テレビは本当に「死んだ」のか?
http://news.nicovideo.jp/watch/nw140088
テレビの危機を指摘するのに、もはや言葉は要らない。客観的なデータがそれを如実に示している。
テレビの視聴率低下がいよいよ深刻である。
10月3~9日の視聴率トップは、日本テレビ系『笑点』で18.1%。これは週間1位としては史上最低の数字だった。さらにその前週(9月26日~10月2日)には、かつてなら低視聴率に入る12%台の番組がトップ30以内に入るといった具合である。
フジテレビ系列の産経新聞は、紙面でこう嘆いた。
〈ついにその日がきた、という感じだ。「12%台」でもトップ30入りしてしまった。前代未聞の事態だ。(中略)ことここに至っては、よほどフンドシを締めてかからないと「回復」どころか「歯止め」すらおぼつかなくなるのではないか、と危惧する〉(10月4日付)
だが、こうした事態にもテレビ関係者は、「録画視聴が多くなったから」だの、「若い世代は携帯やワンセグで見ている」だのと言い訳する。つまり、実際の視聴率はもっと高いはずだと強弁するのだ。
だが、それがウソであることは、種々のデータを見れば明らかである。
今年8月に総務省が発表した「情報通信白書」には、世代別の「テレビを見る」時間を過去と比較したデータがある。若い世代のテレビ離れは一目瞭然。10代では、2005年に1日平均106分だった視聴時間が、2010年には70分と、わずか5年で3割以上も減少している。同様に20代では、2005年に104分だったのが2010年には76分に激減。かつて「テレビの見過ぎだ」と大人たちから叱られていた日本の若者は、この5年で、自然と1日30分もテレビ視聴時間を減らすことに成功したわけだ。
ほかの世代を見ると、50代・60代ではテレビ視聴時間が微増しているが、全世代を通しても1日で4分の減少となっているから、若者の減少分をカバーできなくなっているのが現状である。
さらにNTTコミュニケーションズが2010年3月に発表したテレビ視聴の実態に関するアンケート調査では、20代以下で「ほとんどテレビを見ない」層が14.7%もいるという驚愕のデータが明らかになっている。
しかも同調査によれば、録画して時間のあるときに見る層も17.3%に過ぎず、携帯やワンセグで見る層にいたってはわずか0.5%しかいなかった。
つまり、録画やワンセグという言い訳は完全にウソで、若者たちは、テレビ番組そのものを見なくなっているのである。
※週刊ポスト2011年11月11日号
当たり前だと思います。
芸能人を呼んで、内輪話とバカ騒ぎを延々つないでいく、お茶を濁すような映像と音の無駄遣いを朝から夜まで流されているのですから、飽き飽きしない方がおかしいと思うのです。
ドラマも、作り手の人生経験がワンパターン(判で方を押したような一流大卒、他業種経験もなければ深刻な挫折の経験も無し)なせいか、どれも似たようなキャストと展開で、正直、予告編だけ見ればもういいやと思うものばかりですよね。
ニュースだとか「生活情報番組」と言われるものも、企業の宣伝や、増税国民負担増・TPP推進・自己責任論といった、政府や大企業にとって都合の良いプロパガンダの洪水ではありませんか。
挙げ句の果てに、一番安くて視聴率が取れるのが、日本以上にワンパターンな「韓流」(笑)。
もう、この業界は、正直終わってます。
とはいっても、私は二つのことが気にかかります。
一つは、それでもまだ二十代で、積極的にテレビを見ている層が60%を超えて存在していることです。
このような人の多くが、同じ番組を見ているという共有意識をよすがに他人と関係している人たちでしょう。当然、このような人々は、洗脳にも弱いと考えられます。言い換えれば、テレビが作り出す「空気」を疑う力がないといってもいいかもしれません。
だから、まだまだテレビや新聞を通じた世論誘導は、有効だという方が正しいでしょう。
また、たとえ新しい情報源としてインターネットが台頭したとしても、そこには果たして世論誘導の危険がないのか、というと、そうでもありません。
防衛大学校の教授でもあった作家の孫崎享(まごさきうける)さんが、興味深いことをツイッターでつぶやいています。
http://twitter.com/#!/magosaki_ukeru
シーアイエー/ツイッター:4日AP「シーアイエーはTV,ツイートを監視」「毎日5百万チェック。フェースブック、チャットも。2009年以降ソーシャル・メディアを重視。シーアイエーの追跡センターは中東蜂起を予測。」
シーアイエー(CIA、中央情報局)は、よく知られたアメリカの諜報機関です。そのCIAが、ネット上のソーシャルメディアに注目し、その分析にかなりのマンパワーを投資しています。このように、誰でもアクセスできる情報を収集・分析する方法は、「オープンソース・インテリジェンス」といい、情報機関の活動としてはもっとも基本的かつ重要なものです。
もっとも、CIAはただ情報収集だけで使っているようなお人好しではないでしょう。当然、自分たちに有利になるように、ミスリーディング(誤誘導)やディスインフォメーション(攪乱情報)も実行していることでしょう。
つまり、一見個人の自由で情報収集ができるネット上でも、特定の国家や集団にとって都合の良い誘導が行われる可能性は残っているわけです。しかも、テレビや新聞なら形に残りやすく、それゆえ批判もかなり具体的に可能ですが、玉石混淆を地で行くネットの世界では、批判しようにも証拠が消えていたとか、そういう事態はざらにあります。
私がCIAのインターネット担当なら、Yahoo!とGoogleの役員、もしくはシステム設計やメンテナンスの責任者の弱みを握り(なければ作り)、時々アメリカの不利になるような情報をばらまきながら、ここぞというところでアメリカの国家行動を容易にするための工作を打てるようにします。たとえば、アメリカ軍がリビアに侵攻した直後からしばらくの間、「カダフィ」という言葉を入れても、カダフィ大佐の一家がいかにひどいことをやっていたかという情報しかひっかからないようにしておくとかいう感じです。
中国は、次のように、それを表だってやるからバカなのです。
Googleが中国からの撤退示唆、「検閲をこれ以上容認できない」
http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20100113_341977.html
米Googleは12日、中国の人権活動家のGmailアカウントに対して攻撃が行われたことを明らかにした。この問題などを受け、場合によっては中国事業からの全面的な撤退も辞さないとの見解を公にした。
米Google公式ブログにて、同社最高法務責任者でコーポレートデベロップメント担当シニアバイスプレジデントであるDavid Drummond氏がコメントした。
Drummond氏によると、Googleは2009年12月中旬、中国を発生源とする「高度に洗練され、Googleの企業インフラをターゲットにした攻撃」を探知したという。調査の結果、これは通常の攻撃とは異なり、Googleだけに対するものではなく、インターネット、金融、テクノロジー、メディア、化学など、最低でも20社の大企業に対するものであることも判明した。Googleは現在、これらの企業に事実を通知するとともに米司法機関とも連携しつつ対処している。
さらに、この攻撃の主要な目的が、中国の人権活動家のGmailアカウントにアクセスすることにあったことも判明した。しかし調査の結果、Gmailアカウントの限定的な情報(アカウント作成日付、件名等)が盗まれただけで、メール本文は読まれていないとしている。
これに加えて、Googleに対する攻撃とは別に、米国、中国、欧州の中国人権活動支援者のGmailユーザーのアカウントが、フィッシングやマルウェアなどの手法により定期的にアクセスされていたことも判明した。
Googleがこのような攻撃の具体的内容について公表するのは異例だ。それでも公表に踏み切った理由として、「この情報が言論の自由に関するより大きな地球的議論の核心に迫るものだからだ」と説明している。
Googleでは今回の調査結果と、これまでの「インターネット上の言論の自由を制限しようとする数年にわたる試み」を合わせて考慮した結果、中国における事業撤退も視野に入れていることを明らかにした。
Googleでは「Google.cn」における検閲をこれ以上容認する意思はないとし、今後数週間をかけて中国政府と話合いを持ち、フィルタリングを行わないサーチエンジンを合法的に提供できるかどうか検討する。ただし、最終的に「Google.cn」および中国支社の閉鎖も辞さないとしている。
まあ、こういうことで何度も下手を打ったので、「百度(バイドゥー)」という自前の検索エンジンを作らせたのだと思いますが、それにしてもやり方が拙い。私が、中国が覇権国家になれないというのは、こういうボロを欧米に甘く見てもらっているということに気づいていない腋の甘さ故です。
なにか、こうやって書くと、私が「ネットも、テレビ同様洗脳装置だ」と主張しているように見えますが、テレビと違って、大いに評価できる点もあります。
それは、どんなに小さい声だろうと、自分から発信ができるという点です。
そして、どこかで誰かにその声が届き、お互いに「一人ではない」と思えれば、それが自分の意志で物事を選び、自分の足で立って生きていくきっかけになるかもしれません。
わたくしごとですが、私がインターネットに本格的に時間を割き始めたのは、2002年のW杯の時でした。2002年と言えば、こういうことがあった大会です。
明らかに目立つ韓国戦の「誤審」
http://home.att.ne.jp/wood/aztak/world_cup/sinpan.html
大会開催期間のある晩、帰宅途中に入ったスポーツバーで、イタリア対韓国戦をやっていたのですが、前々から韓国戦を見ていた私は、「どうも、このチームは審判を買収しているのではないか」という疑念をずっと持っていました。
しかし、スポーツバーにいた人たちは、イタリア代表のトッティが不可解な退場に遭ったのを歓迎し、しかも、韓国のFWが挙げたVゴールで大喝采し始めたのです。
「なんだ、こいつら、アタマおかしいんじゃないか!」
と思い、家に帰って、検索エンジンで探してみると、「2ちゃんねる」を中心に、韓国代表に対する怨嗟の声ばかりが聞こえてきます。今から思えば、明らかに洗脳や誤誘導(たとえば、なぜか韓国批判なのに台湾とアメリカを礼賛しているなど)のものもあったのですが、それを見て私は、「ああ、おかしいと思っているのは自分だけじゃないんだな」と安心することができたのは、紛れもない事実です。
確かに、聞きたいものだけを聞いて、見たいものだけを見ようとする人(たとえば、ネット右翼と言われる人にはそういう人が多いと感じる)は、結局反対意見を受け入れず、同じ考えをした人たちだけを取捨選択して寄り固まるのかもしれません。
しかし、それは社会生活である程度避けて通れないものです。結局、社会の中でいろいろ経験するうちに、バランス感覚を磨いていくしかありません。それが、今の社会で、大人になるということなのではないでしょうか。
これが、テレビや新聞となると、それがそもそも社会で「常識」と言われるものの大半を形成しているとみんなが思いこんでいるため、なかなかそれに反論したり、自分で違う角度からものを見たりするという行動が誘発されません。つまり、永遠に社会全体が子供のままでいるという危険が出てくるのです。
それが、最悪の形で結実したのが、戦前に「大本営発表」を繰り返したあげく訪れた、二度にわたる米軍の核攻撃、そして、300万国民の死だったのではないでしょうか。
そして、なぜか知らないうちに増税だのTPP参加だの、原発再開だの、重大な事態が進行している今の社会は、物質的な面を除けば、ベクトルが戦前と非常によく似ています。
この文章のようなネット言論が、一体どこまでその流れに抗しうるかはわかりませんが、黙って死ぬくらいなら、精一杯抵抗した方がマシでしょうし、じっとしているよりも動いている方が面白いことは事実です。
そういうわけで、なかなかまとまらない文章ですが、この辺で終わらせていただきたいと思います。
最後に、明日(11月5日土曜日)のTPP反対デモを告知しておきます。
TPP反対デモ 11月5日(土)13:30~15:00 有楽町イトシア前
と き 11月5日(土)13:30~15:00
ところ 有楽町イトシア前
弁 士 中野剛志氏他、国会議員、著名ジャーナリストを予定
15:30~デモ行進。日比谷公園霞門から行進スタート
17:00 終了予定
デモ行進プラカード用の図案集を「さるでもわかるTPP」HPよりリンクしました。
下記のアドレスをクリックし、活用ください。
http://luna-organic.org/tpp/placard.html
問い合わせ先 TPPを考える国民会議 山本晶三 03-3288-1154
デモコース:日比谷公園霞門(集合)→霞ヶ関1→霞ヶ関2→
財務省→官邸前→国会裏議員面会所(請願提出)→参議院通用門前 →
区立麹町中学校前(解散)
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スポーツは、ただ面白いだけで存在意義があると思うのですが
なでしこパワー ひたむきさが壁を破る
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2011072002000003.html
「なでしこジャパン」が、サッカー女子ワールドカップ(W杯)を制覇した。そのしなやかでひたむきな姿は、大きな感動を生んだ。世界の壁を破った力は、社会も元気づけてくれる。
「あんな小さな子が、大きい人たち相手によく戦ってくれた」
凱旋(がいせん)帰国したなでしこジャパンの姿に、あるファンが漏らした思いだ。同じ思いの人も多いだろう。
戦いぶりは堂々としたものだった。速いパス回しと高い技術で、女子サッカー大国・米国相手に見事な試合を見せた。
なでしこたちは男子のようにプレー環境に恵まれているわけではない。一部にプロ契約選手はいるが、多くはアマチュアだ。昼間働き夕方練習に駆けつける。収入は多くはない。以前はパチンコ店に勤める選手もいたという。
海外プレー組も競技生活は楽ではなく、日本サッカー協会が、わずかだが日当を支給している。
競技生活を維持すること自体が至難の業だろう。「サッカーができる喜び」をかみしめて、ただひたむきにボールを追う姿に大きな魅力を感じた。男子と並んで女子が活躍する。これは社会全体にもいえるのではないか。
働く女性の数は昨年、二千三百二十九万人と過去最高になった。働く全人口の四割強が女性だ。働く分野も「医療・福祉」分野が初めてトップになった。病気を抱えた人や介護が必要な人に接する分野だけに、ひたむきに働く女性の活躍が期待されている。それは他の分野でも同じだろう。
ただ、女性就業率(二十五~五十四歳)は、経済協力開発機構(OECD)加盟三十カ国中二十二位だ。就職活動中ではないが働きたい女性(二十五~四十九歳)は、女性労働力人口の一割強、三百四十二万人いる。
女性が働きながら子育てしやすい環境整備も不十分だ。内閣府の子ども・子育て白書によると、子供のいる男女が希望する子供数は、米国も日本も二・三人と同じである。
だが、実際に希望人数まで増やすか聞くと「増やしたい」人は米国の62・7%に対し、日本は42・8%にとどまった。「育児にお金がかかる」「働きながら子育てできない」などが主な理由だ。
なでしこたちは「女子サッカーの待遇を改善したい」という共通の思いがあった。女性の潜在力を社会でどう発揮してもらうか。世界の頂点からのメッセージをしっかり受け止めたい。
みなさんは、この社説を見てどんな感想をお持ちでしょうか。多くの方は、「ああ、なるほど」とお思いかもしれませんが、私の考えは違います。
もちろんですが、今回の女子サッカー日本代表の活躍ぶりにケチを付ける余地はありません。スウェーデン戦の失点、アメリカ戦の1失点目のような凡ミスはあったにせよ、組織的に守備を行い、前の方で取ったボールを素早く展開してゴールを狙うサッカーはおおむね成功していました。男子サッカーと異なり、ペナルティエリアに入り込んでいく選手が多いという点でも、非常に攻撃的な姿勢があり、ただ単に粘りだけで勝ったのではないことは明らかです。
しかし、ワールドカップでの優勝に対する、特に大手メディアの反応は、どうも「後付け」「牽強付会」「我田引水」のきらいが否めません。今回取り上げた中日新聞の社説など、まさにそうでしょう。
細かい部分はいろいろあるのですが、一番頭に来るのはここです。
>女性の潜在力を社会でどう発揮してもらうか。世界の頂点からのメッセージをしっかり受け止めたい。
まるで、日本代表の選手達が、日本社会における女性一般の地位向上のために戦っていたかのような言い草です。彼女たちは、大会前、そして、大会中も口々に「優勝したい」と言っていましたが、それは競技選手であれば当然思うべきことで、別にそこに何か、社会に貢献しようとか、女性の待遇を良くしようとか、そういう「邪念」があったわけではないと思うのです。
それを、こうやって強引に女性一般の話に引き延ばしてしまうのは、中日新聞の社説子のみならず、大手メディアの記者や編集者に、しょせんスポーツは(自分たちが日頃携わっている)政治経済よりも下の存在で、政治や経済に対して何かプラスがあってこそ意味があるのだ、という、超上から目線の考え方があるからなのではありませんか。
はっきり言ってしまえば、スポーツなどというのものは社会に不要です。私は●岩渕選手のドリブルが大好きなんですが、こんな動きを日常生活でする必要もありませんし、ドリブルなんかできなくても、給料をもらう仕事をやったり、農作物を作ったりすることはできます。それどころか、農作業やデスクワークの途中にドリブルの練習なんかやっていたら、「ふざけてないで仕事ちゃんとやれ」と、言われてしまうのがオチです。
しかし、もしその論理どおりに社会が運営されるとするならば、「祭り」と呼ぶようなものはこの世の中に一切不要だということになります。だって、そうでしょう。御輿をかついだり、神楽を舞ったりすることに、近代経済システムの上から見た合理性なんて少しもありません。縁日なんかに人が来てお金を落とすというなら、そんなものより中国で大量に作った品物をCMで宣伝してバンバン売った方が絶対にもうかります。
究極の話、スポーツに限らず、何からのお祭り的要素があるイベントというものは、無意味なことや馬鹿馬鹿しいことをいかに真剣にやれるかという一点に、その価値が凝縮されているのです。なぜなら、そういうイベントは、「日常」と違うことをして、普段の生活の不条理や不満を解消するための機会だからです。諏訪大社のお祭りで、人が死んでもでかい柱を上から落とすイベントがなくならないのも、家や電柱や壁が壊れて人が死傷しても岸和田のだんじり祭りが続くのも、それをやってる時の非日常な空間がたまらないからです。諏訪大社の御柱祭に、警察がしゃしゃり出てきて、柱が斜面を下るスピードなどについて事細かに安全指導をやったらどう思いますか。そんな祭りなら、やらない方がましだと思うのではありませんか。
そういう、非日常性の持つ価値を分からずに、なんらかの政治的・経済的な意味を与えようとするのは、結局、そういう人たちが何でもかんでも役に立つもの、意味があるものでなければいけないという病気に罹っているからです。「なでしこで経済効果1兆円」だとか「働く女性を勇気づける勝利」だとか、そんなことを書いて悦に入っているのは、はっきり言って病気です。
まあ、新聞の論説委員なんかは、何でも経済的な合理性がないといけない世界で、自分たちがいい目を見ているからそういう視点になるのはある意味道理でしょう。しかし、庶民がそんなものにひきずられる必要はありません。私から言わせてもらえば、金儲けの方法だとか、政治の話題だとか、そんなものをいつもいつも論じている人間の方がよっぽど下らない人間だと感じます。
同じような理由で、このワールドカップでの快挙を、震災だとか復興だとかに結びつけようとするのにも私は反対です。「被災地のために」などという理由で、あそこまで頑張れるものではありませんし、頑張る必要もありません。勝ちたいから、もっと上に行きたいから、そういう気持ちだけあればいいのです。スポーツはそういうものだからこそ意味があるのです。国威啓発だとか、政府の不満から目をそらしたい意図だとか、そんな下らないこととは切り離して楽しむべきです。
今回取り上げた社説に、深く納得してしまった人は、いちど考えてみた方がいいかもしれません。社会的な意味合いだとか、経済効果だとか、そういうものにばかり価値を置いてしまって、自分は生きることそのものを楽しんでいないのではないか、と。
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言葉が軽い
「ペテン師」発言を陳謝 鳩山前首相、グループ会合で
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011060901001145.html
民主党の鳩山由紀夫前首相は9日の自らのグループ会合で、退陣時期の認識をめぐって菅直人首相を「ペテン師」などと批判した発言について「今、求められているのは冷静な心だ。私も一時冷静さを欠いた発言をして大変ご無礼をした。おわびしたい」と陳謝した。
鳩山氏は、菅首相退陣後の政権運営に関し「党と国をまとめる行動力、リーダーシップが今、われわれに求められている。皆さんの協力の下につくり上げていきたい」と強調した。
鳩山氏はニュースでの扱いなどを見ていると不人気な政治家なのかなと思えるのですが、●内政干渉の窓口である日米規制委員会を廃止したという点は素晴らしいことをしたと思っています。
しかし、このニュースにはがっかりです。
男同士の差しの会合で「退陣する」と約束した人間が、その後みんなの前で釈明する時になってどうとでも採れる言葉で自分の引き際を説明し、あげく「○○は私の務め」などと言って居座りを決め込むというのは、世間一般の基準から言ったら「ペテン師」です。
そして、そのような信義に反する人間が、他人から拒絶されるのもまた当然のことです。
だから、鳩山氏が菅を「ペテン師」であると批判したことは、誹謗中傷でもなんでもありません。
それなのに、なぜこうもあっさりひっくり返すのか。
鳩山氏が非難した相手は、ペテン師、詐欺師、殺人者、税金泥棒、風説の流布、居直り強盗といった言葉で形容するのにふさわしいことをやってきている人物であり、党内や国民の中にも、「よくぞ言ってくれた」と思った人間も少なくないでしょう。
しかし、それを簡単に撤回してしまう。言葉の持つ重みが全くありません。
●以前の発言をなかったものとして平気で開き直る官房長官や、彼の上役である人格破綻者もそうですが、今の政権を構成している議員というのは、どうも自分が口にした言葉に責任を持つという姿勢がはじめから欠けているのではないかと思います。
私は、ネット上で無責任な発言を書き込む輩に非常に強い嫌悪感を持っていますが、そういう、言葉を粗末に扱う姿勢を助長しているのが、昨今の政治の世界にいる人間達の無責任な言葉遣いなのではないでしょうか。
他人を「ペテン師」と呼ぶならば、相当な根拠や、相手と対立しても構わないという覚悟をもってやるべきです。ましてや、今回鳩山氏がなじった相手は、それ以上のことをしてきているわけですから、簡単に赦すべき相手ではありません。
なんだ、この人も結局国民にとって何の利益にもならない「党内融和」が大事なのか、と、思ってしまったのは私だけではないと思います。
一度背信行為を厳しく論難したなら、(相手がそれを改めるまで)その姿勢を貫き通してほしかったものです。この辺の弱さが、1年と持たずに政権を放棄せざるを得なかった鳩山氏の「器」なのかなと思ってしまったりもします。
それにしても、すっかりニュースが民主党というコップの中の嵐に関するものばかりになってしまいましたねぇ。国民の関心を内部被曝とか汚染水放出(という名の海洋汚染)とかからそらしたいのでしょうか?
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忠告と他者支配について
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何でも他人の言うことを聞かず、勝手気ままな行動を採る人間には困ったものだが、全ての忠告に対して素直に耳を傾けるというのは、もしかしたら非常に危険かもしれない。
なぜなら、忠告や讒言のふりをして、他者を支配しようとする人間がいるからだ。
人間は、生き残るということに対して本能的な行動を採るものだ。その一つとして、他人を思うままにコントロールするということがある。心理的に相手を支配すれば、何かあった時にその他人を身代わりにしたり、緩衝材の役割を果たさせたりすることができる。そういう点で、他者支配への欲求は、人間の本能と結びついているといえる。
別に、他人を思い通り動かしてカネを儲けたり、悪いことをさせたりするとは限らない。支配することそのものに喜びや精神的安定を見いだす輩もいる。そういう人間に捕まってしまっては危険である。
興味深いことに、忠告に名を借りた他者支配というのは、端から見ると馬鹿馬鹿しい関係に見えるのだが、なぜか被支配側はその馬鹿馬鹿しさに気づかない。支配側に引きずり回され、気づいた時には、一緒に地獄の淵に立っていたということもよくある。
そのようなことがなぜ起こるかというと、被支配側に特殊な心理が働いているからである。それは、忠告に言寄せて他者支配を狙う人間に対して「この人は自分のことを思って行ってくれているんだ」と思い込んでいるという心理状態だ。
全くどうでもいい相手や、あからさまに欲得を前面に出してくる人間であったら、こういう心理状態に陥ることはない。被支配側が支配側になんというか、片思い的な感情を持ってしまうのは、支配しようとする人間になんらかの「負い目」があるのである。それは、一緒にやってしまった過ちだとか、カネを借りているだとか、昔世話になった事実だとか、至極真っ当な理屈(現実には合っていないが、限られた世界の中で論理的に整合性がある話)とか、様々な形を取る。
そして、その負い目を背負うに至った時期に、支配側が人間的に好感の持てる態度を取っていたことで、「負い目」は確固たるものとなる。
今まで自分はこういう人を何度も見てきたし、恥ずかしいことにごく最近まで自分自身がそういう被支配側の行動パターンに陥ってしまっていた。
そういう経験から自分が学んだことは、以下の事項である。
●一人の人間をカリスマ的に仰がない、溺愛しない
これを持つと、「従う自分」にカタルシスを感じてしまうことになる。一番避けなければならない事態だ。恋人だろうと配偶者だろうと親子だろうと同じである。人間には、どんな親しい間柄でも適切な距離感というのがある。
●おかしいことが少しでもあったら、他の人に相談する
これができれば、支配しようとする人間のおかしさに気づきやすくなる。自分の考えが常に正しいと思わないことだ。
●何かを決めようとする時は、必ず複数の人間のアドバイスを突き合わせる
こうすることで、何かおかしいという感覚に至りやすくなる。
●生き方や生活形態を変更するような要求は拒否する
たとえば、私がブログやSNSで知り合った人に「カネをかせぐ都会的な生き方はやめて、地方に行って農的生活をやれ」などと呼びかけることなどがそうだ。今まで築いた環境や人的関係を捨てて自分の言うとおりにすれば、支配側にとってこれ以上の快感はない。もし失敗しても、支配欲のある人間は全く責任を取ってくれない。それどころか、ひとつ下に挙げたような言動で、さらに支配を強化しようとしてくる。
●困った時に罪の意識や義務感に訴えてくる人間の言うことはきかない
精神的に打ちのめされた人間ほどコントロールしやすいので、追い打ちをかけてさらに自分に依存させようとするのだ。カルト宗教が貧乏人や病人を狙うのと、やり方としては非常によく似ている。
●直感的におかしいと思ったら、論理的に正しくてもやめておく
頭で考えた結論というのは、後付の正当化や自分の弱さ、場違いな願望など様々な要因でひきずられているものだ。与件なしでピンと来た感覚を信じた方が正しいことが多い。非常に恥ずかしいことだが、自分はこれがあったから助かったようなものだ。
●一度縁を切ると決めたら、どんな形であれ接触はしない
油断するとすぐに支配関係の再開を狙ってくるのが支配欲のある人間だ。完全に関係を断ってしまわなければならない。断言してもいいが、この手の人間が改心するということはない。
●本当に素晴らしい人間は、言うよりもまずやっているという単純な事実を知る
他人の生き方ややり方に対していちいちダメ出しや評価をしてくる人間にろくな奴はいないということだ。自分も、自信がない頃は他人の生き方が気になって仕方がなく、「アドバイスできる素晴らしい自分」になろうとして、機会を見つけては他人に干渉していたものだ。
人間は弱い。だからこそ、考えることをやめて、誰かに生き方を預けたくなるときがある。
不利益やリスクを本気で考えるというのは、嫌な作業だ。しかし、それをやらずして、本当の人格的自律は得られないだろう。
人にどうこう言うより、まず自分が良い人間になること。それが全てを解決する早道だと思う。
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カネはヒトを捨象する
では、カネがヒトを捨象するというのはどういうことか。
以前、ひとり寂しい老後に備えようと、投資用の不動産を購入しようと思ったことがある。仙台や札幌のように、東京より地価が安い大都市圏でワンルームを買い、それを他人に貸して上がりを得ようという考えだった。
そうなると、買いもしないのに、ローンの支払い計画だとか、どんな相手に貸そうだとか、いろいろ考えてしまうわけだ。これを、いわゆる妄想というのだが(笑)。
その関連で大家の経営指南めいた本を読んだこともあったのだが、その中にあったのが、大学生はいい借り手だということだった。4年間は家賃を納めてくれるし、親が家賃を払ってくれるので取りっぱぐれがないからというのがその理由だった。
面白いことに、生活保護世帯や母子世帯なんかをターゲットにした賃貸というやり方も紹介されていた。なんでも、他に比べて割安な家賃にしておけば、そういう人は他に出て行かないというのだ。
後者は言い様によっては行き場に困る人に住む場所を提供してやっている側面もあるからいいとして、前者の例は、カネというものの性質をよく表しているように思う。
つまり、大家が他人に不動産を貸し出すというのは、カネを得るためである。逆に言えば、その一点を除けば、借り手の人格などに興味はない。ヤクザや中国人に物件を貸したがらない大家が少なくないのは、彼らがよけいな修繕費をかけさせたり、周囲が空き物件になる可能性が高まったりするからであって、カネをきちんと払って迷惑をかけなければ、貸すことに問題はない。
大家と店子の間には、人間的な接触は必要ない。そういう面倒くさいことは、管理会社に手間賃を払えばやってくれる。そうすることで、資産家は複数の投資案件を管理できることになり、より多くカネを得る機会が増すのだ。
そこには人間の姿はなく、カネの大小しかない。人間の様々な要素が捨象されているのだ。
投資の世界だから、そういうのは仕方がないと思う向きもあるかもしれないが、昨今はこれが「雇用」だとか、あまつさえ「家庭」にまで下りてきているのが現実である。
すなわち、会社は労働者に払う賃金をコストとしてしかみなさなくなり、なるべく低賃金で人を雇おうとする。その結果、工場や中国に移転し、会社は派遣社員だらけということになってしまっている。
もちろん、この論理は大きな流れから見たら問題がある。賃金を初めとする企業支出は、すなわち他の企業の売り上げになるわけで、やがて必ず総需要を形成する。そして、企業自身がモノを売るという形でその恩恵を受けることになる。
しかし、今の企業はミクロな視点で利益を上げることしか考えていないし、そうすることが良いことだと喧伝されている。まあ、経済循環を活発にしたくても、外資や銀行といった株主が「配当を払え」とうるさいからできないのもあるかもしれない。
家庭というのは、婚活などというアホらしい産業を見てみると分かりやすい。相談員は、女性相手に必ず希望年収をきくそうだ。結婚相談所というのは、不特定多数の会員を紹介するので、その中の一部を抜き出すとなると、どうしても年収のようなデータでふるいをかけて行かざるを得ない。
というより、そういう相談所に伴侶候補を求めて来訪する女性は、希望年収を前提に相手を選ぼうとしていることがほとんどではないのか。
もちろん、長期的に安定した家庭を営むためには、性格が合うだとか、同じ目的意識(たとえば子育て、家業)を持っていることだとか、年収の多寡以外の側面が大きく影響する。しかし、大勢の中からピックアップするとなると、カネをどれだけ稼ぐかという点だけが問題になってくる。
ここでも、人間の諸要素は捨象されていることがわかる。
以上をまとめると、今の社会は人間を評価する時、「いくら稼ぐか」「どれだけ損をするか」という、金銭的な利害得失だけに焦点を当てている。そして、それ以外の要素はほぼ無視して人間を評価することになる。
これが、「カネがヒトを捨象する」ということの意味である。
これは、日本が近代経済システムを導入した明治以降、必ず訪れる必然であった。しかし、戦前においては、日本の土着文化があまりに強固だったため、徹底した破壊は進まなかった。
そして、戦後日本でも、冷戦に隠れて経済発展を遂げ、右肩上がりの成長の恩恵にあずかれる人が多かったため、カネのことに汲々とする必要がなかった。 そうやって、ごく最近、おそらくは昭和天皇が崩御する頃まで、カネによって捨象されることの残酷さに気づかずに来たわけである。
今、我々、特に若い世代は、カネの持つ捨象作用に切り刻まれ、あっけなく捨てられる運命にある。これを見て、一部の者は、よく一定の地位を占めている団塊の世代等が若者を締め出しているのだという。
しかし、問題は世代間対立なのではない。上の世代は、カネをよりたくさん得るために、新参者をうまく利用しようとしているだけである。憎くてやっているわけではない(そういう感情を、社会上層部に利用されている節はある)。
先日の取手の刃物男や秋葉原の無差別殺傷事件の被疑者、さらには自殺する小中学生というのは、そういった社会の冷たさを感じ取って、おかしくなってしまったのではないか。
そうだとすると、我々ができることは、今の経済システムから徐々に抜け出し、人間を不幸にしない新しい経済の仕組みをつくっていくことである。
具体的には、自分たちで衣食住をまかない、エネルギーを自給し、余剰生産物は地域単位の減価する通貨で交換する。そうすることで、カネを貯めてヒトに貸すことが不合理になり、金融(カネをきちんと返すかどうかしか興味がない、捨象の最たるもの)が頂点に立つことがなくなる。
今はまだ、いろいろな慣習やしがらみが居座っていて、なかなか「近代」の壁を打ち破るのは難しい。自分たちが取り組んでいる自給的な農業ひとつとっても、そういう障壁を痛いほど感じている。
しかし、そんなものに負けていては世の中を変えられない。今は我慢の時である。やがて来る我々の時代は、我々自身が良い方向へ変えていく。そういう気概がなくては、真の変革は成し遂げられない。
いつか必ず、実現しよう。ヒトが捨象されない社会を。
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