると、もう敗戦の日に、戦前の日本を呪ったり、神社参拝あれこれで中国朝鮮を叩いたり、そんなことは馬鹿馬鹿しくてやっていられないと思います。
  敵は中国や朝鮮なんかではありません。そんな「雑魚」は放っておいて構いません。ましてや、戦前の軍国主義でもないし、反日ミンス党政権(笑)でもありません。過去を断罪しても誰も救われませんし、売国奴は所詮マリオネットでしかありません。前も何かの記事で書きましたが、多分アメリカとかイギリスといった国家ですらないでしょう。
  真の敵は、我々の生活に根を下ろしてしまった「外来種の文化」なんです。我々を内側から食い破ろうとする寄生虫と言ってもいいかもしれません。

  じゃあ、この侵略をはねつけるためにはどうすればいいんでしょうか?

  はっきり申し上げると、「戦って勝つ」ということは諦めた方がいいんじゃないかと思うんです。敵は我が国のメディアだけでなく、世界の情報産業を全て握っている「超」が10個くらい付く強敵です。個人が挑んでも勝ち目はありませんし、近代国家という仕組みを利用したら、ナチスドイツや大日本帝国の二の舞になってしまうだけでしょう。

  そんなことをするかわりに我々が出来ることは「思い出す」ことだと思うのです。

  要するに、近代以前の日本人の生活に目を向けることです。私たちが、「遅れている」「暗く停滞していた」と教え込まれている時代、たとえば江戸時代や縄文時代をルネサンスすることです。そこには、自然や他者を侵略することなく、調和の取れた持続性の高い社会を実現するためのヒントがたくさんあります。
  これに対して、近代化という形で野蛮な西洋文明を取り入れはじめてからの時代、要するに明治以降には、今の我々が学ぶべきことは何もありません。なぜでしょうか?それは、私たちは、今でも「大日本帝国」の中で生きているからです。文明開化と近年のグローバル化は、モーメント(推進力)が違うだけで、ベクトル(矢印の向き)は同じです。「近代」という名のベクトルです。このベクトルに基づいた青写真で社会を構成している限り、私たちはいずれまた戦前と同じような危機に直面します。

  そして、私たち庶民が「思い出す」ことができるものは何かといえば、やはり食文化に尽きると思うのです。いまさら遅いなどとは思いません。私たちはいまだに醤油や味噌を使った料理を、昔とはだいぶ違う形だけれども食べています。平均して摂取している動物性脂肪の量も、欧米人に比べればまだまだ少ないものです。
  極端に食生活を変化させることは、これはまたこれで問題があります。明日から全ての食事を和食にして、国産以外は口にするな、というのは暴論です。無理のない形で、たとえば、夜だけでも和食にしてみるとか、そういう形で少しずつやっていったほうがいいでしょう。

  原発事故による放射性物質拡散で、汚染された地域もあり、なにもかも国産で賄うというのは、なかなか難しいと思います。しかし、除染を含めて、我々にはまだできる努力があります。
  TPPに加入し、アメリカからの全面攻撃を許すのか、それとも、厳しくても我が道を往くのか。私は、後者の道が選ばれるものと信じています。


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2009.08.06(Thu)

平安・鎌倉・室町~時代のエトスについて(4)〔神戸訪問記その1〕 

  長らくお待たせして済みません。●こちらの歴史の話の続きです。
  7月中旬にたまたま休みが取れたので、関西の友人を訪ねがてら、平清盛ゆかりの地を回ってみました。しばらく、その時の写真を交えながら話していきます。書いているうちに「日本探訪」の方の旅行記なんだか、歴史の話なんだか分からなくなってしまいましたが、どうかご覧下さい。

  平清盛といえば、「日宋貿易」です。どんな教科書にもこれは必ず出ています。
  清盛が、日宋貿易に取り組んだ理由はいくつかあって、まずは単純に天下を取ったので次にやることはなんだろうと探したら外国との貿易だったということです。
  もちろん、それをやるからにはメリットがなくてはいけないわけですが、日宋貿易の場合は「宋銭」という目玉商品がありました。
  宋というのは、その前の唐王朝と違い、なるべく武力を用いずに平和に平和に中国を治めようとした王朝です。それゆえ、武断政治を避け、商業の発展を国の第一方針にしていました。商業を活発にするには、簡単に交換できる手段を作らなければいけないわけで、それが大量の宋銭の発行につながっていきます。この宋銭は、すでに10世紀には日本にも入ってきており、その質の高さや量の手頃さから、やがて西日本で流通を始めました。
  平清盛は、安芸(広島県中央部)や播磨(兵庫県西部)の国司を務めたことがあり、その時代に瀬戸内海の海賊を伊勢平氏の中に組み込むということをやっています。じっさいにそのことが清盛の権力の源泉の一つになっているわけですが、宋銭がモノを買う手段として大いに使えるということは当然理解していたでしょう。
  これは、権力者のたどる一つのパターンです。貨幣というのは、本来物を交換するための手段に過ぎないわけですが、交換する物が増え、流通の機会が膨大になると、物を直接生産するより貨幣を手に入れる方が手っ取り早く必要な物を手に入れられるようになります。貨幣の発行や流通を司る者が経済を制するのは当然のことです。
  ユダヤ系の財閥に「ロスチャイルド家」というところがありますが、その当主だったマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドという人物が、「私に一国の通貨の発行権と管理権を与えよ。そうすれば、誰が法律を作ろうと、そんなことはどうでも良い。」 と言ったのは、このことを物語っていると言えるでしょう。清盛と平氏は通貨の発行権こそ持っていませんでしたが、中国から宋銭を輸入して近畿地方に運ぶことができる唯一の勢力だったわけですから、ロスチャイルドの言うような地位に就いていたと言えます。
  この頃、後白河法皇が、側近と図って、「宋銭は公式の銭ではないから、流通に用いてはならない」ということを朝廷で主張したことがあるそうです。これは、平氏の台頭を快く思わない後白河法皇が、彼らの力の源である宋銭を否定し、平氏を押さえ込もうとしたものだと評価することが出来ます。

  その清盛が取り組んだ大きな事業が二つあります。一つは、「大輪田泊(おおわだのどまり)の整備」であり、もう一つが「福原遷都」です。
  前者は国際貿易港の整備、後者はその大輪田泊の近くへの遷都という壮大な計画ですが、まずは大輪田泊の方から見ていくことにしましょう。

  清盛が整備した大輪田泊は、今の神戸市兵庫区にある「和田岬」一帯に当たります。

     
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  大阪湾は、周囲の河川から流れ込む土砂の堆積で浅くなっている場所が多いのですが、大輪田泊の辺りはそれがなく、天然の良港jということができます。これは、幕末の兵庫港開港、そして現在の国際貿易港である神戸港の利点でもあります。
  昔は和田岬に行くとなるとJR兵庫駅から朝と夕方だけ走っている支線に乗っていくしかなかったのですが、今は地下鉄海岸線を使って、神戸の中心である三宮から簡単に行くことができます。
  地下鉄の和田岬駅を出て、少し歩いてみることにしましょう。

     和田岬1
   海を背に「清盛塚」や「平相国廟」のある方へ向かうと、三菱重工の関連会社の建物の塀にこんなものが描いてあります。神戸造船所の中にある●和田岬砲台です。幕末に海岸防備の必要性から備えたもので、設計したのはあの勝海舟です。

     和田岬2

     ●和田神社(わだみや)です。江戸時代の17世紀中頃に尼崎藩主が造営したもので、主神はイザナギ・イザナミの子供である蛭子大神(えびすおおかみ)です。なんでも、蛭子大神が淡路島から本州に渡ってきたときに最初の一歩を踏みしめたのが和田岬だったとか。今も昔も、この地は良い港だったということなのでしょう。
  兵庫工業高校の脇を通り、北の方に向かうと、十字路の角に「兵庫住吉神社」があり、その一角に「清盛塚」があります。

     清盛塚

  地元の人には清盛の墳墓だと信じられていたようですが、市電の開通に伴いこの場所に移転し、その時の調査でお墓ではなく供養塔だということが判明しました。移転に反対する市民も多かったみたいです。それだけ、港町神戸を歴史の中に登場させた人物への思慕があるということなんでしょうね。

     大輪田橋

  港の方に行く道の途中に橋が架かっており、大輪田泊にちなんで「大輪田橋」と名付けられています。黒く焦げているのは、昭和20年に米軍の空襲を受けた際の傷跡です。
  古代の大輪田泊はどんなだったのだろうと、想像してみるために、港湾施設の間を縫って海に向かいます。

     大輪田泊を望む1

  一応、この方向に大輪田泊があったようですが、昔の海岸線は影も形もありません。

     大輪田泊を望む2

  やっぱり分かりませんね。当たり前ですが(笑)。
  今の神戸港を象徴するものは、どちらかというとこういう設備でしょう。

     巨大クレーン

  工事用のクレーンか何かのようですが、ここまで大きいとは思いませんでした。清盛の時代には、港がこんなものができるとは想像できなかったでしょう。
  しかし、モーメント(動力)は変わったとしても、ベクトル(方向)は清盛の頃から変わっていません。この神戸港の水面も、大輪田泊の水面も、はるかかなたの中国の海とつながっているのです。ここにはないものを、あちら側から持ってくるという、貿易の本質は、清盛の頃と今とでは全く変わっていません。
  私は普段、食糧自給率が大事だとか、入会地を中心に共同体を作ろうとかブログで書いていますし、将来は秩父や比企郡の山の近くで農業でもやって暮らしたいと思っている人間ですが、こうやって港に来ると、いわゆる「シーパワー」というもののもつ魅力が分かるような気がします。この海がどこかで違う世界につながっていると思うと、そこに行ってみたくなります。おそらくその行程は、暦に従って去年と同じことを繰り返す農村での生活より、はるかに面白いはずです。
  農村、つまりランドパワーの持つエートスというのが、二足歩行する人間が、生きるために共同生活を営むという人間の本質に向けられているとすれば、シーパワーのエートスは、未知のものや不確定な未来に対して挑戦するという、人間のもう一つの側面を表していると言えないでしょうか。どちらが優れているとかいう問題ではなく、あえていうならどちらも人間の持つ本能の現れではないかと思うわけです。
  だから、シーパワーの外とつながろうとするベクトルを「売国奴を生む」と切って捨てるのもどうかと思いますし、ランドパワーのベクトルを「時代遅れで効率が悪い」と言い切ることもできません。今は石油文明なのでシーパワーの方が優位に立っているように見えますが、よくこのブログがみなさんを脅すために(笑)持ち出す●石油減耗が進めば、いずれ逆転する可能性もあるわけです。
  その場合もシーパワー的なものは死なないし、むしろそれは場所を限定して我々がより良い生活を送るために生かしていくべきではないかと思うわけです。
  
  場所を変えて、清盛塚からさらに北へ向かいます。私が和田岬を訪ねた日は、生憎と昼下がりになってから天気が崩れてしまいました。
  細かい雨が降る中、たどり着いたのは「能福寺」です。9世紀初頭に伝教大師(最澄)が開いたと言われるお寺です。
  平清盛は「入道様」などと言われることもありましたが、後で述べる福原遷都に伴い、頭を剃って仏門に入ったからです。その儀式を行ったのがこの能福寺だと言われています。

     神戸大仏

  いわゆる「神戸大仏」といわれる大仏様です。明治23年に、地元の有力商人の浄財によって建立されました。なんでも、戦時中の金属集めで初代が入滅(笑)され、今あるのは二代目だそうです。
  その傍らに、「平相国廟」があります。

     清盛供養塔

  清盛が亡くなった後、お坊さんが遺骨を持ち帰ってこちらに葬ったという言い伝えがあります。ただし、こちらの写真にある塔は、源平合戦後、平氏ゆかりの建物がことごとく破壊されたことを残念がった執権・北条貞時が、弘安9年(1286)に清盛を弔うために作ったものです。
  さらに、この港町の歴史を物語る碑が境内にひっそりたたずんでいます。

     神戸事件の碑

  ●神戸事件で、責任を取って切腹した滝善三郎を称える記念碑です。かつて永福寺という別のお寺にあったものを、こちらに移設したものです。
  神戸事件は、備前藩の武士に対して狼藉を働いたフランス人との間のいざこざから、銃撃戦にまで発展したもので、●堺事件と並んで、開国間もない時期に起きた外交問題の一つです。
  最終的に、滝善三郎が切腹をすることでこの一件を収めることになりますが、今までの常識からすれば当然のことを行ったのにもかかわらず、詰め腹を切らされた滝のことが可哀想でなりません。
  しかし、この記念碑が物語っていますが、彼の死が無駄死にだったということは決してありません。私は実は、堺事件は知っていても、この神戸事件は知りませんでした。恥ずかしいことです。
  戦争で亡くなった方々もそうですが、神戸の町の繁栄も、我々の平和な生活も、このような歴史の教科書にも載らない、もちろん入試にも出ない無数の人びとの犠牲によって支えられているに違いありません。
  そうだとすれば、我々が子供達に教えなければいけないのは、愛国心を持てとか、天皇陛下のために死ねだとか、自己実現のための努力しろだとか、そんなものではなく、滝善三郎のような人物がいたのだということ、そして、そのような犠牲が決して無意味なものではなかったのだということなのではないでしょうか。
  そんなことを考えながら、小雨の中、新長田駅の方へ向かいました。以前神戸に来た時立ち寄った「そばめし」の店に行こうと思ったのですが、残念ながら時間が時間なので閉まっていました。
  変わりと言ってはなんですが、大阪の梅田で友人と待ち合わせる前に、その人に勧められた店でこんなものを食べました。

明石焼きたちばな

  三宮センター街の外れにある「たちばな」というお店の明石焼きです。たこ焼きの一種だと思って口に入れたら、ほとんど卵焼きといってもいいような感じでした。だし汁につけて食べるのが普通ですが、実は辛口のソースを付けて食べた方がおいしいです。そういうわけで、後半はだし汁を飲み物として頂きました(笑)。

  次回は、福原遷都について書きます。

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2009.05.04(Mon)

平安、鎌倉、室町~時代のエトスについて(3) 

  「社会科学ブログのランキングにいるのに、政局の記事ばっかり書いてんじゃねーよ」というお叱りを受けそうな予感がしてきたので(笑)、続き物を進めます。世間様は連休中らしいんですが、実は私はあんまり余裕がなかったりします。コメントの返事も、もう少しお待ち下さい。
  まあ、私の事情なんかどうでもいいことですね。それでは、話を始めましょうか。前回は、平清盛という人が鍵を握っているという話をしました。私もあんまり専門的なことは知らないのですが、一応業績を追ってみましょう。

  平清盛といえば、どんな人か。塾に通ってる小6の受験生に言わせると、まあだいたいこんな感じの答えが返ってきそうです。下のやつは、まあ黒板に板書しているとでも思って下さい。

★平安時代に成長した大武士団「平氏」のリーダー
★保元の乱、平治の乱を経て、政権を握り、貴族以外で初めて太政大臣になった
★大輪田泊(現在の神戸)を整備して、日宋貿易を行った


  しかし、これは大事なところが抜けています。清盛の出自です。
  清盛は、「伊勢平氏」というところの出身です。平氏というのはいろいろいるっていう話をこの前しましたね。朝廷にいたらえらくなれないから野に下った皇族に「平朝臣」(たいらのあそん)という名前をあげたからです。伊勢というのは、まあ一応言っておくと、今の三重県です。
  伊勢というと、伊勢神宮が有名ですね。昔から「伊勢商人」という言葉も有名です。なんで伊勢商人が商売になるかというと、伊勢の周りの国々は特産物がたくさん取れるからです。
  隣にある志摩はリアス式海岸があって、海産物の宝庫だったようですね。御食国(みけつくに)とか言ったそうで、ワカメやらなんやらを朝廷に差し出す特別な扱いの国だったんです。
  南の方は紀伊国です。紀伊っていうのは、「木」から来ていて、木材を産出してきた地域です。だいたい山で切った丸太を筏で川の下流に流して、新宮という場所に集めます。それから、伊勢を経由していろんな地域に運ぶんですね。
  そして、対岸にある尾張国とは、「東海道」で結ばれていたんですね。あの、新幹線の通り道を考えないで下さいよ。古代の東海道は伊勢の北部を通っていたんです。名古屋辺りから海路で今の「桑名市」に渡って、そこから鈴鹿の関所を通って伊賀・近江・平安京というのが正式な東海道だったそうです。海路が入ってるのは、当時の技術では木曽三川をまたぐような橋を造れなかったからです。
  ちなみに、鈴鹿の関を東から西に行くから「関西」という言い方がされます。
  さらに、中部地方とは木曽三川でも結ばれていたとなると、もう伊勢国というのは何でも物が集まってくるという感じですよね。

  清盛が生まれた土地も、そういう場所でした。出生地は現在の三重の県庁所在地である「津市」です。「津」ですよ、みなさん。これは重要です。
  日本各地の、津がつく地名がどんな場所にあるか思い出して下さい。東京のあたりなら「谷津干潟」とか「津田沼」、まあこいつらは同じ場所なんですけどね、あと関西なら滋賀県の大津、石川県の津幡、島根県の江津、全部海のそばです。そりゃ当然で、「津」というのは、昔の言葉でという意味なんです。そういえば、伊勢国には「四日市」なんていう地名まであります。四の付く日に市場が開いたからですが、あそこも商業港です。伊勢=商業の国ということが、名前だけでも分かってしまうのは面白いです。
  こういう場所で生まれ育った人物が、何を考えるかということです。ええ、そうですね。政治の根本的な方針が、商業中心になるということです。

  すみません、ちょっと話がそれますが、大事なことをお話しします。近江なんかもそうですが、商人のいるところは交通の要衝です。日本の場合は、近畿地方に商人の活動拠点が集中しています。伊勢、今の滋賀県である近江、北陸なら敦賀や若狭、近世になると大阪も加わりますね。これは重要です。要するに、日本というの国は、東と西が全く異なる国で、その結節点が琵琶湖周辺、すなわち近畿地方であるということです。関ヶ原の戦いが岐阜県と滋賀県の境であったことや、壬申の乱の最後の戦いが行われたのが琵琶湖から流れ出す瀬田川のほとりだったのは、偶然ではないんです。
  人間が絶対に超えられないものってなんだと思いますか。それは距離です。人間は身体を持ってる物理的な存在ですから、遠くなると面倒くさくなるものなんです。そりゃ、現代はいろんな交通機関が発達して、モメンタムっていうんですか、動力は大きくなっていますよ。しかし、そういうものを利用するにはお金がいるじゃないですか。会社か気前よく出張費用を出してくれたり、国会議員みたいに税金でグリーン車を使えたりするなら別ですが、多くの人間にとっては、距離を超えることは日常的には困難です。「去る者日々に疎し」というのも、ある意味で当然です。そういうことを考えると、遠距離恋愛なんていうのは無茶です。できるだけ好きな人のそばにいてあげるようにしてください。
  人間というのはそういうもんですから、何か欲しいものが遠いところにあったら、真ん中というか、とにかくいろんなものが集まってくる場所まではとりあえず出かけて、そこで手持ちのものを交換してくるっていうのが一番効率よく欲求を満たせる方法なんです。クラシックのCDが欲しかったら銀座の山野楽器に行くとか(笑)、そういう感じです。そこに行けば、とりあえずなんか欲しいものが待っていてくれる場所があるといいわけです。
  そういう場所にいて、いろんな場所から持ち寄られた人間の活動力を交換する。それでもって、少しずつ手数料みたいなものをいただく、それが商人というものの本質です。商人の本質は、「つくる」のではなく「つなぐ」ことです。そうなると、いくら道がよくなって、車がどんどん走っても、辺鄙なところの●道の駅がガラガラなのか分かりますね。モメンタムをいくら強くしても、地理的条件というのは超えられないのです。この辺は、地政学にも相通ずるものがあります。
  要するに、近畿地方は、東日本と西日本を「つなぐ」場所なんです。東京に首都が移って、近代国家という税金で動くブルドーザー、もう少し格好良く言うと暴力装置(笑)が関東平野の南にできるまで、近畿地方が日本の中心だったのは、そこに集まってくるものを「つなぐ」ことで、極端にいえばそれだけで需要が生まれていたからです。
  この辺りの事情は、テストには出ませんが(笑)、日本という国の性格、成り立ち、そしてこれからの運命を知るためには、絶対に知っておかなくてはいけないことだと私は勝手に思っています。

  ・・・なんか、この話のタイトルは「商人の歴史」にした方がよかったかもしれませんね。

  長くなりましたが、まだ本題に入っていません(笑)。なんかいつもこんな感じですね。
  では、このブログでは、一応本論に入る前に、平清盛という人物の定義をしておきましょう。

  平清盛とは、商人である。
  
  歴史研究をやっている人からしたら「アホかこいつは」と思われるかも知れませんが、別に気にしません(笑)。専門家の方がやるべき仕事と、私がここで書くべきものは役割が違いますからね。
  ただ、平清盛は商人だ、という風に決めてしまうと、彼が政権を取ってからやったことや、彼を政権トップの座に押し上げた時代のエトス、お、やっとこの言葉が使えたぞ(笑)、そう、エトスが見えてきます。
  
  また予告CM調か!!と言われそうですが、ここで一旦切って、次回は日宋貿易の話に入ります。

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2009.03.22(Sun)

平安、鎌倉、室町~時代のエトスについて(2) 

  さて、●前回は武士がどういう経緯で登場してきたか、平安時代の話をしました。その続きです。少し長くなりそうな予感がしてきました(笑)。
  ついさっき、●PNW10さんからコメントを頂いたんですが、氏が指摘されているように、どうも我々は「武士」という言葉について、何か抜きがたい固定観念を持ってしまっているようです。たとえば「滅私奉公」だとか「君は君たらずとも臣は臣たるべし」とか、そういう理念を持ってる自己犠牲精神あふれるストイックな職業人みたいな印象でしょうか、そういうものが我々の中にはあります。
  しかし、武士の成り立ちというのは農民です。国司の遥任(実際にその地方に赴かないこと)が認められていたので、平安京以外の土地は、ハッキリ言えばほったらかしでした。今のように、全国隅々まで警察や行政の目が行き届いている、まあそれも最近はちょっと怪しくなってきていますが、とにかくそういうしっかりと管理された状態ではありませんでした。朝廷のだれそれが、「おまえは武士である、これから頑張れ」という風に命じて、武士というものが発生したわけではないわけです。
  もっとも、みんながみんな農民からのし上がった連中なのかというと、そうでもありません。貴族だった人が、田舎に行って野生化(笑)したみたいな人もいたからです。典型的なのは、平将門(たいらのまさかど)です。10世紀に関東地方で反乱を起こしたということで、教科書にも必ず出てくる人です。
  将門は、名字からも分かるように、平氏(へいし)という一族につながる人です。なんでも、桓武天皇の子供が、平安京にいても鳴かず飛ばずだからということで、地方へ下向したというのがルーツだということです。●こちらのホームページに、綺麗な系図がありますから、ご覧になるといいでしょう。ちなみに、何で「平」なのかというと、朝廷から出て自活し始めた皇族に、「平朝臣(たいらのあそん)」という名字をやっていたからだそうです。
  後で出てくる源氏もそうですが、こういう人たちは皇室の血を引いているということで、ありがたがられるわけです。日本で一番強烈なブランドですから、旗頭としてはもってこいなわけですね。
  それで、平将門は反乱を起こしたわけですが、「新皇(しんのう)」とか名乗って関東独立みたいなことを企てたようです。結局、仲間の平氏一門に鎮圧されるんですが、彼の果たした役割は非常に大きいものがあります。
  前から言っているように、律令制というのは、現実には存在しないフィクションです。「関東地方のここからここは武蔵守が統治する」などと決めても、秩父みたいな場所に立てこもっている連中がいたら、「そんなの知るか」ということになるわけです。歴史を調べると、京都にいる中央の政権に対して、本来納めるべき税を納めない勢力が必ず出てきます。あまりにも多いので、「税金はきちんと納めましょう」と思っているのが馬鹿馬鹿しくなるほどです(笑)。
  でも、よく考えてみたら、その平安時代のような時期だと「税は(中央政府に)きちんと納めましょう」というかけ声のほうがおかしいんじゃないでしょうか。まあ、今の行政うんぬんについては置いておくとして、はっきり言って平安時代の国司に税を納めても、身を守ってくれるわけでもなく、サービスが受けられるわけでもないんです。
  「わしは武蔵守である」とか言ったって、そんなもん知らなくても生きていけるわけです。今でもそうでしょう。別に憲法や民法を知らなくても、普通に生きていけます。法律相談のテレビ番組とかやってますけど、あそこに持ってこられる案件というのは、ちょっと普通では起こりにくいような事件ばかりです。

  それが律令とか法規範というやつです。法規範はバーチャル(仮想)です。だから、リアル(現実)なものにはどうしても勝てません。我々の生きている時代はバーチャルなものの力が強い時代だからなかなか分かりませんが、本当はリアルなものの方が遥かに強力なんです。
  たとえば、「人の身体を傷害した者は、十五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する」などと刑法に書いてあります。じゃあ、今手に持っている金属バットで人を殴れないのかというと、そんなことはありません。殴ったらこうなる、と書いてあるだけです。つまり、リアルな世界で人を殴るという行為は、バーチャルな法規範で止めようがないわけです。
  そんなことはない、とみなさんが思えるのは、たまたま警察や刑事訴訟制度がきちんと機能しているからです。本来、そうやっていきなり人を殴るような不届きな輩は、自分たちの力で排除するしかなかったのです。
  そのために、武士は武装し、一族郎党で徒党を組んだということです。

  そういうリアルな力を持っているのが武士ですから、平安時代がある程度過ぎると、平安貴族は武士の存在を無視できなくなりました。平将門の反乱を抑えたのは、押領使(おうりょうし)と呼ばれる人びとです。一応役人なんですが、地方で勝手に武装しています。朝廷は、彼らにお墨付きを与えることしかできないんですね。
  朝廷というのは、律令や格式(律令の施行令みたいなもので、延喜式などが有名)という成文法で国を運営していますから、バーチャルの極致みたいな連中です。そういう中央のバーチャルな勢力が権力を保ち続けるには、中央政府の意のままに動く強力な軍隊を持つしかないんですが、この時代は、まだそれが不可能でした。
  もうここまで話すとだいたい分かってきたと思います。武士という人びとのエトス(=出発点、特徴)というのは、徹底的にリアルなものにならざるを得ないということです。それは要するに「土地」と「武力」です。この二つがあってこそ、武士は武士であるということです。
  逆に、江戸時代の中期以降の、俸禄に頼って生活するようになった武士や、明治政府から年金をもらって生活していた士族は、武士とは言えないわけです。武士というのは、行動規範や道徳によってできあがった存在、言い換えればバーチャルな存在ではないからです。もっと言うと、「俺は武士だから」などと自称他称するようになってしまってはいけないのです。それだと、武蔵守と何の変わりもなくなってしまいます。
  そう考えると、PNW10さんが感じた違和感はかなりいい線をいっているのではないかと思います。勝手に評価して申し訳ありませんが・・・。

  すいません。実はまだ平安時代の話が残っています。鎌倉時代の話を始めるには、どうしても避けて通れない人物がいるのです。
  残念ながら、源義家や奥州藤原氏ではありません。奥州藤原氏は、単体でシリーズものを書けるほど面白い存在ですから、今回は意図的に無視します。じゃあ、一体その人物は誰なのかというと、

  
  「平清盛(たいらのきよもり)」


  です。中途半端ですが、ここで切って次回に続きます。

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2009.03.17(Tue)

平安、鎌倉、室町~時代のエトスについて(1) 

  久々に歴史関係のものを書いてみます。今回は、日本の歴史です。鎌倉時代と室町時代を取り上げます。

  あんまり詳しいことは言えないのですが、最近ちょっと時間的精神的にブログに振り分けられるゆとりが少なくなってしまっていて、結構切れ切れになってしまうかもしれません。その代わり、今後なるべく頻繁に更新したいと思っていますので、どうぞよろしくお願いします。

  私大学は哲学科だったんですが、今回の記事みたいなタイトルを出されると拒否反応がありました。「エトスについて」とか、何をかっこつけとるんじゃい、と(笑)。みなさんの中にもそういう風に思われた方がいらっしゃるかもしれません。
  しかし、たいして難しいことや、頭に記憶が残らないような細々したことは述べませんし、大事なことは繰り返し言っていきますから、このシリーズが終わる頃には、多分みなさんの頭の中で、鎌倉時代や室町時代について、有益な視点が残るんじゃないかと思っています。

  本題に入る前に、まず、「エトス」という言葉について説明しておきます。

  エトスというのは、もともとはギリシャ語( ἦθος)です。「いつもの場所」という意味の言葉から出てきたようですが、それが転じて、ヨーロッパで「出発点」とか「特徴」とか、あるいはもっと意訳して「気風」という意味に使われています。
  「出発点」と「特徴」という言葉が、同じ所から出てきていることに注意してください。これが重要です。私が今回、エトスという言葉をわざわざ使っているのは、実はこの「出発点であり、特徴」という言葉が、日本語にはないからなんです。
  
  そこで、まずは鎌倉時代のエトスというものについて、平安時代と比較しながらお話ししておきます。

  鎌倉時代というのは、よく教科書などで、「最初の武士の政権が出来た」とかいう説明がなされます。いいくに(1192)作ろう鎌倉幕府、とかいう年号を覚えた方もいらっしゃるかもしれません。なんか、最近、鎌倉幕府の成立は1192年じゃないんだ、という話が出てきているようですが、私はその辺に詳しくありませんし、興味もあまりありませんので、ここでは触れません。
  しかし、ある日突然鎌倉幕府という武士の政権ができあがったわけではないという点は重要です。ニュースなんかで「麻生政権成立」とか言います。あれは、国会で選ばれた総理大臣が内閣のメンバーである大臣を任命した時のことです。鎌倉幕府の初代将軍は源頼朝(みなもとのよりとも)という人物ですが、この人がある日突然武士のリーダーになったかというと、そういうわけではないということです。そこらへんの理解のためには、鎌倉時代の一つ前の時代である平安時代末期の状況について述べておかないといけません。
  時代というのは後からネーミングしたものなので、そういうのにあまりこだわらなくてもいいんですが、平安時代がいつから始まったかははっきりしています。桓武天皇が「平安京」、つまり今の京都に朝廷を移したからです。7世紀くらいからですが、朝廷というのは居場所をコロコロ変えていますが、この平安京はその後1200年続きました。
  桓武天皇が平安京に都を移した一番大きな理由は、早良親王(さわらしんのう)の祟りを逃れるためだったとか言われています。早良親王は、桓武天皇の弟で、皇太子だった人物ですが、藤原氏の誰だかを暗殺した疑いで監禁されて、そのまま死んでしまいました。長岡京にいるとその呪いが降りかかるというんで、都を北東にある平安京に移したんだそうです。
  今から思うと、なんとまあ馬鹿な理由で遷都をするのだろうと思いますが、ここには実は平安時代までの我が国の天皇や貴族といった支配層の特徴が現れています。平安貴族の思考様式というのは、徹底的に観念的なんです。
  観念的というのは、要するにリアリティがないことでも実行してしまうということです。自分がやり方を変えたり、都を移したりするのにはちゃんと頭の中に理由があるんですが、それが実際にどういう影響を及ぼすのかとか、あまり考えない。
  そういう風になるのは、彼ら平安貴族の権力が、そもそもリアリティがないものだからです。
  たとえば、右大臣が内大臣より偉いのはどうしてかというと、大宝律令にそういう風に書いてあるからです。それ以外に、何の理由もありません。能力が優れていれば、取り立てられるということもあったのでしょうが、右大臣があとからアホになっても内大臣より偉いことは変わりません。
  よく官僚組織を江戸時代に喩えている人がいますが、書かれたルール(法律)があって、それに従って人間の役割や身分の高低が定まっているという点では、平安時代の方がより現代の官僚制に近い気がします。
  
  こういう組織の弱点は、放っておくと世の中の実情と政治の機能とがどんどんかけ離れていくことです。平安時代もそういう風になりました。というか、奈良時代あたりからもうすでにそうなっていたというのが本当のところです。
  正確な言い方ではありませんが、大宝律令には、日本の土地についてたった一つしか規定がありません。「口分田」です。農業生産のための土地は、全て朝廷のものとされ、私有地はありえませんでした。いわゆる王土王民思想というものに基づいており、日本の土地は朝廷が一元的に支配するという大前提があったのです。
  今だったら、コンピュータネットワークでどこの土地は誰のものだということは、かなり詳細に管理できます。しかし、奈良とか平安とかそういう時代にそんなことが出来るわけはありません。しかし、「国土は政府が一元的に管理すべし」という理想はちゃんとあって、それに向けて努力はしていたわけです。
  ●唐の律令を扱った話でも似たようなことを言いましたが、律令制の本質というのは、言葉でしか表現できない理想状態を、官僚機構を通して現実にしようという壮大な試みだったのです。これがいいか悪いかという判定はしません。ただ、すぐに時代に合わなくなってしまうという欠点は間違いなくありました。
  一番の難点は、さっきも言ったように、電信も電話もなかった時代に、中央から地方をリモートコントロールしようとした点です。一番そういうのが現れているのは、国司の遥任(ようにん)です。時代劇や大河ドラマで、武蔵守だとか越前守みたいな「なんとかの守(かみ)」とかいう言葉を聞いたことがありませんかね。あれが国司です。もちろん選挙ではなくて、朝廷が任命します。
  で、こいつらのとんでもないところは、たとえば越前守なら越前守なのに、実際に今の福井県に行かないやつがたくさんいたということです。しかも、これが遥任という言葉で正当化されていました。実際の政治は手下にやらせて、自分たちは平安京で遊んでる(笑)。
  今だったら、福井県知事が県庁にも議会にも行かずに東京で毎日ぶらぶらしているようなものなんですが、これが罰せられないんですね。なぜなら、その当時の律令の運用は、決められた税を朝廷に届ければオッケーだったからです。現地で何が起こっているか、そんなのは全然知りません。しかも、藤原氏みたいな有力な貴族に、土地だの貢ぎ物だのを寄進、要するにプレゼントとして差し上げてもいました。どこの途上国だ、という感じですね。今の我が国の官僚が、それに比べればどれだけ真面目か分かるでしょう。
  国司の遥任が横行したというのは、逆に行ってみれば、律令制を悪用したという見方もできます。国司は、租税を朝廷におさめるというルールは守っているわけです。美しい理想に従って作られたルールが、悪用されるというのは、今も昔も変わりません。
  別に、人間なんてたいして真面目でも潔癖でもない生き物ですし、私もあまり真面目ではありません(笑)から、汚職があったことそれ自体をぐじゃぐじゃ言うつもりはないんですが、こういうときはだいたい犠牲になるのが下々の人間です。農民は、恣意的に税をとったり、労役を課したりする国司にはそうとう痛めつけられていたそうです。非常に有名な例があります。10世紀後半の●尾張国郡司百姓等解文(おわりのくにぐんじひゃくせいらげぶみ)というものです。藤原元命(もとなが)という国司がこれだけひどいことをしている、というのを31ヶ条にもわたって列挙した訴え状です。藤原さんはこれでクビになってしまいましたが、ヤクザみたいな男達とつるんだり、テキトーな名目でたびたび税を取ったり、ちょっとやりすぎだったんじゃないかと思います。
  そして、ここは重要なんですが、藤原さんをクビにしたところで、次に来る国司がいい人だという保証は何もありません。一応「式部省」という役所が役人の査定をやっているんですが、そんなのは藤原一族みたいな有力貴族の一存でなんとでもなってしまいます。
  だから、地方の住民は生活のために、自分で自分の身を守らなくてはいけなくなったのです。これがいわゆる「武士」というものの始まりです。
  初めに偉そうにエトスとはなんぞや、という言葉を出したのに、一度もエトスと言わずに来てしまいましたが(笑)、次回出てくるのでご安心下さい。いったん区切って次回に続きます。

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